美術
池之端画廊さんの日本画院展第二会場にて、望月春江の作品をガン見する。 東京藝大(美校)トップ入学(勉学一位、絵はビリ)をして、毎年首席。 元は医師志望。 浪人中に中川忠順に絵をみせたところ画家になることを勧められ、美学校を受験す。雅号ものちに作品…
ロバート・クラウダー展、池之端画廊で2度目の鑑賞。 戦前日本美術に憧れて来日し、本郷台で英語教師をしながら望月春江に絵を学ぶ。 英語教師として熊本の五高へ。 五高の外国籍の英語教師は小泉八雲に次いで2人目。 日本名の黒田はクラウダーから。正次は…
読売新聞系列のメセナ(メセナ(フランス語: mécénat)とは、企業が主として資金を提供して、文化・芸術活動を支援することである。Wikiより) 美術館連絡協議会は事務局も読売新聞社内にある。 https://birenkyo.jp/「1. 展覧会の共同企画や巡回展開催毎年、…
銀座の銀座K's Galleryにて熊谷登久平の最後の弟子、鴨下葉子さんの個展があり鑑賞する。 〒104-0061 東京都中央区銀座1丁目13−4 大和銀座一ビル6F 京橋のギャラリー川船さんまで歩き、川船さんと戦後京都駅での画家たち乱闘事件というよりリンチだよね…
我が家と一関の親戚に残る学芸員がやったのであろう熊谷登久平の調査の痕跡。書き文字に特徴があり、ほぼ特定しているがコロナ禍でお会いできず相手さんが前年度に定年退職をされたと知り、血の涙を流している。 その方が岩手県出身の洋画家萬鐵五郎の研究を…
明治34年(1901年) 10月2日、岩手県東磐井郡千厩町に、熊谷喜造(二代目半兵衛)とまつみの長男として生まれる。 本名、徳兵衛。大正8年(1919) 18歳 一関中学を卒業 「潮来の村」 大正10年(1921) 20歳 この頃上京し、中央大学商学部に学ぶ。 また、川端絵画学校…
http://www.dokuritsuten.com/shinjin/2020/winner.htmlかつて、いや今も独立美術協会の会員になるのは大変。 我がイケメンな義父の熊谷登久平は独立美術協会の前身の1930年協会時代から出品を続けて、独立美術協会第1回からもずっと入選していたが、賞をと…
熊谷登久平の従弟の息子さんが一関の図書館で撮影してきてくれました。 岩手日報は戦前の盛岡での熊谷登久平展の時のスポンサーで戦後も多分あった。かな。戦前の一関での個展は岩手日日新聞。仙台は河北新聞。気仙沼は大気新聞。山形は山形新聞。山形に関し…
白日会に熊谷登久平が持っていた戦前の資料を少し届けた。 今の事務局の人たちは存在を知ってても見たことがない品々。 戦前の写真も熊谷登久平と仲間だった村上鉄太郎氏のお孫さんが持っているものは貴重だとのことで、コロナ禍が落ちついたらとなった。白…
秋山巌生誕100年展に行ってきた。 (義父の熊谷登久平は生誕120年。) 大英博物館 ヴィクトリア国立美術館 イスラエル国立美術館 ケンタッキー州立美術館 ボン大学 スコットランド国立美術館 他に収蔵されている凄い版画家さんであるが、絵もある。 大英博物館…
結構、まだ疲れが残っています。 足立区の江北にあった私設美術館がなくなっていて、消息を求めたら栃木県の矢板市にも美術館があった。 が、矢板市に問い合わせたら閉館したかもな。館長だった住友医院の院長が書いた日本の洋画家たちの本が私は結構好き。…
朝電話があり江東橋一丁目町会の東京大空襲慰霊碑にご案内をした。 誰かが花を供えてくださったようだ。 線香は夫が供えてきたけれど花は久しぶりだ。池之端画廊さんから熊谷登久平の絵を持ち帰ってきた。昨日美味しそうな行商さんがいた。
おかげさまで、熊谷登久平生誕120年と日本橋の柳屋画廊での遺作展から50年の個展は開けたので、次は美術館で熊谷登久平の作品を複数並べるのが夢。 目指せ長谷川利行のパセリから前菜。明日は国土地理院の予約が取れたので熊谷登久平の口伝、オーラルヒスト…
コロナ禍で萬鉄五郎記念館の企画展に行き損ねた。 いつかはここにも義父の絵が入ればと夢見てる。 熊谷登久平も岩手県出身の洋画家で野獣派だからいつかは。 生誕120年を岩手県でやりたくて、でもやり方がわからなくて、地域史からアピールするしか思いつか…
池之端画廊さんに季節外れの蜻蛉がいて、儚いと思いつつ昼過ぎのこれから冷えてくる外に出しました。 お好み焼き食べました。
本日の東京新聞に私が再婚前から調べている墨田区の江東橋一丁目町会の東京大空襲慰霊碑の記事が載りました。https://www.tokyo-np.co.jp/article/90150 この石碑は我が家の裏にあります、つまり台東区谷中の4丁目。なぜ墨田区の江東橋の慰霊碑がと、台東区…
311と重なるので掲載は未定ですが、熊谷登久平展の取材をして頂けました。ヤフオクに私の先生の絵が出てて、状態の悪さに手を出しそびれた。 光風会の田中祐一先生の絵で私が大好きだった高砂の採石場跡の作品は阪神淡路大震災で失われた。 凄い絵を描く先生…
表紙のことばニースの宿 熊谷登久平ここは南仏ニース。ホテル・アトランテックの十号室、街に面したテラスのすぐ上の室鈴懸 の樹かげに、美しい色とりどりの日傘がならんでゐる街。そして隣の室からは、SANIRTE MARTHE とかかれた緑の看板のおくの黄色の屋根…
現在、池之端画廊さんに展示いているムーラン・ルージュはフランスのムーラン・ルージュの前で熊谷登久平が描いた修作で、本画は日本への帰国後に台東区谷中のアトリエで描いた。谷中のアトリエで描いた作品が厚生省が出していた冊子、「ねんきん」の表紙と…
唐突だけど多治見市陶磁器意匠研究所の元所長の川上景也さんが私の母の従弟で子どもの頃は避暑に遊びに行っていた家。 (母方の祖母は岐阜の恵那の旧家の娘で洋画家たちとの交流もあり、そのため祖母は美術が好きで、祖母の長女には画才と文才があり東京の女…
熊谷登久平の『家』とニコライ聖堂、この二作品は岩手県立美術館に納められている千厩警察署と同時期と私は考えている。 その理由はタッチもだが、額装で隠れる部分を絵の具で塗ってない。 二科展に入選するまで登久平は家業を継ぐことを願う父親から勘当さ…
勝海舟がよき友と書き残している、熊谷登久平の生家日野家出身で横浜港開港の立役者の1人でもある熊谷伊助の直系、片瀬熊谷家の美波さんが来展示してくださったので一緒に池之端の鰻の老舗の柏屋さんでランチをした。 旨し。 美波さんのご先祖の岩手県の千厩…
#池之端画廊 さんの『時代を彩った洋画家たち(ll)は明日で終わり、次は義父の #熊谷登久平展 です。 夫と来客ゼロだったらどうしようかと怯えております。 密にはならないよね、それが大事だよね。と慰め合いながら。つか私はここんとこ眠れません。大正時代…
熊谷登久平の作品の名前を調べるために、相変わらず右往左往をしている。 で、今日は東京文化財研究所に予約待ちの状態からやっと入れた。 で、義父の資料を出していただいた中に、 『紀元二千六百年奉祝美術展覧会出品 冷泉流鑑月歌会』の彩色絵葉書があっ…
おかげさまで、東京新聞下町支局さんから先日受けた取材が記事になりました。熊谷登久平の書いた文章も引用されてて、ありがたいことです。 覚えている人が減っている画家なので、23区内美術館に過去の熊谷登久平の作品が展示された時の資料について問い合わ…
https://www.parisettoi.fr/topics/355/ 上記サイトから引用 『パリ市は東京の山手線とほぼ同じ面積と言われています。(正確な面積は86.99km2。参考:東京都・山手線の内側は63km2*wikiより)「パリ郊外」と聞くととても遠くに感じますが、実際はどうでし…
現役を介護離職して15年以上経っているし、ジャンル違うので右往左往してて要領悪いです。#池之端画廊 の企画展 義父の洋画家 #熊谷登久平展 のことを、所属していた #独立美術協会 さんがサイトに掲載してくださいました。 死ぬまで会員でしたけど、死後52…
池之端画廊さんの『熊谷登久平展』『時代を彩った画家たち(Ⅱ)展』の葉書を置いてもらいに谷根千から上野桜木経由、京橋から銀座の画廊などをまわる。
熊谷登久平も混ざってます。