http://www.dokuritsuten.com/shinjin/2020/winner.html
かつて、いや今も独立美術協会の会員になるのは大変。
我がイケメンな義父の熊谷登久平は独立美術協会の前身の1930年協会時代から出品を続けて、独立美術協会第1回からもずっと入選していたが、賞をとろうがなんだろうが中々会員になれない。
二科展に2回も展示され、白日会でも賞をもらい会員になっている。
が、独立美術協会の里見勝蔵派と福沢一郎派、つまり野獣派と前衛派の派閥争い的な空気の中で、里見勝蔵派の熊谷登久平は中々会員になれず、反里見派からの襲撃から里見先生を護衛したりな日々を送る。
独立美術協会と白日会に作品を出す、紀元二千六百年奉祝美術展にも絵が並ぶ洋画家になっていたのに独立美術協会の会員になれない。
ので鬱憤が溜まっていたのか上野公園の老舗料亭の韻松亭で宴を開いていた独立美術協会幹部たちのところに乱入し、畳に包丁を突き立てたとか、乱取りしたとかな伝説を先日の熊谷登久平展で聞き、私は唖然とした。
上野山下の老舗蕎麦屋の2階で反里見派が集まっていたところに殴り込みをかけた話は読んだことがあるけど、韻松亭。
で、熊谷登久平展に来てくださった独立美術協会会員の村田英子先生と互いの予定をすり合わせて韻松亭を予約して今日昼食。
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2階の座席に案内され、床の間の前という上座で食事、美し美味し。
ここで乱闘したんだ。
窓から脱出した人もいたそうだけど、大丈夫だったんだろうか、ここ2階だし。
とかで村田先生とあちこち現場検証。
まぁ、この経路なら無事逃げられますよね。
こんな素敵な座敷で乱取りしたのねオトーサン。
よく会員になれましたねオトーサン。
黒帯二段なので華麗に投げるオトーサン。
怪我はさせないで投げれるオトーサン。
などを村田先生と話していたらフワリと不思議な色が過去の独立美術協会員が脱出したであろう窓から入ってきて、少し村田先生に留まり、不忍の池方面に抜けていった。少しオカルト。
思わず目で追ってしまい村田先生に気づかれて聞かれて話した。
もしかしたら独立美術協会の物故会員たちが、花見にきてたのかもねと。
義父も含めて韻松亭で飲めや歌えやをしていたメンバーが村田先生の頭を撫でていったのかしら。
不思議な色でした。
彩雲を少し薄くしたような雰囲気が目の前をフワリと。
不思議な縁というか、熊谷登久平展後半は緊急事態宣言が終わっていることを期待して独立美術協会の方には連絡するのを抑えていた。
でも緊急事態宣言は延期になり、熊谷登久平展に独立美術協会の方にお越しくださいと言いにくい状態が続き、でも観て頂きたいと思い詰めて会員名簿の日帰り可能な地域の「あ」から順番に電話をかけた。
でも中々繋がらなくて、「ふ」で繋がるもの骨折しておられ、(義父の思い出はお聞きできた。感謝です。)「む」でご家族が電話に出てくださり、なんと隣の駅近にお住まいの村田先生に繋がった。
で、彼女が熊谷登久平展に来てくださったことで、独立美術協会の会員が次々と来てくださり、土砂降りの雷が鳴っている日には登久平たちが作った独立十人の会の登久平が抜けた後に属されていた先生が来てくださり、エピソードを聞けた。
それが料亭乱闘事件で顔面蒼白にはなりましたけど、嬉しかった。
有線の電話線で繋がったご縁に感謝ですよ。
不思議な彩雲は義父たち独立美術協会の物故会員たちだったのかもと感じています。
それと村田英子先生は少女漫画家のあしべゆうほ先生の「デイモスの花嫁」が文庫本になった時の表紙を描いた方だったと知り、あしべゆうほ先生と昔付き合いがあった私はびっくりでした世の中狭い。
デイモスの花嫁談義している2人の乙女に桜吹雪な料亭での食事って素敵じゃないですか。
予約が取れていた日が満開の桜に囲まれ桜吹雪が吹き込む席って、熊谷登久平さんから私への素敵な御褒美な嬉しさでした。