熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

熊谷登久平 年表 制作中 メモ1

明治34年(1901年)
10月2日、岩手県東磐井郡千厩町に、熊谷喜造(二代目半兵衛)とまつみの長男として生まれる。
本名、徳兵衛。

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大正8年(1919) 18歳 一関中学を卒業 「潮来の村」


大正10年(1921) 20歳
この頃上京し、中央大学商学部に学ぶ。
また、川端絵画学校にも入り、本格的に絵画を学び始める。川端画学校では海老原喜之助、橋本八百二らと交流し渡仏前の海老原から自画像を貰う(桑原住雄/日本の肖像画/南北社 /1966/1/1)。

中央大学では応援団に入り、絵画倶楽部パレットを創立。柔道二段でもあり、慶応大学応援団との乱闘で勝つなどの武勇伝が新聞記事に残る。

大学時代に憧れていた岩手県出身の洋画家萬鐵五郎宅を訪ねたとかも我が家には伝わる。
萬鐵五郎は1930年協会創立メンバーが属していた円鳥会の創立者でもあるうろ覚え。熊谷登久平が1930年協会に絵を出し、白日会で会員になっているのに1930年協会のメンバーが創立した独立美術協会の会員になることに固執したのもなんかわかるような、証拠もないのに無責任ですけど。

(円鳥会の成立と消滅―萬鐡五郎を中心として  佐々木一成(岩手県立美術館))

まあ、伝承だと岡本太朗がきた。川端康成もきてた。島崎藤村の家と付き合いがあった。サトウハチローと付き合いがあった。棟方志功と付き合いがあったとか伝承しか言いようがない。
藤村は息子さん二人が同時期に川端画学校、サトウハチローも同時期に川端画学校とかあるけどね。

大正12年(1924)22歳 関東大震災にて家財が焼失するも海老原喜之助の肖像画は焼け残る。小石川の川端画学校は無事?
神田錦町中央大学は図書館だけ無事?

大正13年(1924) 23歳 このころ川端絵画学校修了か?

このころ岩手県千厩の豪商日野屋の父に大学を卒業しても家業を継がず画家になると宣言し仕送りを断たれる。
でも11歳上の美しい女性(本名/横江政恵、名乗りは熊谷衣子)と歳下の叔父で中央大学生(彼も後に勘当さらる)に援助を受け絵も大学も続ける。

大正14年(1925) 24歳 中央大学商学部卒業。(中央大学にて確認済)

このころ慣れない労働をしたため結核になる。それを知った母の実家や親戚が一斉に送金を始めるも、父親が送っていた仕送り額には満たない。仕送りをしてくれた家には後に絵を贈ったらしい。

北里病院(?)を経て熱海で静養をする。歳上の女性の献身的な介護により回復する。母親公認の内縁の妻となる。


大正15年(1925)藤の花の咲く頃、一関中学時代の同級生矢野文夫(詩人・日本画家)の紹介で、洋画家・長谷川利行を知り、親交を結ぶ。
(中央区浜町から文京区根津に転居/長谷川利行と私)
洋画を描くには金がかかり、親戚からの仕送りでは足らず、女学校出の妻はカフェで働く。
(これを矢野文夫がカフェの女給と登久平の手記に加筆し、それが今もひとり歩きし風俗嬢的な書かれ方をする本もあり私は怒っている。)

(衣子は女学校出で教養があり、上方言葉を話し英語、仏語ができる才媛だったので、後に藤田 嗣治がプロデュースをした銀座のカフェ、サロン春に引き抜かれマネージャーになった)(浅尾丁策著/昭和の若き芸術家たち―続金四郎三代記〈戦後篇〉芸術新聞社 (1996/10/1)には、サロン春のマネージャーという記載あり。)

登久平の次男の寿郎は彼女はチャップリンに会ったことがあると聞いていたが、サロン春時代のことかもしれない。
生活が落ち着くと府立美術館で働いていたとの話もある。(登久平の従弟談)


昭和2年(1927) 26歳
白日会で「廃屋」「冬日風景」の二作品が入選し、昭和3年(1928年)の第五回白日会展に展示される。
長谷川利行と二人展を上野の山、言問通り沿いの額縁屋彩美堂と大地堂を会場として開催。(一説には松尾恒夫(詳細不明、戦前の白日会展と1930年協会入選者に名がある)を含む三人展)
同展、反調和会展を見学に来た洋画家・里見勝蔵(1930年協会、独立美術協会創立会員、二科会友)、と前田寛治の知遇を得る。

大反調和会展に展示されたと思われる作品。
「家」「大川」(隅田川永代橋)「ニコライ聖堂」「千厩警察署」
「家」は長谷川利行と同時期に田端の変電所を描いた可能性あり。

この年、招待された里見勝蔵宅にて一升瓶を三本空ける。次からは酒が出なくなる。

昭和3年(1928) 27歳 第5回白日会展。「廃屋」「冬日風景」
第3回1930年協会に出展。「冬の風景」「軽業」
白日会には、昭和16年の第18回展まで連続出品。白日会の仲間と短歌の会「まひる」を作り白日会の小冊子制作にも参加。この、雑誌に書いた随筆は1944年に発行した画集に収録。


昭和4年(1929) 28歳第4回1930年協会展に出品。「居留地風景(横浜)」「冬」
第16回二科展に出品、入選する。「気仙沼風景」「赤松と水車小屋」
第6回白日会展「燈台などの静物」「小菅刑務所」

白日賞受賞、白日会会友に推薦される。

二科展入選により、父による勘当を解かれ仕送りの再開。新聞雑誌などの関係記事のスクラップを始め、スクラップは晩年まで続く。
アトリエのある谷中初音町の貸家に転居する。新聞に父親が大きな援助を始めたことへの皮肉記事が載る。 

昭和5年(1930) 29歳
第5回1930年協会展に出品。「気仙沼風景」
第17回二科展に出品。「海」「落日」

第7回白日会展「冬の気仙沼湾」「風景A」「風景B」「風景C」「裸女」


昭和6年(1931) 30歳
里見勝蔵、林武等が創立した洋画団体「独立美術協会」の第1回展に「聖堂附近」「噴水のある風景」を出品。同展には、亡くなる前年の昭和42年の第35回展まで連続して出品。
第8回白日会展「軽業の娘」「岬」「手風琴を持ち」「木立と畑」

昭和7年(1932)31歳
白日会会員となる。
第9回白日会展「林檎を持つ少女」「蜀黍と楽器」「麓村」「農家と黍畑」「水車場」「サイフォンのある静物」「山麓」「青磁器の花」「桑折の駅」
第2回独立展「風景」「夏山」「秋」「静物


昭和8年(1933)32歳
第3回独立展で、海南賞を受賞。
第10回白日会展「溪流」「三人」「森」「朝海(勅題)」
独立展「書架と雉子」「月夜」「風景」「鳥離室」

昭和9年(1934)33歳
第11回白日会展「野鴨」「菊」「雉子と卵」「冬」「砲兵軍曹(モデルは弟の熊谷広介か?)」
第4回独立展「風景(岬)」「菜園」「風景(春)」「百合と娘」


昭和10年(1935)34歳
第5回独立展で、2度目の海南賞を受賞。

昭和11年(1936)35歳
独立美術協会会友となる。
盛岡市で個展を開催。

第13回白日会展

昭和12年(1937)36歳

昭和13年(1938)37歳

昭和14年(1939)38歳

昭和15年(1940)39歳

昭和16年(1941)40歳
独立美術協会会員となる。
画文集「熊谷登久平画集 絵と文」を出版。
白日会展
独立美術展

昭和17年(1942)41歳

昭和18年(1943)42歳
友人の宮崎精一夫妻に谷中初音町の借家を紹介する。

昭和19年(1944) 43歳。
このころ、東京航空計器に入社。
会社の用務で山形新聞服部敬雄専務(翌年12月社長就任)と交わる。

昭和20年(1945)44歳このころ、山形県疎開。宮内に居住。
山形には戦前から絵の指導者に訪れており、個展も山形新聞後援で開催していた。
疎開中も山形の洋画家達と親交を深める。後々まで、影響を与える。
山形美術展の審査員ともなる。

終戦後の記事に谷中の家は無事、東京航空計器に残留を望まれたことなどを書く。

国策会社で日本軍の航空機の部品を製作していた東京航空計器には進駐軍の調査が入り、役員たちは戦犯容疑で連れていかれ、東京航空計器は存続危機に陥っていたため、登久平たちは社内技術で作れるものを模索して映写機を発案。

昭和21年(1946)45歳

昭和22年(1947)46歳
山形で大正12年浅草生まれ、登久平より22歳下の 房江と出会う。元舞台女優の房江は北京からの引き揚げ者。
山形新聞社長にみそめられ山形で生活をしていた。登久平口説く。
何回も口説く。

昭和27年(1952) 51歳
この年、厚生省の絵画愛好者と付合いを始める。
「バリベア会」発足以後、没する前年まで絵画の指導をする。没後の指導者は登久平の友人で同じ独立美術協会の松島正幸。

房江、数度の流産後、長男の久を出産。
それまで登久平を支えていた歳上の内縁の妻衣子は心臓発作を起こし東大病院に入院。
登久平は房江を出産前に入籍。

それまで登久平を支えてきた衣子を嫁として大切にし、房江に冷たかった登久平の母と父は喜び久に千坪の土地を譲る。その上登久平の父は久に象を買おうとして皆にとめられる。

多くの親戚が衣子に同情した。
登久平にくってかかった甥もいた。衣子は戦前戦後進学で上京してくる一族の子の世話をし、弁当も作って持していた。
みな登久平の女癖の悪さは知っていた。
まさか戦時中登久平が疎開した後もアトリエを護っていた衣子を妾に落とすとは思っていなかった。

妻妾同居の家で衣子と房江の立場は逆転するが、衣子は久を可愛がる。
登久平の母は久誕生しばらくして亡くなり、物心ついた久は衣子を祖母と慕う。
7年後生まれた次男の寿郎も衣子を父方の祖母だと思い込んで育つ。
久は幼い頃、近所の寺の鐘をガンガン鳴らすことを喜び、ちょうちんのあるその寺にガンガン鳴らしに行きたがり、「ちょうちんガンガン」が久が衣子をよぶ言葉となる。
その後、ちょーちんばあちゃんとなる。
ひどくないか久。




昭和37年(1962) 61歳 日本橋三越で個展を開催。三越での個展は、昭和船41年迄毎年開催。


昭和38年(1963) 62歳欧州旅行
これはオランダ航空主催のツアーだと思われる。

帰国後、千厩町で個展を開催。

昭和41年(1966)65歳
衣子死す。晩年は房江が在宅介護をしていた。
登久平の長男久と次男の寿郎は葬式の時にちょうちんばあちゃんが実の祖母でないと知る。

衣子のショックを受けた登久平は新興宗教に嵌り広告塔にまでなる。元々病院嫌いだったが悪化する。

昭和42年(1967)66歳
弟子3人が羽交いしめにして、車に押し込み弟の広介の親友が院長をしていた病院に連れて行き検査を受けると癌がかなり進行していた。
当時の最先端の治療を受ける。


昭和43年(1968) 67歳 11月24日東京で没。

葬式参列者の芳名帳は達筆だらけで解読不能

衣子と登久平を正妻となっていた房江は同じ墓にとしようとして菩提寺の住職に断られ、同じ敷地内に別の墓石を建てる。

房江は88歳まで生きたが、「先生とおばあちゃんが仲良くしてて私を呼んでくれない」と、嘆くことがあったと次男の寿郎は話してくれる。