我が家には触ってはいけないと義父の熊谷登久平が言っていた額装された作品がある。最低限しか触れないので埃まみれだが、埃を祓う行為もダメだという。
戦後、熊谷登久平の絵が展示されていた美術展に両陛下がおいでになられ、登久平が案内をしたのだとか。
ところがある部屋の絵が少し曲がって展示されていて皇后陛下が直したのだとか。その絵が登久平の作品で描かれている女性を「お綺麗な方ですね」とお声を頂いたとか。
登久平は恐縮しながら「妻」ですと答えたとか。
この話しを聞いた時、両陛下との距離が近く感じたので占領下ではないかしらと予測しつつ、登久平が出品していた展示会、展覧会を地味に調べていたけど属していた独立美術協会の独立展には該当する記録が見つからず。
文化財研究所のサイトにある、
『第一回連合展開催
記事番号:00964
年月:1947年06月
毎日新聞社主催の第一回美術団体連合展が一〇日から三〇日まで東京都美術館で開催された。一水会・二科会・独立美術協会・光風会・国画会・春陽会・新制作派協会・東光会・旺玄会・創元会・現実会・自由美術家協会の一二団体が参加し、在野をふくむ日本洋画壇の展望を示した。会期中の二八日には天皇皇后両陛下が行幸啓になつた。
登録日: 2014年04月14日
更新日: 2020年12月11日 (更新履歴)』
を見つけ、調べていくと戦後の混乱期に開催されていた美術団体連合展に毎回両陛下が行幸されていたと知った。
熊谷登久平と妻の房江が山形県で出逢ったのは昭和22年以降、その後、妻妾同居の熊谷家に房江も暮らすようになり、大正時代から登久平を支えていた内縁の妻の衣子以外の女性は出てもらい、登久平、衣子、房江が暮らすようになる。
房江が衣子を差し置き登久平こと徳兵衛の戸籍の初婚相手となったのは昭和27年(1952年)で房江の胎内の久がある程度育ってからだ。
登久平が亡くなるまで近隣住民は衣子が正妻だと思い込んでいたし、登久平の身内は衣子と離婚して房江と入籍したと数年前まで思い込んでいた。
話しを戻すが、美術団体連合展への熊谷登久平の出展は、平成になってからの登久平の資料から抜けており、私も気がつくのが遅れた。
1950年第4回美術団体連合展に熊谷登久平は「女役者」という作品を出している。
この連合展についての文化財研究所の記事。
『記事番号:01204 年月:1950年05月
毎日主催の第四回美術団体連合展が一四日より開かれた。両陛下が一五日にはおそろいで御覧になつた。』
https://www.tobunken.go.jp/materials/nenshi/2176.html
夫が両親から聞いていた天覧はこの日ではないだろうか?
女役者、のちに登久平の妻となった愛人の房江は戦前浅草で女剣劇の男役の役者だった。
属していた劇団が大陸の北京に渡りそちらで公演を重ね、北京で終戦を迎えた。
その資料を次男である夫は彼女の棺に入れて荼毘した。(メモだけでもしておいて欲しかった)
登久平が1950年の美術団体連合展に出した作品、「女役者」のモデルは房江ではないだろうか。
皇后陛下がお直しくださった作品を登久平は触れることを禁じ、同じ絵を描いた。
それを息子である夫は「踊り子」と記憶している。
残念ながら登久平も房江も亡くなり、私は細かい点を探しつつ推論しかできない。
でも登久平の絵の天覧があったのは間違いないとは書ける。
若い義母を描いた作品は何点かある。
義母のヌードと思われるものもある。
どこかの美術館に納められたらと願っている。
去年、リアス・アーク美術館に数点納められたのは運が良かったといつも思う。
ヤフオクに8マンなどを描いていた漫画家の桑田二郎(桑田次郎)直筆作品が次々と出ている。
去年は義父の友人の清水錬徳の未整理の作品が1束いくらでヤフオクに出た。
今年は坪内正の作品が画集に掲載れているものも含めて大量に出た。
早乙女先生の友人の画家の作品もどんと出た。税制が変わり遺族が管理していたアトリエなどを手放し始めているからだと聞いている。
あとは遺族の高齢化。
我が家にも熊谷登久平の遺品が山とある。
文章資料は岩手県立美術館にコピーを渡した。
未整理の写真などは、ある程度わかったものは岩手県一関市の登久平の生家、熊谷一族の本家にデータを渡した。
あと、夫や親戚、関係者の中にある記憶の裏どりをして自費出版で出して国会図書館などに残す予定で置いてあった資金は認知症の方によるアパートの破壊行為の修繕に消えた。
白日関係のオーラルヒストリーや紙資料は100周年に生かされる予定だけど、独立の資料は浮いてしまった。
本当にどうなるのだろう。
↓山形時代の房江