熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

義兄の熊谷久の10回忌

 

今日は義兄の久の10回忌。長年寝たきりだった義母の通夜で倒れて、友人たちが無理矢理病院に連れて行ったら末期癌だった。溺愛していた義母が連れて行った説がある。

なお、夫は義父から溺愛されていて、連れていかれそうになった結構リアルな伝承がある。

 

(不思議なことに義兄が亡くなられて一回忌前唐突に夫と私は出逢い、義兄が残した熊谷登久平周年用資料の断片を夫から渡されて今に至る。義兄は歳の離れた従兄の熊谷英三さんと連絡をとり何かを一緒にしようとしていたらしいが、2人とも亡くなり、詳細は不明のまま)

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熊谷家の墓は、登久平と長谷川利行が初めて展覧会をやった坂町の彩美堂の向かいにある玉林寺にある。登久平と利行は玉林寺の下の根津で出会い、谷中坂町で展覧会をやり里見勝蔵らと出会い、花が開いた。

(花といえば墓前の花を買おうとして財布の中身がなかったりするので、気持ちの花。)

 

ここ、玉林寺を選んだのは登久平の弟たちで、熊谷家の菩提寺曹洞宗の関係らしいが詳細は不明。昔一関市に玉林寺があったとかな伝承もあるのでそれもあるのかなぁ。

もうね、まったく詳細不明。

ここ、50年前で墓石込みで300万円だったとか。義父の戒名も高かったんじゃないの的な私の下世話な感覚。

この頃はまだ水が出たので高台の墓は高かったそうだ。それと場所の格差もあったらしい。

本当なら同じ墓石の下に義父が画家になると言って実家から勘当された時に女給になって支えた衣子も入る予定だったが、当時のご住職が認めず、義母が横に細い墓石を建てた。

衣子さんは義父が結核に苦しんだ時も献身的に付き添ったのに。

曹洞宗の檀家に嫁に来たのに曹洞宗の数珠を持っていなかったりする。

嫁入りの時に用意しないまま、オールマイティの数珠でやってます。

https://www.soto-kinki.net/sp/butsuji/oshie_jyuzu02.php

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ごめんなさい。

 

熊谷登久平の種は弱かったのか大正時代から登久平を支えた内縁の妻の衣子には子が生まれず、登久平の弟の次男の英三を養子に迎える話しがあったが、そこの長男が亡くなり次男が跡取りになったからなのか、時期の前後がわからないが養子の話しはなくなった。

戦後登久平は山形で22歳年下の浅草生まれ、深川育ち、浅草の女剣劇の男役だった房江と知り合い、登久平が疎開中も谷中のアトリエを守っていた内縁の妻がまつ家に房江を持ち帰った。

その後、房江は流産を繰り返したが久が無事胎内で育ってきたので、登久平は房江と入籍し本妻とし、それまで本妻として家を守っていた衣子を妾の立場におとした。その頃衣子は心臓発作で倒れて入院をしている。

 

衣子は11歳歳下の登久平の生家や親戚たちに認められた妻だったので、房江は初めの頃は登久平の身内の女性たちに冷たくされたそうだ。

 

が、昭和27年に久が無事生まれたことで、登久平の母や親戚たちに妻と認められた。房江は登久平よりも22歳下であった。衣子よりも33歳歳下となる。

 

久誕生時の衣子の気持ちはどうだったのだろう。

 

しかし衣子は久を可愛がり、久名義で内緒の貯金も始めた。

久が生まれたことを喜んでいた登久平の母は早くに亡くなり、久は衣子を父方の祖母と思い込んで育った。

ただし、当時を知る登久平の親戚によると、衣子は自分の立場を弁えて本妻となった房江を立ていたという。

最初は対立もあった衣子と房江だが、その間も登久平は自由恋愛を楽しむ人だったから、悪いのは登久平ということで仲良くなっていったそうだ。

久ができたことで入水自殺をした女性もいたそうだし。

 

久は小さく生まれ、身体が弱く、子守の女性、房江、衣子に大事に大事に育てられたそうだが、登久平の写生旅行について行った時に海に落ちて、その時の様子は当時のお弟子さんが書き残しているが生死を彷徨ったそうだ。その時に入院していたのが上野桜木にあったH病院。

無事退院できて、それからも愛されて育ち、7歳歳下の弟と共に東京藝大に入れるのが義父の夢だった。

久が生まれる前にピアノを買い、絶対音感に気がつき家庭教師を付けつつ絵も教えていた。

 

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そして根津のよし房で蕎麦を食べる。

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旨し。

義兄が好きだった近隣の江戸時代からの蕎麦屋は二軒とも閉店している。

出前を頼んでいた慶喜さんも今年閉店している。

あと清水坂をおりたあたりにあった蕎麦屋は絶品だったと夫談。

 

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