熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

上野公園 独立賞を取れなかった熊谷登久平

上野公園は150周年のお祭りで楽しかった。

上野公園内にある文化財研究所もブースを出しておられて、すいていたのて美術の近代の担当の方と雑談ができ熊谷登久平が大切に持っていた長谷川利行のスケッチブックや大正から1930年前後の画家たちの話ができて楽しかった。

熊谷登久平の作品にみられる萬鐵五郎の影響も話せて嬉しかった。

です。

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昨日は独立美術賞を取れなかった独立会員の熊谷登久平の泡沫を嘆いていたので、登久平の時代を話せる人と当時の画壇の面白さを話せて嬉しかった。

 

(全部私個人の感想です。)

 

今、新国立美術館では独立美術協会の90回目の展覧会をやっていて別会場では物故会員の展示もやるそうだが、その中に熊谷登久平はない。

去年「熊谷登久平はハイアートでなく独立賞を受賞してないからダメだ」と独立の上層部と親しい藝大おじさんから忌憚なく言われ、登久平は下手だ下手だデッサン力がないから美學にも行ってないとか散々だったので、それがその人と独立美術協会の人たちとの会話から導かれたのなら来年の90周年展示は絶望的だなと予感はしていた。

その前に義父のアルバムにある戦前戦後の独立美術関係の写真も入江先生から欲しいと言われてはいた。

その後、有力物故会員のご遺族から貴重な写真の提供があったとか。

 

初夏にやっぱ選外だったと、絵だけでなく写真も求められなかった、仕方ないと思いつつ、数年前に舞い上がっていた私は哀れだな。

 

そして昨日が第90回独立展初日。

私は自分の独りよがりと付け焼き刃がかっこ悪くて、義父にも申し訳なくて、どうしても独立展の会場に入れなかった。千代田線の改札から出られずしばらくホームで休んだあと日比谷に向かい、日比谷線に乗り換え六本木に向かった。何やってんだか。

 

熊谷登久平は独立美術協会結成後に里見勝蔵派と福田一郎(仮称)派が揉めた時に里見勝蔵派で里見勝蔵が福◯一郎派から色々あった時には柔道二段の元中央大学応援団長として慶應大学応援団と乱闘勝ちしたこともあり、乱取りに自信ありだったので里見の用心棒と言われていたこともあったそうだ。

実際乱闘を蕎麦屋と食事処でやっている。

今活字で確認できるのは蕎麦屋の乱闘だけだが。で、蕎麦屋で義父に投げ飛ばられた福◯一郎派は懲りたのか、戦後襲撃をかける時は新選組式の奇襲で1人を複数でとやっている。

この福◯派の襲撃事件は新聞に掲載され、他の活字でも残っていて調べやすいのでどうぞ。

 

その荒れていた時代、里見派と福◯派の会友から会員になるのも力関係で色々あり、登久平は1930年協会展から独立美術展の時代からずっと絵を出していたが会員になれたのは1945年だった。

登久平が独立美術協会から授けられた賞は昭和8、10年の海南賞が2回、これは特異なことで当時はかなりネタになったそうだ。

2回目の海南賞の時は独立賞と言われていたのにまさかの海南賞。

その知らせ時に会場で撮影した時の登久平の写真の表情と服装と髪型はとても変だ。

正装で出かけて慌ててスーツに着替えたような感じで彼には珍しく身体に合ってないスーツ姿。乱れた髪。

 

岩手県の千厩の豪商日野屋の長男生まれの義父はお金があり、花街での粋な遊び方を知らない林武が女性に下手をしないように教えるために奢っていたと聞いている。熊谷登久平は林武のそちらの先生だと戦後も自称していたと聞く。

林武さんたちは登久平存命時代は我が家にもよくきて、飲んでいて、溺愛されていた夫は同席し、その話しも聞いたという。

義父は良い日本酒が好きで酒屋さんから特級酒が届く、お弟子さんも良い酒を届けてくる、全国から旬の珍味と酒が届く。

島村三七雄さんや林武さんが画学生を連れてくる。飲み会が始まる。

熊谷登久平の家は一時期は独立美術のただ酒屋(無料で飲める家)だったとも聞く。

(妻妾同居の家であったが、義父を戦前からの支えていた戦後妾になった衣子は戦前は絵も出品し、義父が売れてからは東京府立美術館の案内もやっていたので、独立のメンバーとも面識があり同席していたという。時代的にはあるのかなぁ。

戦後正妻となった義母が語っていた林武さんの奥さんは画家の内助の功の鏡のような女性で、夫が売れてなかった時は絵を持って売り歩き、売れてからは来客への気配りを欠かさない人だったという。なので林武さんは愛妻家でも有名だった)

 

その愛妻家な林武さんは綺麗どころとの会食を一時期愉しまれて、財布の義父を誘い通った時期があった。

そこは中央大学商業部出身の義父、良い紙を上野桜木の画材も取り扱っていた佛雲堂で用意して、綺麗どころに酔った林武さんに綺麗なお姉さんに絵をねだらせて後から回収し、こっそり売り捌いていた。

がそれを佛雲堂の先代の浅尾丁策さんが戦後書き残していてこっそりではなくなっている。

 

そこまでしてても中々会員になれなかった熊谷登久平、海南賞2回と弄りネタにされる立場だったのに独立協会を里見勝蔵が出る時に「お前は強いから独立のフォーヴを守れ」と言われ、田中佐一郎たちと残り踏ん張った。

 

独立退会後も美術関係者には利便性が良かった熊谷登久平の邸で里見勝蔵が独立の若手を集めてフォーヴを語っていたことはもう覚えている人は亡くなられてしまった。

活字では独立美術協会会員の宮崎精一氏が書き残したものが残るだけだ。

 

数年前、その頃の戦前からの熊谷登久平を知り葬儀に参列してくださった入江一子先生と電話で話したときに昭和19年に出品したの義父の絵が比較的良い状態で残っている話しをした時、

「それは90周年に展示しましょう」と言ってくださった。(その絵は当時の美術雑誌では評価されている)

杉並区に来るように言ってくださったのにコロナ禍がおさまらず、少し落ち着いて話しをした時には独立展に出す作品を描いておられて「独立展会場でも会いましょうね」と言ってくださったのに約束の独立展会場には入江一子先生の遺作が展示されていた。

熊谷登久平のアルバムもみたがっておられたのに残念だ。

 

そして今独立展が新国立美術館で開催されている。

遺作が展示される遺族には春に連絡が入ったと聞き、展示される物故会員の遺族には初夏までに連絡があるはずと聞くも、うちには連絡がなく今に至る。去年秋に熊谷登久平は無理と聞いていたけどね。他の物故会員とは格が違うとも言われたけどね。

でも切なく思うのは許してほしい。

今の独立美術にも好きな画家さんいっぱいいるし、去年観たピンクのロボットの連作がとても良かった。今年も彼女の作品は観たい。

ただ初日に行く度胸がなかっただけ。

 

 

第一回独立展から癌で倒れるまで出品し続けたけれど、去年言われた「美學を出てなく独立賞をとってない。一流ではない対象外」

一昨日、六本木ヒルズから独立美術展初日の新国立美術館を眺めた。

独立賞を取れなかった独立の画家の熊谷登久平。じわじわと効いてきている。

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展示されないこと、去年の秋に独立と近しい藝大おじさんに聞いた時にわかっていたのに、クヨクヨして還暦にもなって情けないなぁ。

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去年初めて聞いた藝大で美術を学んだ人からの「熊谷登久平はハイアートではない」との力強い言葉。まず、ハイアートの意味が理解できなかった私。

フォーヴのハイアートの例として鈴木千久馬をあげられ、とことんいかに熊谷登久平がダメで評価以前かと懇切丁寧なご教示を御鞭撻頂いた。

複数回、その方から他の人たちがいる場でご指導いただいたので自分の無知が曝け出されて恥ずかしくもあった。

 

その時私は既に熊谷登久平は忘れたれた画家だとは体感していたけど、今の美術業界ではそんなに酷い下手な泡沫画家として扱われているんだと悲しかった。

帰宅してから号泣した。

戦前、渡仏も決まっていて、歓送会も開かれたのに直前で病気があるとビザが出なかった義父。

日本で頑張ったのに。

洋行的ではなく、故郷の日本的な空気を取り入れて、独自の美を表現するようになっていく。

でも戦前に活動していると美學に受かるか渡仏してないとダメな画家と言われるんだ。

戦後の雑誌の人気画家の一覧に名が残っていても今では泡沫画家なのだ。

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例えば、熊谷登久平の遺品の長谷川利行のスケッチブックの寄贈をあちらこちらの美術館に申し出た時に受け入れてもらえず、持っていくから見るだけでもとお願いしても断られたが、あれが熊谷登久平の遺品ではなく、ハイアートな洋行帰りか美學出身の画家の遺品なら受け入れてもらえたのだろうかと。
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熊谷登久平の持ち物だから価値がなかったのか。

と、卑屈な気持ちにもなった。

でも熊谷登久平は死ぬまで独立美術を愛していた。

所属していたのは確かなので、物故会員を名乗るのは許してほしいと独立との儚ない縁を指摘してきた美術の専門家に私は言った。

そりゃ友人だった田中佐一郎画伯とも格が違うわ。

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トドメとばかり指摘されたが義父の葬儀は独立葬でもなかったしな。

 

でもね、何を言われても私は義父の絵が好きだ。

義父の文章も好きだ。

顔も好きだし、その子どもも好きだ。

好きなものは好きで良いと思う。

今はまだ熊谷登久平の熱心なファンが京都にご存命なので、救われている。

その方が持っている白日賞受賞作は白日会の物故会員のスペースに展示される予定にはなっているので、私と夫、そして当時を知る義父の親戚たちがご存命の間に新国立美術館で展示されるように祈っている。

独立は去年御鞭撻いただいて有力物故会員として認められてないと覚悟はしていたんだ。

 

私が持っている太平洋美術の画家の作品、戦前義父と交流があった方の作品は太平洋の周年展に貸し出す予定になっている。そういうのは良いなととても思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

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酸素97

脈86

脈実測84 不整脈なし

 

体温34.0

 

血圧116-80

 

群馬にある福沢一郎記念美術館はとても良かったです。