熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

怖い人 #山形県 #東京航空計器 #中央大学の震災前後 #長谷川利行が描いた熊谷夫妻

私のこの日記を読んで私を怖いと感じられた私の親世代がいらっしゃると知り、結構ショックだったけど、戦後17年後に生まれた新参者なので戦中派には生意気かも知れないし。

これがある、あれがあるも上から目線と読めるかも知れないとか。

私は危篤状態と峠と2ヶ月近い入院を熊谷家に嫁いでから経験し、それなら慌ててあちらこちらに熊谷登久平のことで問い合わせをし、調べている。

今年心臓の異常が見つかってからは余計に焦って行動しているから、台風のように訪れて読めるもの片っ端から読んでいく。

質問ぜめしているから不愉快な思いを人にさせているかも知れない。

 

その方は残念ながら私ではなく夫に会いたいそうだ。

でも夫は去年の落雷で心臓と腰が悪化して杖で歩いているし、無理だ。実は彼は結婚後に心臓にサルコイドーシスという病気も見つかっていて、岩手に行くのは本当に無理だ。

 

言いにくいことを言わせて申し訳無かった。

なんか空回りをしているが、私らしいなと私は私を嘲笑ってる。

 

他の方から「馬の耳に念仏」と言われた時に気がつけば良かったなと反省してる。

 

古屋の修繕もせず、本を買い、美術館に通い、岩手県宮城県の図書館をローラー作戦でまわる。

無計画ではあるし、阿婆擦れに感じられるだろう。しかも使っているお金は夫のお金だ。

そういうのも不愉快に思う人もいると思う。

 

以前夫の後輩が酔った時に私と娘をシロアリに例えたことがあったが、「ただのシロアリじゃないですか。どーして若い女にしないんですか、親子丼でもマシなの選んでくださいよ」他にもそう思う人がいるかもしれない。

 

だからさ、私は結婚したくない友人でいたいと言ったんだよね。子がうめる年齢の女性にしなさいとすごく言ったんだから。親戚に祝福される相手にしろと、古くからの友人としてあれほど言ったのに。

 

若くてかわいい史学科出身か美学か美大にすれば良かったのよ。そしたら要領よく資料探せるし頭もまだ柔らかいじゃん記憶力衰えてないじゃん。ここ、好き者なら宝の山よ。

興味ない人にはゴミ屋敷。

本家に頼んだら良いお嫁さん紹介してくださったろうに。

もったいないことを。

 

 

 

 

一応、資料がないからあったら欲しいと言われてて、ある程度見つけてるけど、未整理なもの。

 

熊谷登久平と東京航空計器関係は新聞切り抜き。岩手県千厩元町長熊谷儀一さんの証言、熊谷登久平が会社の偉い人が戦犯容疑で連れていかれたあとに、会社に残された技術と技術者で作れるものを考えて開発したのがニュースターで、東北で販売するために営業もした。

また戦時中の東京航空計器の工場に一関市の女学生たちが動員された。

彼女らの指導にあたった男性は適度にやりなさいと言ったので女学生はがっかりしたが、それが多分熊谷登久平。女学生の手記は岩手県戦後70年史。千厩の日野屋ブックセンターに在庫あり。

 

山形県と熊谷登久平の関わり。

戦前から何度も訪問して個展も開き弟子もいた。

資料は足立区立郷土博物館に預けたスクラップブック。熊谷登久平の戦前より山形県の弟子の入選記録もその中。山形の弟子の入選記事複数あり。

戦前の山形県での個展写真は谷中の熊谷家所蔵。記事はスクラップブック。

戦後の山形県での独立美術協会展は昭和30年代に一度ある。山形県山形新聞の社長の服部さんは義父の親友で、戦前から義父と遊ぶ。

山形新聞に独立美術展の記事あり、テープカットは服部社長。

熊谷登久平アトリエ跡の我が家に写真あり。

熊谷登久平が山形の女性に送ろうとして送らなかったラブレターあり。書き間違えがあるので他のハガキを送った可能性あり。

多分東京でヌードモデルをやっていた方が帰郷。その女性の山形の住所はお水系。

 

 

中央大学の失われた関東大震災前とその後の写真など。

かなりの仕送りをもらっていたために真面目な写真や成績表は実家に送っていたと思われ、谷中に残っているのは、陸上部の応援団の写真、懇親会、当時中央大学には野球部がなく他校生も混ぜての野球倶楽部の写真。

残念ながら、友人たちとの楽しいおふざけ写真しか残っていない。

中央大学の応援団長との新聞記事、慶應大学の応援団と乱闘をやり勝ったとの新聞記事もあり。

商業図画研究会を中央大学で立ち上げたとの記事もあり。

気仙沼新聞。

 

独立美術協会関係。

野球部を創設した時の記念写真やおふざけ写真。

野球部のメンバー一覧表。熊谷登久平は中学時代から野球と柔道をやっていたので野球部監督。

独立美術協会の戦前の写真多数谷中にあり。

真面目なものは多分実家へ。

 

二科展

二科展で発売した海外洋画家の作品集。

 

長谷川利行関係。

熊谷登久平の肖像画は晩年まで宝箱にあるも死後行方不明。

熊谷登久平の母の肖像画は戦中に実家に疎開させた絵や貴重品の中身が消えたために家族と喧嘩し、岩手を出て山形に疎開していた時に塗りつぶした。

のちに大いに後悔。

熊谷の母は勘当されていた時期も東京に息子を訪ねて利行にもあっているし、金を包んでいたらしい。

疎開荷物の中にあった里見勝蔵の絵は義父の母が預かり駄賃として隠し持っていたのが数年前に発見された。

義父の母は利行を息子の先生と思い込んだ節がある。

熊谷登久平の事実婚の妻のカフェ春の女給頭で横江政恵の肖像画

矢野文夫の書籍、長谷川利行の中の口絵、32番1932年の作品 女 がそうではないかと思っている。

背景の絵が気になり探し回ったが同じようなテーマの絵が数枚あった該当作はないが、似ている。

 

どなたかこの矢野文夫が匿名とした長谷川利行の友人画家の妻の正体を知りませんか。

残念ながら矢野文夫が長谷川利行を出版した時には所在場所不明。

 

この長年連れ添った二人の肖像画が同じ場所にあることを、義父が22歳下の義母房江と正式に入籍し二人の男子を成したのを、妾と立場を落として見守り続けた義父より21歳上の政恵の気持ちを思うと切に願う。

同じ墓に義母が入れようとした時に菩提寺の住職に拒否されて、同じ敷地別の墓標の下で眠る政恵へのせめてもの慰めに、同じ場所に二人の肖像画がありますように祈ります。

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#長谷川利行 の死後の #熊谷登久平 と、 #矢野文夫 の関係 と女学生と #東京航空計器 #岩手日日新聞 #証言集戦後70年間 #千厩日野屋

f:id:TokuheiKumagai:20190824001207j:image長谷川利行が画商の天城俊彦と付き合い始めた頃のことを矢野と義父それぞれ手記に書いている。

長谷川利行を監禁するようにして絵を描かせ、利行がいじけていったと書いている義父は画商嫌いになり、画商を通じて絵を売ることを嫌がった。

長谷川利行、矢野文夫、義父、天城俊彦の集合写真の義父と矢野文夫氏の表情は暗い。

矢野文夫氏も天城俊彦のことを評価はしているようだが、どこか冷たい文を残している。矢野氏の御子息はカメラマンだそうだが、残念ながら熊谷登久平と房江夫婦と矢野氏の交流は殆どない。

義母から夫が聞いていた熊谷登久平と長谷川利行の関係と矢野氏が書く関係には違いがあるが、そんなもん、もうわかる人はいない。

出会った年も義父は大正15年5月の藤の花の季節と書き、矢野氏は昭和2年の9月と訂正を入れている。

 

これ、義父が生きていた時に訂正をしてくれたら良いじゃん。

義父は義父で矢野氏が長谷川利行について書いた記事を大事に持っていたし、やだこの複雑な男同士の関係。

 

義父が大切にしていた長谷川利行と一緒にいた頃のと言っていた謎のスケッチブックにある日付は192?年2 1928年に読めるけど、これがどういう経緯で義父の手元にあるのかももうわからない。

 

矢野氏は長谷川利行の名を残すことをライフワークにほぼした。長谷川利行との時代を「伴侶」

義父は長谷川利行を「道標」と回想する。

 

でも長谷川と熊谷は互いのことを書いてない。

複雑だわ。

だからか私の世代が長谷川利行の小説を書いてても三人の複雑な共依存関係が書ききれてない。

私が担当なら突っ込む。

あたし昔は小説の編集もやってたんですよ。あまり実績ないですが、小説の企画本は数冊出してます。

ノンフィクションと育児は金がかかりますから、やれる仕事はいくつもやってました。好きでしたし。

 

で、

 

矢野氏の深層の中の熊谷登久平の妻は政恵だ。

義父と房江との間に二人の男子が生まれたことは知っていたのに、義父の死後に書いた「長谷川利行」という書籍の中で政恵に養われていたことをハッキリと書き戦前からの女であった政恵を女房と書いてている。

これは義父が大変な時期を支えた女を妾に落とし、20歳下の房江を妻としたことへの何かしらがあるのではと勘ぐる。

長谷川利行と政恵は交流があり、政恵の肖像画も描かれていたようだが、今は行方不明だ。戦中の義父の手記に書かれているだけだ。

利行の話を夫は政恵から聞いている。

 

残念ながら今私が読める矢野文夫氏の文書で、感じられた振り回されるながらも楽しかった三人の時代の違和感は義父の女房の書き方だけだ。

この中で利行に熊谷が五円を渡すシーンの後、矢野は義父の文章を一旦切り「熊谷はカフェ勤めの女房に養われてて金はないのに五円という大金を渡している」というような事を書き足している。

義父が書いてないことを保管してあるわけだが、この頃の義父は自分より若い叔父に惣兵衛に千厩の祖父から送られている仕送りから金を融通されていた。

また実は長男の登久平に甘い実母も金を送っている。

 

一晩で三百円稼ぐ、カフェ春の女給頭だった政恵との同居はこの次の少し広い下宿からではないかと私は思っている。絵具の質が変わる。

勘当を解かれる前から旧に羽振りが良くなっていた。その頃11歳上の政恵と同棲をしたのではないか?

 

 

猫が吐いたので、ここで中断。

 

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昭和16年に熊谷登久平は独立協会会員になり、画家として歩くかと思っていたら、ちゃっかりと旧制一関中学の同級生の商工省高官の畠中大輔の推薦で、国策会社東京航空計器に嘱託として入り込み、工員の教科指導に当たる。独立美術協会展にも絵を出し、毎年絵を発表しているが、国策会社の指導員という立場を得た。

これで戦場画家としての徴用の順番は遅くなる。

 

(「鬼才 長谷川利行と二人」の年表より、年表作成者 岩手日日新聞社 編集委員長 渋谷誠)

義父を東京航空計器に滑り込ませた畠中氏は義父の手記に局長と書かれている。

仙台空襲の時に仙台鉱山局長で、鉱山局にあった義父の絵を避難させ守った人だ。

昭和16年真珠湾攻撃まえから日本は中国と戦争をしており、独立美術協会の80年記念誌を読むと、会員たちが次々と前線に送られて戦争画を描いている。太平洋戦争開戦前なのに画家が南洋などに送られて始めたのが昭和15.6年の画壇の動きだ。

(それを察したのちに元オランダ領のバタビア施政官の肩書きを持つことになる畠中氏がまだ若手画家である義父が危険な前線に出るのを止めたのかもしれない。でも事情を知る人はもういないんで、その辺も聞いといてくれたら良かったのに夫。バタビアの施政官と友達よ)

(幕末、義父の実家の熊谷家の熊谷伊助が江戸から千厩に相場や時事情勢を次々と伝えた手紙が今も残っている。熊谷伊助は幕府の札差から華麗にアメリカの商店の番頭に転向して時代の流れを乗り切った。んで、ペリーから肖像写真を名刺として受け取っている。教科書に載っているペリーの写真は熊谷家のものでした。義父は熊谷伊助を尊敬しそれらの手紙を読み漁ったようだ。それで時事ネタに敏感だったのかも知れないとか勝手に書く。でも多分畠中氏の機転かと)

 

 

 

おかげで義父の戦争画を描きたくねえよ、なら徴兵逃れという願いは叶っている。

これは反戦的なものではなく、出身地から出た偉い軍人から戦場の話を聞き、また戊辰戦争の記録もよく残る地で育った高等教育を受けたボンボンだから可能な教養のゲタばきゆえだと私は思う。

戦意高揚の絵はさらっと描いている。

素直に戦場に行きたくなかったのだと思う。

本当に要領よく戦争道具を作る企業に入って、多分現場監督をしている。

 

岩手県民の戦争体験記録が、岩手県一関市千厩の書店、日野屋本店にあった。その中に一関の女子校の生徒だった人の手記があり、東京の東京航空計器の工場に学徒動員で入ったと書いてあり、頑張るつもりで岩手から東京に向かったのに現場の管理者から「適度にやりなさい」的なことを言われてがっかりしたとあった。

https://www.iwanichi.co.jp/2017/08/15/37430/

これ義父じゃないかな。

工員の教科指導係だし。

東京航空計器の秘書室の方が探してくださった義父の就労記録でも多分その辺の仕事についている。

一関の女子校の生徒を受け入れたのは偶然なのかどうなのか、戦後の新聞の記事によると東京航空計器の会長は岩手県出身だ。

 

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http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/079/0176/0791017600110131.pdf

戦前、戦後、義父は岩手県の学生を家に下宿させて色々と世話をしたらしい。

その郷土愛が出てるエピソードかもしれない。

女の子好きだし。

 

 

 

#長谷川利行 #熊谷登久平 #長谷川利行幻のスケッチブック かな

義父、熊谷登久平の遺品は妻の房江と長男の久と次男の寿郎が守ってきたが、登久平の直の遺品は弟子たちである永田町の官僚たちの絵の会、バリベア会のメンバーがそれなりにやってくれたし、義父の従兄がある程度保存してくれているそうだ。

だが、その頃はまだ描くまでの行程であるラフ画に価値はないと考えられており、それらを日本でまとめて収蔵したのは無言館の館長であり、デッサン館の館長であった窪島誠一郎氏ぐらいかもしれない。

 

と、書いておいてなんですが、私は無職の人ですので他にあったら教えてください。

 

なので、下絵的なものは残ってないと私は思っていたが、捨てられない男であった義父の熊谷登久平と、捨てられない片付けられない女であった妻熊谷房江のおかげで義父のラフ絵などが結構残っている。

で、夫が義父や義母から長谷川利行さんと一緒に歩いた頃の宝物箱と聞いていた中にある小さなスケッチブック。

二年ほど前に見た私は、中に書かれているラブレター的なメッセージに驚いて長谷川利行さんと義父のスケッチブックだと思った。

なので、長谷川利行に興味ありそうな所に片っ端から電話をしたが、NHK長谷川利行の特集のあとで彼方此方から長谷川利行の作品が湧いていたためなのか折り返しの電話もなく、熊谷登久平の遺品だと言っても通じるほどの名ではもうなくて、鉛筆書きで酸化して劣化していくからタダでも良いからとお願いしてもダメだった。

鑑定に出したものではなく、矢野文夫さんが編纂した長谷川利行全集に載っている文書でもなく、つまり曖昧な遺品である。

 

今まで接点のなかった学芸員さんに、義父関係のクレームという方で連絡をはかったらやっと声が聞けたことがある。

お尋ねしたところ、今は個人情報保護法があるため、電話番号と名前を聞いてメモをした瞬間にそれは放置できないモノと化す場もある。

とか、予算問題は知り合いからも散々聞くし、人手不足も散々聞いてきた。

 

まあ、そんなことで長谷川利行のスケッチブックと思われる鉛筆描きの絵と文は私がめくるたびに劣化し、個人用のスキャナの光は恐ろしくて当てられない。

友人の学芸員から聞いた最新のルクス情報で、スマホで撮影している。

劣化させたくない。

 

引き取る、調べるという美術館や美大がない以上、私は私のつてで収蔵庫を持っている所にお願いするしかなく、二年かけてやっと引き受け場所を見つけた。

 

多くの長谷川利行関係の書籍で熊谷登久平との親密な期間が描かれているのに、なぜ誰もこのスケッチブックを使おうと思わなかったのだろう。

矢野文夫氏はこのスケッチブックを知っていたであろうに、なぜ使わなかったのだろう。

同性愛的な関係とも言われていた矢野文夫氏と長谷川利行

絡まる熊谷登久平。

長谷川利行全集には載ってない散文。

これは長谷川利行の作品ではないのか。

だからどこもタダでもいらないのか。

問い合わせた近いところでは台東区板橋区

台東区長谷川利行台東区でやろうと思えばできるだろうに。

板橋区は終焉の地だ。

他にもモンパルナスで売っている区もダメだった。

義父が勝手に作ったスケッチブックなのだろうか。

不思議なスケッチブックは破綻さえしなければ定期的に消毒され、強い光に晒されることなく、預かってくれる人が定年まで生きてくれればその間は安心になった。

それまでに、定期的に起きる長谷川利行ブームがきて、スケッチブックを鑑定してくれる人が出ると嬉しい。

もしくは熊谷登久平の再評価。

 

まあ、すごく私や夫への塩対応でいじけてしまったので、タダはもう考えてません。

ヤフオクに出した方が喜ばれるかと悩みもしました。

美術の研究職の発見にしたかったけど、二年以上相手にしてもらえなかったので多分この家の住人以外見たことがない絵と文を出しときます。

私を肩書きではなく、過去の私がやってきたことで信用してくれる人たちに感謝です。

 

 

 

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私は結構焦っている。

私は既にアラ還だ。

夫も還暦となっている。

二人とも健康ではない。

 

たまたま博物館で調査員をしていた、絵もほんのすこし勉強していた私がこの家に嫁いで、未整理の写真やスクラップブック、痛んでいく油絵をみて、驚くも美学関係の教授だった親戚は既に鬼籍。

美術年鑑に名がある母の従兄も高齢。

この家に残るものを調べてくれる先がつかめないし、世の中埋もれて消えた画家作家漫画家その他腐るほどいる。

 

美大に進んだ仲間のうち画壇に入れたのは、同世代では皆無。みな美術教師として食い、個展を開くまでだ。

一人アーティストになっている女性がいるが、彼女ら油絵から現代アーティストになっていて、少し違う。

東京芸大にいた独立美術協会の教授は私がスケッチブックを見つけたと同時期くらいに亡くなられてて、次の教授が決まったのかの連絡もその教授までで我が家のと縁は亡くなっている。

 

結構本当にどうしたら良いのだろうと悩んだし、最初は丁寧に問い合わせ窓口にメールをしていた。

 

が、返事はこない。

 

プチと切れたのが今年度の平成が終わる時だ。

 

それからは熊谷登久平の著作権の継承者の妻であり、博物館勤務経験があり、私が調査したものが、どこにあるとかを主張するためにこのブログを書き始めた。

またクレームを入れると返事があるという、不条理なことになってしまっている。

 

私が介護離職をして十年以上冬眠している間に予算も人も削られていて、学芸員が雑用までやり、広範囲を担当し、非正規が増えてて文化財候補を後世に残さなくなってきているような気がする。

 

#長谷川利行

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長谷川利行は熊谷登久平と飲みにいき絵を描きあい、義父の登久平は晩年に一番楽しい時代だったと回想をしている。

矢野文夫と三人で出かけることもあれば、二人で出かけることもあったようで我が家にはその断片がある。

全てが未整理であり、岩手県の新聞社の社長となった方が義父の資料を整理しようとした痕跡はあるけれども、亡くなられたようだ。この方に話を聞けたらと思うこともある。

 

戦前に亡くなられた長谷川利行さんの資料が整理されてて、戦後も生きた義父の痕跡が消えていきつつあるのは残念だ。でも義父が利行を思って書いた文を読むと、長谷川利行の絵が多くの人に受け入れられているのは当然なのかもしれない。

 

義父はかなり忘れられている。

絵があるとされている美術館に問い合わせても、数日後にくる「記録はあるが、今度機会があれば調べる」という返答も聞き飽きてきた。

 

仙台空襲の時に某所局長が一番に避難させたと新聞記事にある絵も行方不明だ。

また気仙沼を愛した義父の記事で紙面を何度も飾ってくれた気仙沼の新聞社ももうない。

気仙沼の絵と共に痕跡も津波に持っていかれてしまったようだ。

我が家に残る黄ばんだ気仙沼新聞は私の昔の勤務先に預け、酸性化を遅らせることはできたが、誰かの役に立つ日はくるのだろうか。

 

数年前にヤフオクに出ていた絵で岩手県の公的施設にあったもので津波の被害を受けたという絵の持ち主や、とっさにナイフで自分の血を使い描きあげたという気仙沼の漁船の絵の行方も、私が問い合わせている範囲では不明だ。

 

 

 

私が伝承化しつつある夫の父親の史実を知りたがるのは、私が夫の子を生めない状態で妻になったという、古臭い良妻賢母の形から抜けられないからだと思いつつ。

調べるという面白さも、歴史調査員や物書き時代に経験していて、そのパズルの中のピースを見つける快感が忘れられていないのだなとも思う。

 

長谷川利行は多くの方が研究しているし、書いておられる。

しかし、矢野文夫と熊谷登久平の長谷川利行を語れるのは自分だという壮年期の主張を読むのも結構面白い。

熊谷と矢野の利行亡き後の微妙な距離感。

矢野の連絡を切り抜いて他の利行を偲ぶ宝物と一緒に大切に持っていたのを見ると、義父熊谷登久平がもう少し長くいきていたら書きあがった物語もあったのではないかと、義父の書き損じた原稿用紙に残る文字に思う。

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ちとダウン #東京大空襲

言問橋に背を向けてスカイツリーを見る。

昭和20年3月10日の焼野原の跡地、言問橋には浅草区側からと向島区側からの避難民が押し寄せて身動きができなくなり、そこに火がつき地獄と化した。

言問橋から隅田川に飛び降りて助かった人もいたが、多くは溺死した。

戦後50年の頃に助かった人から聞いている足取りを辿っているのだけど、思い浮かべるのが難しくなってきた。

 

 

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#艦これ #占守 #甲型海防艦 #占守島 #士魂部隊 #池田隊長 #無言館 #美術史

私は以前、占守島ソ連軍と戦った戦車隊の士魂部隊の生き残りの方々に話しを聞いて回ったことがある。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%A0%E5%AE%88%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

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当時私は戦記雑誌の「丸」の別冊丸 で長期連載を持っていて、その中で士魂部隊を取り上げた。

記事になったのは2000年ごろかな、手元に本がないからうろ覚えだが、当時は占守島の戦いはあまり知られておらず、同人誌に少し書いたらコミケスタッフの岩田次夫さんが褒めてくださり驚いたこともある。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E7%94%B0%E6%AC%A1%E5%A4%AB

 

岩田さんとは共通の知人も多く、当時のパソコン通信ニフティの会議室などでも会話をしていたが、まさか私の同人誌を買ってくださるとは思っていなかった。

 

あの頃は流通している商業誌の中には占守島の戦いが書かれたものが少なく、私は戦友会を訪ねて、一番近い所で川口市大田区岡山県津山市、戦後関係者が入植した少年戦車学校の跡地である富士山の裾野。

ここには若獅子神社があるが、これは元々は戦車学校出の戦死者の追悼施設で、戦車学校で教員を務めたベテランも含めて跡地に移住し開拓をして、学校の門を残して、遺品を収集し戦友会たちが守っておられた場所であった。

 

 

交通費が辛かった。

その分は他の仕事で補いながら話を聞いて回った。

 

驚いたのは、晩年の司馬遼太郎先生の痕跡がすべての取材先にあったことだ。

取材のお礼のハガキや手紙が残っていた。司馬先生は出陣により戦車学校に入った。

難しいことをごちゃごちゃ書くとマニアが怖いので、さらっと書くと戦争が長引いて兵隊が足らなくなり大学生の勉強期間を減らして繰り上げ卒業させて軍人にする制度で戦車部隊に入った。

その教育期間に属した戦車学校の校長先生が一時期、池田末男大佐で、池田大佐は占守島の戦いで有名な士魂部隊の隊長として戦死された。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%9C%AB%E7%94%B7

 

占守島の戦いや池田隊長のことはwikiで読んでください。私は今は介護離職をした専業主婦ですので、新しい情報を持っていませんから。

 

その占守島の戦いの慰霊祭が先日札幌であった。

三年ぶりであり、戦いに参加した将兵の御存命者は高齢だ。

 

https://www.hokkaido-np.co.jp/sp/amp/article/335817

 

昔は終戦の日靖國神社でも士魂部隊の戦友会があったのだけど、今はない。

靖國神社のみたま祭りの士魂部隊の提灯の下には戦友会の方々が立っておられて、ご遺族がいらっしゃると当時を話し慰霊祭の案内をされていた。

それももうない。

昔は各提灯の下に生存者と御霊が集っていたけど、最後に行ったときはナンパ祭りとなっていた。

あれは悲しかった。

もしくは良いことなのかも知れない。

みたま祭りで涙を流して語り合う人が減っていったのは平和だからだ。全国から観光バスが集まった靖國神社駐車場は今は空いてる。

 

空いてると言えば、先日の占守島の慰霊祭の写真を見たが座席の間がある。

参加者が減ったのだろうか?

 

占守島への遺骨収集へ行った第一弾の時、戦車兵たちは既に白髪頭で、ご遺族を案内し、錆びた戦車から遺骨を拾い、または埋めた場所を掘り。

同期の遺体を埋めた場所に遺族を案内し掘ったが出なかった人はその場で号泣し、帰国後すぐに亡くなられた。ご遺族に戦友の遺骨を渡したかっただろう。遺骨収集が始まるまでの時間が長すぎた。

 

 

占守島でのソ連軍と日本軍の攻防戦が終わったあと、日本軍が勝ったのに彼らは捕虜となりシベリアに連れて行かれた。

戦友たちを占守島に置いていきたくないと、遺体の指を切り落として焼き骨として持って行った者もいた。

シベリアで死ぬものも出た。

遺言を皆で記憶した、誰かが帰国をしたらご遺族に伝えるために。

 

シベリアから帰国すると復員局の係が遺骨を回収した。

 

骨が遺族に届けられたかと気にしていた方もいた。

 

ご遺族の中には池田隊長の忘れ形見の池田誠さんがいる。

彼の名は池田隊長の御子息として知る方はマニアにはいるだろう。そして今は豊田市にある慰霊碑を守っておられる方でもあると私は聞いている。

 

池田誠氏の名は美術史にも実はある。

 

学徒出陣で戦死した美大生たちの作品を収集展示している無言館という美術館が、真田の地、長野県上田市にある。

ここは戦死した美大生たちに心打たれた方が開設した、彼らの作品を展示する美術館で私立だ。

土地は上田市が貸している。

ここを美術館を建てる費用は館長が身銭を切り、また全国から集まった浄財もあった。

この寄付金に対して税務署が所得税を半分もかけた。

すでに借金も背負っていた館長は嘆き、それが記事になった。全国から同情が集まったし、助言も集まったが政治色の強い助言もあった。

そこに愛知県豊田市に住む池田税理士から電話があり、池田税理士はすぐに駆けつけると膨大な寄付の資料を仕分け整理して税務署の課税が間違っいると、既に納めた分の返還交渉用の書類まで手弁当で用意した。

無言館にきた課税は解消され、館は今も上田市にある。

池田税理士が居なければ無言館は開館できなかったかもしれない。

でも、それはあまり知られていないようだ。

https://www.city.ueda.nagano.jp/kankojoho/shisetsu/museum/007.html

 

あ、同じ館長の貴重なコレクションを展示したデッサン館が休館してる。

デッサン大事なのに。

 

この無言館を救った池田税理士が士魂部隊の池田隊長の御子息の池田誠氏だ。

当時、池田税理士はそのことを一言も漏らさず、粛々と戦没美大生たちのための美術館のために動かれた。

 

これは聞いた話だったので、先日占守島の慰霊祭に参列される池田誠さんや士魂部隊の生存者に、擬人化した占守島から名をもらっただけの海防艦 占守の絵を見せて話を聞くと言っていた方に詳しくは書けなかった。

ただ察して欲しいとお願いした。

 

昨日夕方、うちから坂を下りたところにある古本屋の #ひるねこBOOKS さんにふらりと寄った。

なんと、無言館館長の窪島誠一郎氏が書いた「無言館ノオト」集英社新書があり軽く読んだら中に池田誠氏についての詳しい記述があった。

縁だわ。

即買った。

そしてツイッターで池田税理士の話しを呟いた。

艦これの占守ファンの若者に私が伝えたいことは届くだろうか。

 

まあ、言いたいことを書くまでに、相変わらずダラダラ脱線しまくってますが、慰霊祭に艦これのキャラ絵を持っていくのは良いけど、それを見せびらかしたり、積もる話がある方たちの語らいの場で、「これ占守ですよ、艦これで占守島の戦いをテーマにしたイベントがあるんですよ」とかは、少し考えて欲しいです。

 

私は加賀ちゃんが好きです。

再婚するまで使っていた財布は島風でした。

 

それはそれ、これはこれ。

よろしくお願いします。

 

あと、私は戦争を賛美しているのではなく、美化している気もありません。

その時代に育ったら反戦やりきる自信がないだけですし、体験したくないだけです。

今、少しずつ戦前に近づいているのが気になっています。

 

 

 

 

頭が痛いので

今夜は冷凍食品の餃子でごめんなさいをしたけど、今夫は不機嫌にならないので助かる。

義父のお弟子さんや家政婦さん子守さんに坊ちゃん坊ちゃんと呼ばれて育ったので食べものの好き嫌いとかは面倒だけど、好きな食べものが中学生になって初めて食べたマクドナルドやチキンラーメンとかなチープな舌を持っている。

ケンタッキーフライドチキン小僧寿しも大好きだ。

幼児期に高尚な食べものばかり与えると、思春期になり友人とものを買い食いし始めた時にジャンクフードにどっぷりとハマるぞと私は声を高くして言いたい。

 

 

高尚といえば我が家にいるノルウエージャンののるは相変わらずカメラ目線をくれないがやんちゃだ。

ドアノブを開けて階段に出て、ドアが閉まるとパニックになって鳴く。

ゴミ箱漁る。

夫や私がトイレに入っていたらドアを開けようとするので鍵をかけるようにした。

このこは大切にされていたけれど、お子さんに猫アレルギーが出た方がうちに預けてくださった。

我が家の猫で唯一両親がわかっている猫だけど、高貴な身を忘れて我が家の猫たちと馴染んでいる。

可愛い。

お子さんのアレルギーが酷くなり手放すことになった飼い主さんは泣いておられたけど、元気にやっていますよ。

あと、持たせてくださった高級な猫餌は、片手に他の猫用の安いカリカリを食べてからは見向きもせず、安いカリカリを食べさせないようにしたらハンストをして、夜間にしまってある安いカリカリの袋を取り出して破って食べるという芸当をやらかしてからは、他の猫と同じ安いカリカリを食べさせています。

安いカリカリでも長生きした猫は20歳こえたし、我が家の猫はほとんど15年以上生きている。

高いカリカリを食べていた友人の猫が早死にしたこともあるので、安いカリカリでも多分大丈夫と思いたい。

 

 

 

 

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