熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

寒い 引きこもって 戦前の日本精機株式会社を調べてみた

昨日より9度寒いとか。
家族に甘えさせてもらい寝込んでいます。

戦前戦後、熊谷登久平が属していた短歌の同人「まひる」の創始仲間の野口良一呂は画家仲間でもある。
生まれ住んでいた場所は谷中清水町の御屋敷街。
太平洋戦争開戦直前に日本精機株式会社などの三社の常務取締役となっているので有力者の子息の徴兵逃れ、従軍画家逃れだろうなと思い、調べると父親の半之助は東大出で戦前の紳士録に名がある。
まひるの創始メンバーの名はある程度見つけたので、それぞれの戦時を追うのも面白いかなとキャパオーバーしそうなこと考えている。

日本精機株式会社で検索をすると戦後に新潟県に出来た会社が出てくるが、もうすぐ消えてしまうヤフーのブログに戦前の日本精機製のラジオが出てくる。
消えてしまうかと焦ったら移転していた。
でも残念ながら日本精機についてのブログは移転していないみたいなぁ。
申し訳ないけどスクショあげます。クラウンって名前でやっていたのかな。

https://blogs.yahoo.co.jp/kojikojj1128404_0526/42517017.html

あと ラジオの館 さんのサイト
http://oomaguro.eco.coocan.jp/radio/radio306.htm
http://radiokobo.sakura.ne.jp/G/tr-radio-repair/crownTr-820.htm





https://43m8uwv7uq4n.blog.fc2.com/?sp

呂芸さんのサイトから

久しぶりの猫カフェ #宿木カフェ #谷中銀座

キャバクラで浮気してきた。
財布の中が千円札一枚になった。

今うちには中々捕まえられないタマが遊びにきているし、地域猫との交流もあるから菌を持ち込む可能性を考えて足が遠のいていた。

私と娘は美味しい食事を頂いて、その代金の一部が保護猫さんのご飯になると良いな。と思います、

https://kaiten-portal.jp/media/tokyo/restaurant/yadorigi-cafe/













以下は以前行った時の写真。
この頃の仔はソルテだけかな。
今は客さんが多いから今回は長居はせず谷中銀座と本屋さんで買い物をして帰宅。
















懐かしさを感じるサイト

http://doteraoyaji.sakura.ne.jp/syouwa/index.html

ツイッターで紹介されていた個人蔵の写真のサイトです。
私が上京してきた頃の東京はこれに近いです。
もう40年前ですからそうなりますね。

今コツコツの熊谷登久平の戦前戦中を調べていますけど、台東区には戦前の美學や博物館に帝国図書館があった頃の資料が見当たらず、四苦八苦しています。
永田町の国会図書館に行くしかないか、地図は久しぶりに茨城の国土地理院に行ってローラー作戦か九州のゼンリンかと悩んでいたり。

台東区なぜか空襲と震災と水害の被害がなかった上野の山の調査を殆どしてない。
下町のものはあるけどって感じです。
義父たちの短歌の同人仲間が谷中清水町に戦中まで住んでいて仲良くやっていた痕跡は我が家にあるのだけど、その人が住んでいたのはかつて理研の会長や役員の屋敷が並んだ理研城下町と呼ばわれていた一帯。
その辺をサラッと調べたいと思っても資料がない。
役員たちは戦後戦犯容疑で大変なことになったのは近現代史にあるけれど、空白だらけだ。

あと、義父の正妻と思われていた新聞によっては京子さんと書かれている熊谷家への手紙では絹子さんで、銀座のカフェのサロン春の女給頭だった、夫たちにはおばあちゃん。
義父が成功した後も上野の山の美術館か博物館で働いていたと、戦前の彼女を知る熊谷家の人に聞いた。
モガだし、女学校出を売りにしていたサロン春の女給さんだし。
で、戦後に編纂された高見順の銀座の中に収録されている対談にカフェの女給の中に結婚して上野の博物館で働いていたのもいた的な話があり、これがもしかしたら彼女かも知れない。
熊谷登久平の女房は女給と何人かが商業出版で書いている。

とかこの辺とか戦争の時の画壇とか調べててたまに切なくなります。

一関市の千厩の #レストランあさひや は美味い

夫の従兄の英三さんの奥さまに連れて行ってもらった #レストランあさひや は私的にはかつて神戸のオリエンタルホテルで食べた味で、そうよこれがフランス料理よって感じだった。
だから熊谷伊助の直系のお嬢さんと、伊助の正妻のチカの実家の菩提寺の檀家総代さんのお嬢さんに「春には千厩に行ってレストランあさひやのフレンチ食べましょう」と、積極的に話を進めている。
私も含めてお嬢さんだからね。
察してね。
本家の近所の宿も快適だし。


千厩は美味しいものが多い。
不思議なぐらい画家や彫刻家など文化人を輩出している。
かつては馬の飼育で栄え、義経が神戸の鵯越をした時の馬も千厩の馬だったそうだ。千のうまやだから千厩だと夫はいう。

去年私は鵯越から一ノ谷の前に義経が留まった場所に行き感動したけど、今年はその馬を育てた地に行ったのだから偶然は凄い。






千厩、明治時代には養蚕で日本一だったとか。だから諏訪湖の片倉温泉で有名な片倉の工場があり、沢山の女工さんもいて商店街も栄えていた。
その様子は義父の登久平が随筆で書き残している。
伊助は千厩に煉瓦の道を造る予定だった。
登久平は郷土から出てくる若者の世話をし、東京航空計器の映写機を持ち込んだり故郷に恋していた。

義父が好きだったという鰻を出す店は廃業していた。
谷中に数年前まであった鰻屋の味が千厩の老舗の味に似ていたそうだけど、そこも先代亡き後孫が違う店にしてしまいもう食べられない。
義父が銀座の事務所からワザワザ案内していたというその店の鰻は本当に美味しかった。

本家さんが連れて行ってくれた千厩の鰻屋さんも美味しいけど、義父が好きだった千厩の古い店のも一回は食べたかったな。

以下、参考までに片倉温泉の写真。








熊谷伊助の死を嘆いた勝海舟の歌の石碑がある寺の檀家の総代さん

熊谷登久平が尊敬していた熊谷伊助は、登久平の曾祖父の兄であり、同じく岩手県千厩の日野屋の出身なので登久平の実家には伊助の手紙が結構残っている。
伊助の早逝を嘆いた熊谷家は勝海舟から贈られた歌の石碑を正妻の実家の墓所に建てた。
正妻のチカには子が生まれなかったので伊助の死後、千葉県の行徳の実家に帰り亡くなる。
岩手県千厩の熊谷家にとっては大切な長男と嫁なので、熊谷家の墓にも伊助とチカの墓碑を建てている。
勝海舟の歌碑については千厩と谷中と片瀬江ノ島の熊谷家では伊助を偲んだ内容と伝わっているが、碑が建っている千葉県の行徳のチカの実家の菩提寺にはいつのまにか勝海舟がお手付きした女性を偲んだ歌碑と伝わり、案内板にもそう書かれている。
登久平の随筆で伊助の歌碑の存在を知った私は案内板の内容に驚き、行徳を吸収合併した市川市の博物館と文学資料館に問い合わせた。
これは何回か書いたよね。
少なくとも昭和40年代はじめまで登久平が通っていた頃はそうなってなくて、登久平より若い伊助の直系の守美さんが行かれた頃もそうなってない。

その頃のご住職が亡くなり、次の次のご住職夫妻の頃に歴史家を名乗る人が現れてチカは勝海舟の愛人でと素敵な話しをしてくれて、今では商業出版までされててわやくちゃな感じになっている。

市川市学芸員さんたちは伊助の碑だとご存知だけど、そりゃ勝海舟日記に載ってるもんね。
全訳が出たの平成になってからだけど。

でも案内板の担当部署が違うので面倒な話しになってて、私は碑を作った家には拓本があるはずと、岩手県千厩の本家に押しかけて確認し、それを碑のあるお寺さんに連絡してお盆とお彼岸が終わったらお伺いすることになっていたけど、あの台風でお寺さんの屋根がやられたそうでのびて、やっと今月お伺いできることになった。

総代さんは地元史にも詳しくて片瀬江ノ島の熊谷家にも聞き取りに行っておられた。

市川市の星亮一さんのような作家さんが商業誌で発表された勝海舟の歌碑のチカは勝海舟が愛した女で、彼女の死を嘆いたとかの話は本当に困ったもんである。
作家さんは市川市の名誉市民なので本当に困る。御存命なのに碑が建っているほど市川市の文化的象徴。

市川市、案内板書き換えてくれるだろうか。
あんなに図書館や博物館が充実しているのに縦割り行政は困るわ。















冷えてるので具合悪いです。

私の持病の一つは甲状腺機能が低下してホルモンを作れない橋本病というもので、脳を動かすホルモンが足りなくなるために自律神経も病みます。
体温調節機能が鈍くなり急激な気温の変化に弱いです。
一昨日まではまだなんとかなっていたのですが、昨日今日は具合が悪く、なるべく今日明日は動かないようにしてチラージンという人工甲状腺ホルモンを蓄え、来週ある大切な婚家の要件を済ませたいと思っています。

橋本病は怠け者病とも言われて、人に説明するには面倒で身体のあちこちが痛くても明確な理由がないので理解はされません。
怠いので動きも言葉も知能も鈍くなり、恥ずかしい思いを沢山重ねてきました。

今日はひたすら寝てて本も読まず、風呂洗いは娘に任せてます。

具合が悪い理由が本人でも納得できないので、面倒です。

子どもの時からの持病は喘息で、これは私の為に引っ越した空気の良い超ど田舎で本当に残忍とも言えるイジメにあいました。
ヒューヒューと音を出すので真似されたり、薬を捨てられたり、あれは喘息は公害病で田舎で出るはずがなく、癲癇だと村の人たちが決めつけ、癲癇は感染ると彼らは信じていたからイジメは始まったのですけど、理解されない病気は面倒だなと今も思います。
あのど田舎より足立区や台東区は一般人に教養があり楽でした。

熊谷登久平の絵

https://twitter.com/yanakakumagai/status/1203289467382980608
ヤフオクに出ていた義父の絵が24,500円で落札された。
額縁と題材と塗りから考えると銀座の三越で売ったものだろうけど、資料がないので本物かどうかもわからない。

今まで出ていたのは戦前の物で、昔義父は気仙沼で人気があって、つか気仙沼を観光地にしたのは義父だと戦前の新聞には書いてあり、義父の気仙沼愛は濃くて相思相愛だった。で、結構買ってくれた人がいた。
気仙沼東日本大震災で被災した後、千厩の熊谷の本家の日野屋に義父の絵を買って欲しいと何件も電話があったそうだけど、そういうのがヤフオクに出たのかなと思っていた。
今回のは高度成長期に売れたものだから、どういう人が手放したのか、気になっている。