熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

見慣れた風景が消えていく

七面坂にもマンションができるそうだ。

谷中にマンションができる時の広告には谷中の古い家並みや石垣などが使われる。

ここにできるマンションからは枝垂れ桜が楽しめるだろう。窓からかき氷のひみつ堂を眺めて行列がないときに食べに行けるだろう。

日暮里駅から歩いて5分程度の距離は便利だろう。

でも立ち退きにあった知り合いはここに戻れないそうだ。

 

 

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2022年10月 池之端画廊での熊谷登久平展示作品のキャプション

2022年10月12日から30日まで池之端画廊で開催された「里見勝蔵を巡る三人の画家たち展」の熊谷登久平の作品のキャプション。

https://www.ikenohata-art.com/post/10-12%E3%80%9C10-30-%E9%87%8C%E8%A6%8B%E5%8B%9D%E8%94%B5%E3%82%92%E5%B7%A1%E3%82%8B%E4%B8%89%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%94%BB%E5%AE%B6%E3%81%9F%E3%81%A1-%E5%B1%95

 


熊谷登久平《小菅刑務所》油彩 キャンパス
昭和3年(1928) 
昭和4年(1929)前年の白日会初入選に続き第六回白日会に入選し白日賞を得、白日会会友に推薦され無鑑査への道を開いた作品。
この3年前、大正15年(1926)に登久平は旧制中学の同級生矢野文夫の文京区根津の下宿で長谷川利行と出会い、共に関東大震災から復興していく東京を歩き作品を描いた。この小菅刑務所には日本初の煉瓦工場があった。煉瓦造りの施設は震災で崩落。この絵が描かれた翌年にモダンな刑務所が落成した。(熊谷明子)

 

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熊谷登久平《熱海》油彩 キャンパス
昭和9年(1934)
昭和9年11月29日熱海-箱根自動車道路」の記念スタンプが残る里見勝蔵宛て富士山の絵葉書に登久平は『十国峠にやって来ました。重ねはいりません峠の上の工夫●●です。朝な夕な姿を変へる富士は伊達者です。熱海と箱根の中頃です。都を離れての山の日も中々味があります。奥様●●様によろしく。御健康を祈ります。』と書いた。日本初の有料道路、熱海-箱根自動車道路は昭和7年に開通。
その景勝地からの熱海を登久平は描く。(熊谷明子)

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熊谷登久平《赤い帽子の女》油彩 キャンパス
制作年不明 昭和初期か
赤い帽子を深くかぶり、その青い陰からは強い眼差し。昭和初期、エロ・グロ・ナンセンスを包括したモダンの時代。肩パットが入った二色使いのブロックチェック柄のワンピース。形の良い唇も赤く、扇情的ですらある。モデルは登久平の妹。宮城県丸森家に嫁ぐ前か。登久平は詠む。

「楢くぬぎ山はもみぢになる山をいもは宮城に嫁ぎゆきけり」

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熊谷登久平 《弓》 油彩 キャンパス
昭和17年(1942)
第12回独立美術展に展示された「弓」。この前年、日本は開戦した。時代は画家たちに雄々しさを求め、あるものはみずから従軍画家となり戦場へ、あるものは国に協力的でないとみなされ拘束された。
登久平は強いられたテーマで描くことを好まず、しかし時流に逆らわない選択をした。
前年の白日会には『戦いの春(弓鳩)』独立美術展には『太鼓』『笛』出品。

この頃登久平が描く人物画は白目がない。(熊谷明子)

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熊谷登久平《アラジンストーブと女》油彩キャンパス
昭和初期?(1930年代)
アラジンストーブは1930年代初期に英国で開発された最先端の暖房機器であった。
モデルは登久平より11歳上の衣子。女学校出の才媛で外国語も嗜んでいた。登久平は大学生時代に彼女と出会い交際を始めた。卒業時期、登久平は家業を継がす画業を目指すと実家に伝え勘当され潤沢な仕送りをたたれ慣れない労働をし倒れた。その間彼女は働き生活を画家への夢を支えた。登久平は昭和4年二科に入選。報じる新聞記事に共に写る。彼女は藤田嗣治が企画した銀座のカフェ「サロン春」のマネージャーでもあった。(熊谷明子 )

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熊谷登久平《曲馬》油彩 キャンパス
昭和6年(1931)
朝日新聞推薦展に出展した作品。里見勝蔵の影響がみられる。
この年登久平はサーカスを題材とした『軽業の女』を白日会に出展している。開国後、江戸時代からの曲馬芝居はすたれ、西洋曲馬へと人気はうつりサーカスが曲馬と呼ばれるようになる。
長谷川利行が友人の登久平に残したスケッチブックには昭和3年浅草でのサーカスの楽しさが記されている。
本絵は昭和6年作だが人々が熱中した躍動感と彩りがある。(熊谷明子)

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熊谷登久平《漁村》 油彩 キャンパス
昭和30年代後半?  
熊谷登久平遺作展出品作(昭和46年(1971)9月13日~18日、柳屋画廊)を選定するために台東区谷中の登久平のアトリエに集まった林武たち独立美術協会会員と弟子たちが記念パンフレットの掲載用に選んだ作品。
林武は「その人柄に見える人情に厚いことや自分の尊敬する先輩の作風に何のこだわりもなく採入れそれを自己の色感に唄い上げることを至上の歓びとした」「近年その完成が見られるようになった」とパンフレットに書き残している。(熊谷明子)

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熊谷登久平《家》油彩 キャンパス
昭和2年(1927)
大正15年(1926)年藤花の頃、登久平は長谷川利行と出会い、共に絵を描き、短歌を詠んだ。昭和2年11月2人は新人登竜門として新設された「大調和展」の一等賞金千円を目当てに大量出品するも全作落選。結果に納得できなかった2人は谷中の額縁屋、大地堂と彩美堂で「反大協和展」を開催する。そこに朝日新聞に掲載された開催案内を読んだ里見勝蔵が前田寛治と共に訪れた。

里見宅に招待された2人は一升瓶を三本空けた。本作はこの頃の作品。展示会場はここ池之端画廊から徒歩五分ほどの言問通り沿いにあった。(熊谷明子)

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熊谷登久平《鹿島神宮》油彩 キャンパス
昭和19年(1944)
登久平は第14回独立美術展に写実的な『香取神宮』とこのポップな作品を共に出展した。展示会も軍の影響が強くなり考え抜いた選択であった。この年、戦局は悪化し続け「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」と書いた新聞記者が徴兵され戦場に送られた。空襲に備えた防火のための建物疎開(建造物を壊して火除け地とする)も始まった。登久平と同じ川端画学校で学んでいた島崎藤村の息子で画家の鶏二が南方で戦死。登久平は学友のつてで国策会社『東京航空計器』に入社し戦地への徴用を逃れた。(熊谷明子)

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熊谷登久平《ねこ・じゅうたん・かがみ》油彩キャンバス
昭和34年(1959) 57歳
「熊谷さんが、新しい表現体を打ち出してから、今年は四年目というものだろうか。その表見体は、格別きびしいものでも、敢えて強いものでもなく、実に素朴なという方が適切だろうし、またそこに、熊谷さんがあるというものだろう。」(昭和38年2月1日の月刊美術クラブ)
昭和34年登久平は次男の寿郎を授かる。57歳の彼は長く共に過ごせないだろうと次男を甘やかす宣言をし、砂糖息子と呼んだ。そして表現が変化した。(熊谷明子)

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熊谷登久平《山と湖》油彩キャンバス
昭和28年(1953) 52歳
前年27年、日本国の主権が回復しGHQが廃止された。この年厚生省の洋画好きが集い洋画同好会が発足。その指導に登久平が招かれ会の名は熊谷の逆読みのバリベア会となり、室内指導と写生旅行にも出かけた。
本作は昭和28年に日光で描いた習作と思われる。
登久平は戦時中に戦場画家逃れのため入社した国策会社東京航空計器に敗戦後も引き留められ社の生き残りに尽力し進駐軍への交渉にもついた。
その重責からの開放感が本作にある。(熊谷明子)

 

f:id:TokuheiKumagai:20230203102631j:image寿郎気に入りの作品。

 

節分なので氏神様の諏方神社へ。

今年も豆まきは中止で社務所で分けてもらう。

 

神社向かいの太平洋画会の展示会へ。

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#熊谷登久平 概略 (14190文字) 私と登久平の身内、関係者のための年表用メモ 随時更新

 

 これは熊谷登久平関係者向け用の報告メモでもあります。気が向いたら更新しています。登久平と、義母と義兄、お弟子さん、甥の英三さんを中心とした千厩のメンバーが残してくれた資料、その断片、一関の平澤家の資料、それと古書や上野の山にある文化財研究所や国会図書館などで見つけたものを元に、見つけ次第年度に書き込んでいるため、年度内の順は適当になっており、スマホ画面で入れ替えるのは面倒なのでそのままです。

何月何日の展覧会かは検索したら出てくる場合もありますが、ごめんなさい。

 

熊谷登久平の次男である熊谷寿郎(私の配偶者)は登久平の著作権を持ってないとの指摘がございましたが、法に基づき相続し著作権を持っております。熊谷美術館を管理運営している本家がスムーズに動けるように大きく主張をしておりませんが、著作権法では寿郎が相続人です。(なんでこんなこと書かなければいけないんだろう)

 

 

 

熊谷登久平はハイアート(high art) 純粋美術の画家ではない、「下手だ」「引き立て役」「独立美術協会会員なのに独立賞をとってない」などと言われますが、美学とか学術的とか私は理解してないので美術年鑑に掲載されてるから画家と言わせて頂いております。

(正直言ってムカつく)

 

随時、加筆訂正更新してます。

長いと苦情が複数から来ましたが、私的なメモでございます。また参考にできる方との情報共有的なものとして作成してます。

関係ない広告が出るのは好ましくないので出ないように使用料を払って運営しております。私たちに何かあったら広告が出ますことご理解ください。私たちが死んでもハテナがある間は残せるかな的な。

 

 




明治34年(1901年)
10月2日、岩手県東磐井郡千厩町に、熊谷喜造(二代目半兵衛)とまつみの長男として生まれる。
本名、徳兵衛。

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大正8年(1919) 18歳

旧制一関中学を卒業 

中学時代の作品「潮来の村」

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祖父母の肖像画

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大正10年(1921) 20歳
この頃上京し、中央大学商学部に学ぶ。

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また、川端絵画学校にも入り、本格的に絵画を学び始める。川端画学校では海老原喜之助、橋本八百二らと交流し渡仏前の海老原から自画像を貰う(桑原住雄/日本の肖像画/南北社 /1966/1/1)。

 

中央大学では応援団に入り、絵画倶楽部パレットを創立。柔道二段でもあり、慶応大学応援団との乱闘で勝つなどの武勇伝が新聞記事に残る。

上京早々に片瀬写真館を経営する熊谷伊助の直系の熊谷治純や横浜のマツヤカンパニーを訪ねる。

この2年後、熊谷治純は関東大震災で被災した屋根の上の岸田劉生一家を撮影している。(近所住まいだった)

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↑右、熊谷治純 真ん中、登久平(徳兵衛)江ノ島にて。

 

この時、憧れていた岩手県出身の洋画家萬鐵五郎宅を訪ねたとかも我が家には伝わる。
萬鐵五郎は1930年協会創立メンバーが属していた円鳥会の創立者でもあるうろ覚え。熊谷登久平が1930年協会に絵を出し、白日会で会員になっているのに1930年協会のメンバーが創立した独立美術協会の会員になることに固執したのもなんかわかるような、証拠もないのに無責任ですけど。

(円鳥会の成立と消滅―萬鐡五郎を中心として  佐々木一成(岩手県立美術館))

まあ、伝承だと家に岡本太朗がきた。川端康成もきてた。島崎藤村の家と付き合いがあった。サトウハチローと付き合いがあった。棟方志功と付き合いがあったとか。

残念ながら伝承としか言いようがない。


(藤村は息子さん二人が同時期に川端画学校、サトウハチローも同時期に川端画学校で学んでいたとかで接点はあるけどね)

 

大正12年(1924)22歳 

関東大震災にて家財が焼失するも大切に保管していた海老原喜之助の自画像は焼け残る。

(「日本の自画像/桑原住雄著/南北社1966年5月30日発行」)
渡仏前、海老原は登久平に「もっと絵を描け」と、まとまった数の作品を渡しその中に自画像があった。
その絵を潰すのは惜しいと登久平は大事にしまっておいたが、関東大震災に遭い家は全焼する。
が、海老原喜之助の自画像は無事で、その後帰国した海老原にその話をすると喜んで裏にサインをした的な。昭和40年代までその絵は我が家にあったが葬儀後の混乱期に失われたそうだ。

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(川端画学校に岩手県出身の橋本八百ニもいた。
橋本八百ニにも渡仏前に海老原は絵を渡し、その中にも自画像があり、今海老原の自画像として有名なのは橋本八百二が持っていたもの)

 

 

小石川の川端画学校は無事?
神田錦町中央大学は図書館は無事?

 

 

大正13年(1924) 23歳

このころ川端絵画学校修了か?

このころ岩手県千厩の豪商日野屋の父に大学を卒業しても家業を継がず画家になると宣言し仕送りを断たれる。
でも11歳上の美しい女性(本名/横江政恵、名乗りは熊谷衣子)と歳下の叔父で中央大学生(彼も後に勘当される)に援助を受け絵も大学も続ける。

 

大正14年(1925) 24歳

中央大学商学部卒業。(中央大学にて確認済)

洋画の画材は金がかかる。

このころ画材のために慣れない労働をしていたためか倒れる。それを知った母の実家や親戚が一斉に送金を始めるも、父親が送っていた仕送り額には満たない。

援助をくれた家には後に絵を贈ったらしい。

 

結核を発病。

北里病院(?)を経て(熱海の噏滊館/きゅうきかん)で静養をする(弟の広介の手記より)。

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大正15年(1926)25歳

この年、熱海の噏滊館(きゅうきかん)での静養が終わったと思われる。倒れてからずっと献身的に熱海まで付き添った衣子と一緒に帰京。(登久平の従弟談)

中央区浜町から文京区根津に転居/「長谷川利行と私・熊谷登久平」『新世界美術』 一九六一年十一月号、六二年三月号版

(大正時代、日本橋浜町?のモスリン問屋に世話になっていたとの情報がそこのひ孫さんから入った。登久平が送った葉書の添付あり)

 

衣子、母親公認の内縁の妻となる。(数年前、平成2年まで登久平の生家方の親戚は入籍をしていたと思い込んでいた)

 

 

藤の花の咲く頃、一関中学時代の同級生矢野文夫(詩人・日本画家)の紹介で、根津にて洋画家・長谷川利行を知り、親交を結ぶ。

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繰り返すが洋画を描くには金がかかり、親戚からの援助では足らず、女学校出の内縁の妻はカフェで働く。
(これを矢野文夫がカフェの女給と登久平の手記「長谷川利行と私」引用の際に(登久平の死後)加筆し、それが今もひとり歩きしている。

そのため彼女を下品な風俗嬢的な書き方をする長谷川利行関連本もあり私は怒っている。)

(衣子は女学校出で教養があり、上方言葉を話し英語、仏語ができる才媛だったので、後に藤田嗣治がプロデュースをした銀座のカフェ『サロン春』に引き抜かれマネージャーになった)(浅尾丁策著/昭和の若き芸術家たち―続金四郎三代記〈戦後篇〉芸術新聞社 (1996/10/1)には、サロン春のマネージャーという記載あり。)

登久平の次男の寿郎は彼女はチャップリンに会ったことがあると聞いていたが、サロン春時代のことかもしれない。
彼女は後に府立美術館で働いていたとの話もある。(登久平の従弟談)

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昭和2年(1927) 26歳
白日会で「廃屋」「冬日風景」の二作品が入選し、昭和3年(1928年)の第五回白日会展に展示される。

 

 

 


長谷川利行と二人展を上野の山、言問通り沿いの額縁屋彩美堂と大地堂(木菟社)を会場として開催。(企画段階では松尾恒夫(詳細不明、戦前の白日会展と1930年協会入選者に名がある)を含む三人展)

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同展、反調和会展を見学に来た洋画家・里見勝蔵(1930年協会、独立美術協会創立会員、二科会友)、と前田寛治の知遇を得る。(長谷川利行と私)

大反調和会展に展示されたと思われる作品。
「家」「大川」(隅田川永代橋)「ニコライ聖堂」「千厩警察署」

 

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この年、招待された里見勝蔵宅にて一升瓶を三本空ける。次から里見家に行っても酒が出なくなる。(長谷川利行と私)

 

昭和3年(1928) 27歳

熊谷登久平の宝物、長谷川利行スケッチブックはこの年のもの。

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第5回白日会展。「廃屋」「冬日風景」
第3回1930年協会に出展。「冬の風景」「軽業」
白日会には、昭和16年の第18回展まで連続出品。白日会の仲間と短歌の会「まひる」を結成。

 

白日会の冊子制作にも参加。編集部は浅草の村上鉄太郎宅。村上は戦後白日会主要メンバーとなる。

この、冊子に書いた随筆及び短歌は1944年に発行した画集に収録。


昭和4年(1929) 28歳

第4回1930年協会展に出品。「居留地風景(横浜)」「冬」
第16回二科展に出品、入選する。「気仙沼風景」「赤松と水車小屋」

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『鬼才 長谷川利行と二人 熊谷登久平・矢野茫土 一関ゆかりの画家 生誕百年展 』一関博物館図録より。(一関博物館 岩手日日新聞社 企画・構成 /出版社一関博物館、岩手日日新聞社
刊行年平成13)


第6回白日会展「燈台などの静物」「小菅刑務所」

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白日賞受賞、白日会会友に推薦される。

「小菅刑務所 熊谷登久平氏 力作である。灰色の中に赤と緑の調和を意識的に纏めてみることに成功してみる。 併し灰色のバックの筆遣い上に、多少の騒がしさを認める事と色彩の質に於て考慮されたい点がある。/富田温一郎」

 

この年、村上鉄太郎も白日賞を受賞。

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日本アンデパンダン展「気仙沼港」「赤襟の女」

二科展入選により、父による勘当を解かれ仕送りの再開。初回送金は200円。この頃の大卒(超エリート)の初任給が50円。

内縁の妻は新聞雑誌などの関係記事のスクラップを始める、スクラップは晩年まで続く。
アトリエのある谷中初音町の貸家に転居する。新聞に父親が大きな援助を始めたことへの皮肉記事が載る。

登久平を支えた妻の名が違うが、衣子である。

 

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昭和5年(1930) 29歳

岩手県出身の画家の会、北斗会の会員となる。上野松坂屋の展覧会に出品。


第5回1930年協会展に出品。「気仙沼風景」「千厩風景」
第17回二科展に出品。「海」「落日」

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(『海』と思われる作品。撮影、リアス・アーク美術館)

 

第7回白日会展「冬の気仙沼湾」「風景A」「風景B」「風景C」「裸女」

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この年の7月、旧制一関中学の美術部仲間と一関で展覧会を開く。

 

『また、郷里一関でも、昭和五年、一関中学校出身の美術家が、郷里に残っている者も上京中の者もふくめいっしょに集まって「オンバコ社」という結社をつくり、この年の七月、一関町の中心街に新築された白い時計台の名物建物・千田ビルで「第一回美術展」が開かれた。

これには、もちろん隆一も加わり、北斗会の会員の熊谷登久平、安倍郁二のほか、同級生の親友の佐々木祝寿、横地省三、先輩の安倍貞世ら、計十人が出品している。このとき隆一は油彩の風景画二点を出品、横地は二点、佐々木も二点、安倍郁二は八点、貞世は十六点、熊谷は十点出品した。』美は脊椎にあり : 画家白石隆一の生涯 本の森 (1997/11/23)小池 平和著より。』

 

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↑↓大正末期熊谷徳兵衛(登久平)は日本橋の浜町のモスリン問屋を経営していた橋爪利兵衛宅に下宿しお世話になっていた。

二科に連続入選をして画家として自信がついた登久平はお礼として絵を贈った。
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昭和6年(1931) 30歳
里見勝蔵、林武等が創立した洋画団体「独立美術協会」の第1回展に「聖堂附近」「噴水のある風景」を出品。同展には、亡くなる前年の昭和42年の第35回展まで連続して出品。

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第8回白日会展「軽業の娘」「岬」「手風琴を持ち」「木立と畑」

朝日新聞推薦展「曲馬」「教会」

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初等図画練習法を出す。詳細不明。

日曜洋画研究所を創設

 

昭和7年(1932)31歳
白日会会員となる。
第9回白日会展「林檎を持つ少女」「蜀黍と楽器」「麓村」「農家と黍畑」「水車場」「サイフォンのある静物」「山麓」「青磁器の花」「桑折の駅」
第2回独立展「風景」「夏山」「秋」「静物

 

朝鮮総統府推薦展出品「曲馬」「落日」「港」「桑折駅」「ばら」

 

千葉美術会顧問になる。野田キッコーマン醤油会社後援にて開催出品「青い林檎」「遠山」「ばら」「少女像」(我が家にはキッコーマンの工場に泊まり込んで描いた作品があると伝わるも詳細不明)

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野田にて。

 

白日会小品展 

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昭和8年(1933)32歳
第3回独立展で、海南賞を受賞。
第10回白日会展「溪流」「三人」「森」「朝海(勅題)」
独立展「書架と雉子」「月夜」「風景」「鳥離室」

6月 独立17人展 神田東京堂

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↓「鳥離室」

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昭和9年(1934)33歳
第11回白日会展「野鴨」「菊」「雉子と卵」「冬」「砲兵軍曹(モデルは弟の熊谷広介か?)」
第4回独立展「風景(岬)」「菜園」「風景(春)」「山百合と娘」

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↓参考まで

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11月2日から15日

本郷区白山上の南天堂にて熊谷登久平小品展。

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この年、11月29日に登久平は熱海から里見勝蔵に絵葉書を出している。

そして、この葉書の記念スタンプと同じような構図を描いた熱海が二点残っており、サインがない方が『熊谷登久平 畫と文』に掲載されている。

サインがあるものは修作でサインは実は次男の熊谷寿郎が頼まれて入れたもの。

また、この葉書は里見勝蔵と親交があった水上文政氏が勝蔵の遺品整理時に遺族から譲り受けたもの。そのご遺族から私(熊谷明子)が購入した。私が持っている1930年協会関係資料他、里見勝蔵の旧蔵品は水上文政氏のご遺族から譲り受けたもの。

 

 

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昭和10年(1935)34歳
第5回独立展で、2度目の海南賞を受賞。

第12回白日会「舞妓」「横たわる裸女」「紫陽花」「Mousieur Shesakoff」「ざくろ/ヤフオクに出品されていた。額縁は大地堂」

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第5回独立美術展「夕月」「五月織」「朝顔

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『児島善太郎 残念ながらブルジョア的要素を洗ひ切ることができてゐない。 進 歩性が少ないといふことは、絵を見るよりも、その絵を収めてゐるガクブチを見ればそれを雄弁に語つてゐる。


熊谷登久平 「夕月」「五月幟」「朝顔」その出品画や画題を見ても判るとほりすこぶる 日本 的な
作家である。会でこの作家に「海南賞」を出した気持が判らぬが、賞は秀作に出すものだから、きつと秀れた作品といふのだらう。(小熊秀雄全集-19 洋画壇時評 独立展を評す 第六室)』

 

https://www.aozora.gr.jp/cards/000124/files/2421_21876.html

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東京府美術館開館十周年記念展に↓「月夜」昭和8年独立美術出品を選ぶ。(美術界のメンバーが自薦の代表作品を出品した展覧会)

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昭和11年(1936)35歳
独立美術協会会友となる。
盛岡市で個展を開催。

https://www.ima.or.jp/collection/search-shiryo/
(多分盛岡の人達は私の絵に対し不思議を持つでしょう。しかし親切に見て下さるならば、それはかつて見たことのない新たな感覚であることに気づいてくれると思います。私は自然のもつ形を如何に画布の中にあてはめるかということを心配します。一本の線のつくる画布の左右、上下、その区画にさえ美しい調和がなければなりません。色彩の上では私は私の感情をもって一番美しいと思う色をつけます。(熊谷登久平「出品画について」『岩手日報昭和11年10月16日より抜粋))

 

第13回白日会展「薔薇」「娘」「花束を持つ少女」「霧の朝(岩手県立美術館蔵)「舞妓」「カナリヤ」

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第6回独立美術展「七夕」「風景」「雲雀」

福島「独立四人展」協力出展

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明治天皇上野公園行幸六十年記念展「桃」

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昭和12年(1937)36歳

第14回白日会「冬の日」「裸女と薔薇」「港」「手風琴を持つ男」「Alabesgue」

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第7回独立美術会「ballet Carnaval」「春の朝」

「港」

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昭和13年(1938)37歳

第15回白日会「裸女と果実」「桐の実」「内裏雛」「小野寺総監像」「雪山」「おしどり」

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↓「おしどり」と思われる作品。山形新聞の服部社長のコレクションに含まれており、2022年12月からの山形美術館「服部コレクション」にて展示されていた。撮影ブログ掲載許可有り。

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第8回独立美術展「パラシュート」「古都噴水」「美しき海」

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6月24日〜26日

山形新聞後援、熊谷登久平畫伯渡欧記念展 

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10月8日-10日『清水錬徳欧洲旅行作品展』銀座資生堂にて鑑賞。

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昭和14年(1939)38歳

第16回白日会「十字章のひと」「鷺」「鳩」「桐の花」「夏に鍛える」

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第9回独立美術展「冬」「兵と鳩」「?と花」

 

 

昭和15年(1940)39歳

10月12日長谷川利行

紀元二千六百年奉祝美術展「冷泉流観月歌會」

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第17回白日会「青いリボン」「日傘」「朝の螢」「あさがお」

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第10回 独立美術展 「月の量」「旅愁」「砂」

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みづゑ 第426号 昭和15年5月発行
p621〜p623より抜粋
ロベール・ギラン 第十回独立美術展覧会評
第十三室……
……又小川マリ子も大陸を材料にとり、女性らしく美しい感愛を力強く創造した。最後の室に近くなつても、吾々は決して、急いではならない。
その第十四室に於て、私はこの會に於て、めづらしい快さと驚ろき満ちた歌を聞いた事である。それは熊谷登久平の、半音楽的な佳作の論文である。彼は單に、畫家としてでばかりでなく、同時に詩人であるとも言へる。畫面から音律を聞く事が出來る。「月の裏」より受けるローマンチズム「砂」より受ける不思さ、「旅愁」より受ける悲歌など、彼の作品の原始的な、又新らしい感覚が、生み出す或種の感情は、彼の作品がこの展覧會の一方向を示して居る様にも思へる。赤色の光線と、肉感的な「月の暈」や「旅愁」は神秘な、同一の告白をして居る様である。彼はこの近代二十世紀の、むつかしさと、現代の騒々しさに拘泥せず、感傷的な詩人であり、又彼自らが、さうである事を臆面もなく発揮して居る事である。(終)』

 

「月の量」は新宿区の厚生年金会館に長らく展示されていたが解体後厚生労働省に問い合わせるも行方不明。

 

昭和16年(1941)40歳
独立美術協会会員となる。
画文集「熊谷登久平画集 絵と文」を出版。

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第18回白日会展「戦いの春(弓鳩)」

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第11回独立美術展「太鼓」「笛」

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第5回大日本海洋美術展 朝日新聞社 招待出展「海に生く」(現在青梅美術館蔵) 

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時局を見て登久平は国策会社東京航空計器の嘱託社員となる。

戦争画を描きたくなかったからと伝わる。

 

昭和17年(1942)41歳

第12回独立美術展「弓」「母子」「鳩」

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独立美術夏期講習講師 大阪 仙台会場

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昭和18年(1943)42歳

第13回独立美術展「夕雲」「早雲」「白雲」「茜雲」「ちぎれ雲」 

この年、9月4日 - かつて登久平と利行たちがスケッチに通った東京・上野動物園で空襲に備えて処分された動物たちの慰霊祭が開催された。

 

 

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文展無鑑査に

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青樹社展に出品(宮崎精一図録より)

 

 


友人の宮崎精一夫妻に谷中初音町の借家を紹介する。(熊本美術館で1988年に開催された宮崎精一展の図録より。)

『1943 (昭和18年)31歳

(宮崎精一は)図画教師をやめ、 上京。
荒川区尾久町の畳屋の二階を間借して制作に没頭する。
近くに軍の戦車工場があり、道路をタンクが通るたびに、四畳半二間がゆれて、 キャンバスがぐらつく。
熊谷登久平の紹介で、 谷中初音町に転居。
墓地の近くにあって静かな環境であった。
近くに島村三七雄、鶴岡政男、 堀進二、 熊谷登久平がいた。
熊谷宅には、時おり里見勝蔵が訪れ、 里見よりヴラマンクについて話を聞く。

青樹社展に出品 (白日会関係作家は、中沢弘光、 伊藤清永、 島村三七雄、熊谷登久平、 小島真佐吉、 川村精一郎、山道栄助、 梅津泰助、 平松譲、大河内信秀、吉川弘、 宮崎精一)』

 

↓は熊本県近代文化功労者から宮崎精一関係で。

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昭和19年(1944) 43歳。
このころ、東京航空計器の正規社員となる。
会社の用務で山形新聞服部敬雄専務(翌年12月社長就任)と交わる。山形新聞社とはこれ以前から付き合いがある。

第14回独立美術展「鹿島神宮」「香取神宮

この時代、美術展にも陸軍からの干渉があり、それは検閲であった。登久平はテーマに悩み神社を描いた。

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昭和20年(1945)44歳

このころ、山形県疎開。宮内に居住。

蔵王の「新雪」この頃。
山形には戦前から絵の指導に訪れており、個展も山形新聞後援で開催していた。
疎開中も山形の洋画家達と親交を深める。後々まで、影響を与える。


山形美術展の審査員ともなる。

終戦後の記事に谷中の家は無事、東京航空計器に残留を望まれたことなどを書く。

 

 

国策会社で日本軍の航空機の部品を製作していた東京航空計器には進駐軍の調査が入り、役員たちは戦犯容疑で連れていかれ、東京航空計器は存続危機に陥っていた。

残された登久平たちは社内技術で作れるものを模索して映写機のニュースターを発案開発。

完成後、登久平は東北各地に自ら営業をかけたという。そのうち一台が千厩に残る。

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昭和21年(1946)45歳

独立美術展

 

 

 

昭和22年(1947)46歳

「十字架のある風景」「修道女」 
山形で大正12年浅草生まれ、登久平より22歳下の房江と出会う。元舞台女優の房江は北京からの引き揚げ者。
山形新聞社長にみそめられ山形で生活をしていた。登久平は房江を口説く。
何回も口説く。

東京に持ち帰る。

谷中の家には複数の女性が暮らしていた。

 

昭和23年(1948)「聖書頌歌」 

昭和24年(1949)「朝の港」「裸婦」 

↓いのは画廊さんのサイトにある「朝の港」

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http://www.inohag.com/

http://www.inohag.com/newpage153.html

昭和26年(1951)「裸婦(服部コレクション)」

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昭和27年(1952) 51歳

「寿美子の乳房」「うすれ日」 

 

 

この年、友人の宮崎精一の甥たち厚生省の絵画愛好者と付合いを始める。
厚生省の洋画愛好会「バリベア会」発足。

以後、没する前年まで登久平は同会の指導をする。(没後の指導者は登久平の友人で同じ独立美術協会の松島正幸。物心ついた頃から登久平が絵筆を持たせて指導していた次男の寿郎も松島から指導を受ける)

 

房江、数度の流産後、長男の久を出産。
それまで登久平を支えていた11歳上の内縁の妻衣子は心臓発作を起こし東大病院に入院。その後日大病院に転院。


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登久平は房江を出産前に入籍。

それまで登久平を支えてきた衣子を嫁として大切にし、房江に冷たかった登久平の母と父は喜び久に千坪の土地を譲る。

その上登久平の父は久に象を買おうとして皆にとめられる。

 

多くの親戚が本妻でなくなった衣子に同情した。
登久平にくってかかった甥もいた。

衣子は戦前戦後進学で上京してくる一族の子の世話をし、弁当も作って持していた。


みな登久平の女癖の悪さは知っていた。
戦時中登久平が山形に疎開した後も谷中のアトリエを護っていた衣子を妾に落とすとは思っていなかった。

 

妻妾同居の家で衣子と房江の立場は逆転するが、衣子は久を可愛がる。
登久平の母は久誕生しばらくして亡くなり、物心ついた久は衣子を祖母と慕う。
7年後生まれた次男の寿郎も衣子を父方の祖母だと思い込んで育つ。
久は幼い頃、近所の寺の鐘をガンガン鳴らすことを喜び、ちょうちんのあるその寺にガンガン鳴らしに行きたがり、「ちょうちんガンガン」が久が衣子をよぶ言葉となる。
その後、衣子をちょーちんばあちゃんと呼ぶ。

ひどくないか久。

 

登久平、東京航空計器の副社長(臨)として進駐軍と交渉してきたが、講和条約後、公職追放期間が終わり役員たちの復帰後も残留する。

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昭和27年 独立美術20回展《1952》

白日会時代の恩師中沢弘光画伯からお褒めの手紙が届き、登久平は感激し表装し家宝とする。

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昭和29年「ふるさと」 

昭和30年「白い町」  

昭和31年「夏去りし海」 

昭和34年(1959)「河口」「古き灯台」 

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↑「古き灯台」修作

1901生(明治34)数えで58歳。

 

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熊谷登久平《ねこ・じゅうたん・かがみ》油彩キャンバス


「熊谷さんが、新しい表現体を打ち出してから、今年は四年目というものだろうか。その表見体は、格別きびしいものでも、敢えて強いものでもなく、実に素朴なという方が適切だろうし、またそこに、熊谷さんがあるというものだろう。(昭和38年2月1日の月刊美術クラブ)」
昭和34年登久平は次男の寿郎を授かる。57歳の彼は長く共に過ごせないだろうと次男を甘やかす宣言をし、砂糖息子と呼んだ。そして表現が変化した。(熊谷明子/池之端画廊展示キャプション)

この『ねこ・じゅうたん・かがみ』は次男のために子どもに受けると言われていた赤色と、ねこを配置した。

登久平は次男に自分が画家であったと覚えていて欲しいと、今まで創作中誰もいれなかったアトリエに寿郎が入るのだけは許した。

そして物心つく前から絵筆を握らせ油彩を教えた。

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昭和37年(1962) 61歳 日本橋三越で個展を開催。三越での個展は、昭和41年迄毎年開催。

写真は第一回熊谷登久平展。

↓撮影者は大気ジャーナル社の佐藤三樹氏。(戦前お世話になった気仙沼の大気新聞の社長の御曹司)

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↑佐藤三樹氏の結婚を祝い贈った富士山の色紙。

 

昭和38年(1963) 62歳

オランダ航空で渡欧。

 

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昭和38年「ナイル河」「サワラ砂漠」 

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帰国後、千厩町で個展を開催。

厚生省の配布書籍『ねんきん』の表紙の依頼を受けたのはこの頃か?

題字は朝倉文夫

 

4月26日から5月1日まで山形新聞・放送・山形美術博物館共催の独立美術選抜展。

山形新聞社と熊谷登久平は戦前から交流があった。

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昭和39年「NICEの宿」「斗牛士」

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昭和40年(1965年)64歳

独立十人の会15回展「ヴェニス日本橋高島屋

独立十人の会は戦前から続く独立美術協会中堅の会で、17人の会の時もあったという。

登久平も創立期から参加し、戦前は資生堂画廊などでも展示会をしていたようだ。

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今は名を変えて日本橋高島屋で展覧会をしていると聞く。人はもちろん入れ替わっている。

「ローマの碑」 

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昭和41年(1966)65歳

「愛も武力も十字架も(殉教)」

 

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衣子死す。

晩年は衣子の33歳下の房江が在宅介護をしていた。
登久平の長男久と次男の寿郎は葬式の時にちょうちんばあちゃんが実の祖母でないと知る。また久と寿郎にそれぞれに少なくない貯金通帳を残していた。

 

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衣子の死を受け入れられない登久平は新興宗教に嵌り広告塔にまでなる。

同時に体調が悪くなっていくが元々病院嫌いだったため新興宗教団体から出される煎じ薬の飲用を続け悪化する。

 

 

昭和42年(1967)66歳

「裸女」「木の間」


体調悪化、腕に覚えがある弟子3人が柔道有段者の登久平を羽交いしめにして、車に押し込み弟の広介の親友が院長をしていた病院に連れて行き検査を受けると癌がかなり進行していた。
個室に入り当時の最先端の治療を受ける。

新興宗教団体と離れ、聖書をテーマにした水彩作品を病床で描き溜める。

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昭和43年(1968) 67歳 11月24日東京で没。

葬式参列者の芳名帳は達筆だらけで解読不能


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登久平の正妻の房江は、長く苦楽を共にした衣子と登久平を同じ墓に埋葬しようとするも菩提寺の住職に断られ、同じ敷地内に別の墓石を建てる。

房江は88歳まで生きたが、「先生とおばあちゃんが仲良くしてて私を呼んでくれない」と、嘆くことがあったと次男の寿郎は話してくれる。

 

 

昭和46年(1971年)

生誕70年 日本橋の柳屋画廊にて熊谷登久平遺作展

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昭和56年、生誕80年の頃に登久平の弟の伊助のコレクションによる熊谷登久平展が千厩の母校で開催されたとの話があるが、詳細不明。

 

平成3年(1991年)

生誕90年

ふるさと千厩にて「熊谷登久平画伯展」

熊谷登久平の年表と戦前の出展記録が作成される。

 

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平成12年(2000年)

宮城県立美術館「TOHOKU/TOKYO 1925-1945 東北の画家たち」展にて「千厩警察署」が展示される。
2000年4月8日(土曜日)-2000年5月14日(日曜日)

↓図録に掲載されている熊谷登久平の年表。制作者のイニシャルはH・H。萬鐵五郎記念館の学芸員平沢広氏かな。

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平成13年(2001年)

生誕100年

この頃、登久平が可愛がっていた甥の熊谷英三によって、ふるさと千厩の生家に熊谷登久平の作品を展示する熊谷美術館が完成した。詳細確認中。

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『この小さな熊谷美術館は、当町、当家出身の伯父、故熊谷登久平画伯(元独立美術協会会員)の生誕百年(1901年生)没後33年(1968年)を期し、同画伯の画業を中心として、その一端を「千厩町」及び地域の皆々様にご覧いただき、「町おこし」の一環、地域芸術文化の振興に寄与いたしたく、開設したものであります。作品点数はそれほど多くはありませんが、ごゆっくりご覧下さい。(熊谷英三)』

 

 

 

一関市立一関博物館にて「鬼才長谷川利行と二人展 熊谷登久平・矢野茫土 一関ゆかりの画家生誕100年」開催される。

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平成20年(2008年)

登久平の甥で生誕110年に向けて資料整理を進めていた熊谷英三が急死。

 

 

平成21年(2009年)

一関市立博物館テーマ展「ふるさとを愛した三人の洋画家 佐藤醇吉 熊谷登久平 白石隆一」

白石隆一は千厩生まれで旧制一関中学時代の美術部の後輩で同時期に上京し、東京市小石川にあった川端画学校で学んだ。

登久平の甥で熊谷英三の配偶者でその死後熊谷美術館を守っている充子は佐藤醇吉の血縁。

 

 

平成23年(2011年)

生誕110年

東日本大震災

気仙沼図書館に展示されていた熊谷登久平の「漁撈船」損傷。修復対象外となり気仙沼教育委員会の倉庫へお蔵入りとなる。

 

 

 

平成24年(2012年)

熊谷房江死去

享年88歳

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平成25年(2013年)

登久平の長男久死去

享年61歳

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平成27年(2015年)

登久平の次男寿郎、猫だらけの写真をSNSにアップしたら私こと仲村明子が釣れた。

 

平成28年(2016年)

12月02日登久平の次男寿郎、仲村明子と入籍。

 

令和3年(2021年)

2/3(水)〜2/21(日)

『明治・大正・昭和 時代を彩った洋画家たち』池之端画廊企画展に「キリスト昇天」など、数点展示。

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2/24(水)〜3/14(日) 

台東区池之端(旧谷中清水町)の池之端画廊で生誕120年展、『野獣派 昭和モダン 熊谷登久平展』開催される。

東京での個展は柳屋画廊の遺作展から50年ぶり。

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コロナ禍により、岩手県一関市千厩の熊谷登久平生誕120年展は急遽取りやめ、2022年開催予定。

 

令和4年(2022年)

1月、台東区谷中のカフェF9にて熊谷登久平の宝物、長谷川利行のスケッチブックからの複写を使いスケッチブック展を開催。

登久平の作品、長谷川利行が出入りしていた(戦前は谷中にあった)太平洋画会の作家の作品も展示。

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気仙沼教育委員会の倉庫に眠っていた「漁撈船」が気仙沼のリアス・アーク美術館に移管となり修復される。

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10月8日から10日まで岩手県一関市千厩で熊谷登久平生誕120年展。

修復された「漁撈船」もお披露目された。

谷中熊谷家からも気仙沼を描いた作品5点を出品。

また、登久平が弟の広介を描いた肖像画も里帰りし展示。

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10月12日から30日まで台東区池之端池之端画廊で「里見勝蔵を巡る三人の画家たち展」開催。

登久平が妹を描いた「赤い帽子の女」

コレクター所蔵の柳屋画廊の遺作展で展示された「漁村」

白日賞を受賞した「小菅刑務所」などを展示。

 

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島村洋子さんの友人が熊谷登久平作品を所蔵していることを知る。

写真を送ってもらえた。掲載許可有り。

要詳細調査

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12月15日〜2023年1月22日

山形美術館

「服部コレクション 山形が誇るフランスと日本の美術」にて、熊谷登久平作品が展示される。

 


 

 

 


坂口安吾 「夜の王様」 挿絵は熊谷登久平

 

 



 熊谷登久平の長谷川利行と私に書かれている#長谷川利行と熊谷徳兵衛(登久平)に油絵具をくれた僧侶は言問通り本光寺の(谷中1-5-2)先先代住職の金子さん。油絵を描いておられた。

本光寺には江戸時代の蘭画家の石川大浪の墓がある。無縁になっているが、先先代とやはり油絵を描いていた先代が大事にしていたので、当代も大事にしている。

 

 



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↓熊谷登久平画伯展実行委員会編纂年表

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熊谷明子@旧姓仲村 (id:TokuheiKumagai) 40日前


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熊谷明子@旧姓仲村 (id:TokuheiKumagai)はてなブログProかつて東北初の全国レベルの洋画審査員でニュースにもなった日本洋画界の中堅熊谷登久平はこれからという時に癌で亡くなりました。 遺族はアトリエ跡で遺品を守り暮らしてきましたが、還暦となった次男寿郎の代で終わります。 忘れられた画家熊谷登久平のこと、寿郎家族の日常をネットの海に生きた証として残しておきます。




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台東区中央図書館の郷土・資料調査室にて

台東区の郷土・資料調査室にて戦前の浅草の資料を読むが貸出禁止蔵書をコロナ禍による2時間という利用制限で斜め読みし、必要な箇所を見つける作業。

目がとても疲れた。

古い書籍の文字は小さく、モノによっては活字のかすれもある。

若い年はワクワクでストレスを感じず付箋を挟んでいたが、老いてもワクワクはする、ワクワクするが目が追いつかない。

利用時間を超過し2時間追加できたが集中が続かなかった。

翌日である今日まで目の疲労が続いて肩こり腰痛。

かなしや。

 

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熊谷登久平宛 中沢弘光書簡

戦前、熊谷登久平が白日会の中沢弘光と近しくしていたのは(極一部に)知られているが、戦後第20回独立美術展があった昭和27年にも交流はあった。

手紙であるけれど。

 

今私は中沢弘光の関東大震災を描いた連作が気になって仕方がない。

江戸東京博物館デジタルアーカイブで2点見られる。

問い合わせたところ6点収蔵されており、残りもアーカイブで公開予定だそうだ。

ヤフオクなどにたまに出る。

背景から知りたい。

 

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「熊谷登久平宛 中沢弘光書簡 翻刻

 

 

拝啓 日増にお寒くなりました

その後ハ御無沙汰してをります

先日ハ独立御案内いたゞき

拝見致しました 虎の画ハ

なかなか面白いもので近頃

画風が穏健ニなられたやうで

すがいつも注目される御作

で敬服致してをります 白

日もだんだん后進の上手な

人もふえてきて冨田君も

よろこんでをられます 日展

まります 御寸暇の折御一

覧下さいませ 老生のハ不相

変平凡な古い描写です

それでもまだ頑健ニやつて

をります いづれ又何かの機

会ニお目ニかゝりたいと思

つてをります 乍延引御礼

まで

   十月廿五日

         中澤弘光 拝

 熊谷登久平 様

     御案下」

 

 

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