熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

#勝海舟の女 #熊谷伊助

f:id:TokuheiKumagai:20190618215332j:image

千葉県市川市行徳の自性院にある勝海舟の石碑。

自性院が建てた説明文には勝海舟が愛した女の死を知り書いた歌だとある。

 

夫の父、熊谷登久平が昭和16年に出した書籍の中の随筆では熊谷伊助の碑で、熊谷家が建立したと書いている。

f:id:TokuheiKumagai:20190619114409j:image

熊谷伊助は東北の岩手県千厩の熊谷家の生まれ。

熊谷家は平家物語の一ノ谷の合戦で笛の名手で平清盛の甥、敦盛の首を泣く泣くかき切った熊谷次郎直実の血を引くと伝わっており、屋号は日野屋。夫の話では伊達藩にも出入りしており、その縁で戦後、熊谷登久平の谷中のアトリエに仙台の伊達家の奥方が訪ねてこられ、資金を融通したことがある。

輿を持ってくると仰られたが、義父は輿は伊達家にあるべきものですからと断り、そのまま融資をして今も我が家に伊達家の焦げ付き証文がある。

うちの壁塗り替えたいけど金がない。でも時効。

 

その裕福な熊谷家の幕末期の当主の長男が、熊谷伊助。

義父の随筆には、

喜多流をよく謡ひ、舞ふた喜造に、伊助、伊兵衞の二子があつた。

 伊助は江戸に出て、札差より幕府の政商となり、元治、慶應、明治に渡つて、高島嘉右衛門大倉喜八郎とともに、はたらき横濱開港や海外貿易につくした。わが家にのこる三人のちよん髷姿の寫眞も珍しい。

 またフランス政府より黒船を買ひとりペルリと交流した。彼、提督の寫眞も(わが家に)のこつている。

 ことに勝海舟を助けて外國との交易に尽くしたので、その文研など少なくない。

 伊助毒されて、たほれるや海舟は、その遺骸を抱いて泣きくれしとのことである。いま

  よきひとの消えしときかばわれもしも心痛むるひとりなりけり

  と嘆きし勝海舟の書き建てし爺の碑が千葉県行徳町自性院境内にある。

 

  その弟伊兵衛は實に私の曾祖父であるが……以下略」

初出不明、昭和十六年七月二十日発行

熊谷登久平畫集 ー絵と文ー

より引用。

著作権保持者、次男熊谷寿郎

 

熊谷登久平は伊助の弟の曾孫にあたる。

熊谷家の長男として生まれ、後継として育てられたが画家への夢が捨てられず、上京して中央大学に通いつつ小石川にあった川端画学校にて油絵を学んだ。

そして谷中に住まい谷中に骨を埋めた。

夫の記憶では亡くなる前まで千葉県に親戚の墓参りに出かけることがあったそうだが、多分墓参りは夫の記憶違いで伊助を思う勝海舟の歌碑の事であろう。義父の随筆によれば伊助の石碑は熊谷家が建てている。

以下、川端画学校のwiki

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E7%94%BB%E5%AD%A6%E6%A0%A1

川端画学校は昭和20年の空襲で焼失し、廃校となった。

f:id:TokuheiKumagai:20190619131154p:image

 

伊助に話を戻します。

以下、横浜市が昭和60年に発行した冊子、6枚目。

http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/images/kaikouno-hiroba_21.pdf

 

この横浜市の記録にも熊谷伊助の石碑の話が出てくる。

 

(横浜市にも熊谷家の分家があるのね。

義父は兄弟が多かったからなぁ。夫は従兄弟を把握しておらず、よって私に至っては全然わかりません。

伊助の生家である千厩の本家は把握しているのかな。今度ご挨拶に伺うので緊張をしています。私は分家の次男の嫁だし、子を生んでないし。)


f:id:TokuheiKumagai:20190618215336j:image

長谷川利行と義父の熊谷登久平がいる写真。

 

石碑のに書かれているのは誰か?気になるので昨日碑がある自性院さんに電話で問い合わせた。

墓地の販売サイトでも勝海舟が女性を思った歌と書かれているし、ならば熊谷伊助の碑が他にあるかも知れない。

電話で話してくださったのは女性で、聞くと四十年程前に寺に現住職夫妻は入られたそうだ。

その前に少しの間義兄様がお住職。

その前の記録はなく、過去帳は残っており、「碑に歌われた女性は行徳の旧家田中家の使用人の家のチカさん」だと、訪ねてきた中津攸子先生が仰られたから、そうなったとのこと。

熊谷伊助の碑のことはご存知なかった。

 

勝海舟が愛した女性を思った歌説を世に広められた中津攸子女史は市川市在住。

ペンクラブ会員で書籍も多く出しておられる方だ。

http://www.city.ichikawa.lg.jp/library/db/1043.html

東京藝大を卒業されたクリエーターだ。

台東区浅草生まれだけど、市川市の歴史関係にお強い。

会津の星亮一先生のような存在でお弟子さんも沢山おられる。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E4%BA%AE%E4%B8%80

(星亮一先生は義父熊谷登久平の中学の後輩になります。)

(中津女史、熊谷登久平のことはご存知ないだろうな。)

 

対して専業主婦の私の話ではお寺さんへの説得力が薄くなる。

 

一応、市川市にも問い合わせメールをした。

文学ミュージアムにある書籍には熊谷伊助の碑と書いてあるそうだ。

市川市の博物館の学芸員さんも以前の企画展で伊助の碑と書いたとのこと。

 

でも縦割り行政の悲しさで説明文に関わった部署はどちらとも異なる。

 

自性院さんにはある程度資料が集まったら私がお伺いをすることになった。

納得できる資料が揃っていたら、地域の代々の有力者でチエの一家が奉公していた家の当主さんが、説明文の書き換えを市の担当部署に掛け合ってくださるとのこと。

 

私は、資料が揃ったら、できれば中津攸子先生にもお話をお伺いできたらなと思っている。

既に商業出版で勝海舟の石碑は行徳から勝家に奉公した女性の死を悲しむ歌を刻んだものと発表されているし、それが寺の檀家さんやネット上では主流となっている。

それほどの大物作家さんならば、初出資料、一次資料をご存知のはずだ。

私の推測ではチエは伊助の妻だと思うが、勝海舟と三角関係であったのだろうか?

 

 

以下ぐだぐだ。

 

多分義父がたまに行っていた頃のご住職は伊助の碑とご存知だったと思う。

移動はメルセデスベンツで運転手付き、印象には残ってたんじゃないのかな。

義父が「伊助の遺体を勝海舟が抱いて泣いた」と語ったとして、「遺体を勝海舟が抱いて泣いた人の碑」とかに伝言ゲーム化したのかも知れないし、伊助が妻チカに出会った場所が交流があった勝海舟宅だったかも知れない。

チカが勝海舟宅に奉公に出ていたということも中津攸子先生は語られたそうだし。

 

勝海舟が愛した女を思った歌碑と、ネット上では広がっている。

勝海舟のファンが碑を見に行き寺の説明文を読んだらそう思うだろう。

そして、碑が熊谷伊助のものという証拠はない。

 

義父は熊谷家が建立したと書き残しているが、「勝海舟がチカを思って建立した」とか「チカの実家が歌を送られて感動して建立した」の方がロマンチックだし、千葉県らしい江戸奉公の悲劇だ。

 

 

 

中津攸子さんの新樹の会

https://genki365.net/gnki02/mypage/mypage_group_info.php?gid=G0000009

 

伊助が生まれ育った岩手県で講演会も開いておられる。

http://kitakami-hurusato.jp/wp-content/uploads/2018/06/%E4%B8%AD%E6%B4%A5%E6%94%B8%E5%AD%90%E8%AC%9B%E6%BC%94%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%95.pdf

 

「東北には大和を凌ぐほどの豊かな文化があった」

「東北は国のまほろば」についてのインタビュー記事

http://www.epic-co.net/06/interview/int_2013_8.html

#プロメア

娘とプロメアというオリジナルストーリーのアニメーション映画を観てきた。

なんと娘は4回目の鑑賞。

池袋、上野、錦糸町、そして今回は足立区の西新井。

まだ観ておられない方がいると思うので、内容のヒントだけ。

スーパーロボットデビルマンサンダーバードウィングマンGガンダム、バディ、宇宙戦艦ヤマト、ワープ、みてください、Vガンダム、暑苦しい、ツンデレ、青春熱血バカ、変身、格闘、地球が悲鳴をあげてる、エヴァンゲリオン、翼、ドリル、などのワードで引っかかる人にはおススメです。

 

スタイリッシュでテラフォーミングな必殺技は感動ですよ。

 

あと大河ドラマ真田丸が好きな人にもおススメです。

メガネで白衣の女性研究者や美人秘書好きも楽しいかと。

 

面白かったです。

あと、足立区にもショッピングモールがあるんですよ。

以前は紡績会社があった場所で、今は再開発されています。

紡績工場は関東大震災と空襲にやられたりしましたが雇用を足立区にもたらした会社の一つで、社宅や独身寮があり金の卵の受け入れ先でもありました。

金の卵たちの中には足立高校や江北高校の夜間高校に通った人もいたとか。

 

f:id:TokuheiKumagai:20190617231845j:image

晩御飯はここで。
f:id:TokuheiKumagai:20190617231818j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190617231814j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190617231838j:image
自分で焼くワッフル。
f:id:TokuheiKumagai:20190617231834j:image


f:id:TokuheiKumagai:20190617231828j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190617231848j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190617231821j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190617231857j:image

やなか珈琲があった。
f:id:TokuheiKumagai:20190617231854j:image

#熊谷伊助と勝海舟 のこと

f:id:TokuheiKumagai:20190616220904j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190616220900j:image

夫の記憶で、義父熊谷登久平は熊谷伊助の墓参りに千葉県に行っていたそうだ。

この墓参りは多分夫の記憶違い。

義父が書いた随筆には、勝海舟が伊助を偲んだ歌を刻んだ石碑を先先代が千葉県行徳町自性院境内に建てたと書いてある。

この書籍は昭和16年に発行されている。

 

私は今夏に一関市に吸収された千厩の図書館と博物館に熊谷家の資料を読みに行くつもりだ。

 

不愉快に思われる方もいるとは思うが、私は熟年になってから熊谷登久平の次男に求婚された。

彼には見合いたまにきてるし、私は子が生める女性との結婚を勧めた。

だが、私が良いと彼が言ってくれたので結婚し、熊谷姓となったが東京の美術界では忘れられている画家熊谷登久平の血は残せない。

熊谷の名は私の娘が継いでいるが、人は死んでも名を残すという言葉が好きな私は熊谷登久平の名を残したいし、長谷川利行の伝記などで記述が異なる義父の経歴も今のうちに調べられるなら調べたい。

 

私を選んでくれた夫の生誕の記録にも繋がるし、登久平を支えた女性二人の不思議な関係も女性史の一つとして残したい。

ので色々と調べては壁に当たっている。

 

まあ、同人誌を作って国会図書館に納めれば何百年ののちとかに運が良ければ酔狂な人が熊谷登久平の作品を再発見してくれて、資料の一冊にしてくれて、モデル女性も調べてくれたらとかドリームは持っている。

 

昔、小学生低学年だった息子がハマったゲームに、クロノ・トリガーだったか、ドラゴンクエストだったか、村人を救うために怪物と戦った牧師だか神父の悲劇と偉業を永遠に残すために石碑が建てられるエピソードがあった。

ところが主人公たちが未来に行くと石碑の文書が書き換えられている。

村人の子孫たちが自分たちの先祖に都合が悪い部分を書き換えたのだ。ってな話のうろ覚えで、ピュアな息子はショックを受けていた。

 

それ、実はまああるよなと郷土博物館で歴史調査員をしていたスレた私は思っていたりしました。

 

で、横浜開港と横浜の発展に尽くし、勝海舟の長男の留学費用を出したり、ペリーとも付き合いがありながら、子どもがおらず亡くなった熊谷伊助さんの兄弟は石碑を千葉県行徳町に建立したわけですよ。

 

勝海舟が死を惜しみ泣いたと伝わる伊助さんですもの。

石碑で永劫に伝えたいと肉親は思うでしょう。

 

その石碑も見ておきたいものだと私はインターネットで検索をしたわけです。

 

石碑 行徳 勝海舟 でヒットしましたよ。

そしたら自性院境内の石碑の写真と説明文の立て札が出てきました。

勝海舟が惚れた女の死を悼み建てた碑」的な説明文ですよ。

拡大して何回も見直しましたが、そんな感じ。

f:id:TokuheiKumagai:20190616224544j:imagehttp://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/kuhikahi16.html

 

上の市のサイトには説明文は無いですが、寺のサイトには、

https://www.e-ohaka.com/sp/detail/id1263879502-783521.html

以下引用。

 

勝海舟自筆の碑文

●明るく、整備のゆき届いた墓域

【由来・いわれ】
真言宗豊山派、本尊は大日如来
天正十六年(1588年)、法仙法師により開基。
行徳の総鎮守であった神明(豊受)神社の別当寺であった。
【歳時・みどころ】
勝海舟自筆の碑

「よき友の消へしと聞くぞ、我この方心いたむるひとつなりたり」

勝海舟邸に奉公に上がり、海舟に愛された娘が亡くなり、その死を
悼んで自筆の歌をよんだものを碑に刻んでいる。

 

以上引用終わり。

 

と、書いてある。

伊助の碑じゃないのか?

 

熊谷登久平の経歴の東京航空計器の副社長だったも、東京航空計器株式会社の秘書課から否定されているが、今度は登久平が書いた伊助についての随筆の内容を否定する説明文を寺が出している。

 

おかしくないか?

一応古い勝海舟の記録にも伊助を偲んだ碑ってのもあるよ。

 

大田区勝海舟記念館を創立するのは今年の後半だが、そこが開いてから私は資料を漁らないといけないのか?

 

悩みます。

寺に行ってみますかねえ。

 

https://www.travel.smileandhappiness.net/jishoin-gyotoku.html

 

 

下は不動産屋さんのサイトで伊助を偲んだと紹介されている。

https://plaza.rakuten.co.jp/isichikawa/diary/201401300000/?scid=wi_blg_amp_diary_next

 

義父の弟さんのお子さんが伊助ゆかりの双眼鏡を横浜に寄付している。

http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/104/06.html

 

私と同じ疑問を持った方がいるようだ。

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000188524

 

以下、市川市立図書館のレファレンスより。

 

本行徳1丁目の自性院にある勝海舟の歌碑「よき友の消えしと聞くぞ我この方心いたむるひとりなりたり」について、案内板には「行徳から奉公に上がった娘を悼んだ歌」とあるが、熊谷伊助の追悼歌という説もある。どちらが正しいのか。
回答
(Answer)
自性院は行徳観音霊場第4番札所。
境内の案内板には「勝海舟邸に奉公に上がり、海舟に愛された娘が亡くなり、その死を悼んで自筆(?)の歌をよんだものを碑に刻んでいる。」とあり。
「行徳てらまち会」への照会によると、案内板は平成17年の市への「景観まちづくり」提言書を受け、順次、市川市都市計画課により設置されたもので、各寺社の案内板の内容は、その寺社に一任して作られたとのこと。
『観音札所のあるまち行徳・浦安』(中津攸子/文,石井久雄/写真 中山書房仏書林 1984)p.32-33に、「秋本久兵衛の娘が勝海舟の邸に奉公に上がり、海舟に愛されたらしい。(中略)お宿下りをし、亡くなった。(中略)その死を聞いて勝海舟が自筆の歌を送ってきたのを碑に刻んである。」とある。

ただし、以下の資料では、熊谷(松屋)伊助追悼歌説が採用されている。
勝海舟全集 別巻来簡と資料』(勝海舟/著,勝海舟全集刊行会/編 講談社 1994)p.832には、「松屋伊助追悼歌碑」として紹介。『幕末の市川:企画展図録』(市立市川歴史博物館 2003)p.44でも、「勝が、「よき友」熊谷伊助の死を悼んで建てたもの。「日記」の中には、「松屋伊助」と記されている。伊助は、陸奥国松沢(現岩手県千厩(せんまや)町)の出身で、屋号の「松屋」はこれに由来する。(中略)伊助は、奉公した江戸の酒屋の縁で行徳出身の妻と結婚したと言われている。」との掲載あり。
『市川の文学 詩歌編』(「市川の文学」調査研究会/編集 市川市文学プラザ 2011)p.135でも、「伊助の追悼歌」説を採用している。

以上より、史実としては、伊助を追悼した歌であるが、案内板は、地元での俗説を紹介したものとして捉えられるといえる。

#谷中、戦後の画家たちの会#カルチェ・ヴァル

f:id:TokuheiKumagai:20190615202329j:imagef:id:TokuheiKumagai:20190615202322j:imagef:id:TokuheiKumagai:20190615202348j:image

義父、#熊谷登久平 が #谷中 界隈の画家の会 #カルチェ・ヴァル会 に属していたはずなのに、美術史には全然出てなくて、義父の死後に書かれた年譜にも無い。

無いはずはないと、片っ端から本を漁って今日記述がある本に出会った。

 

#浅尾丁策 さんの、「昭和の若き芸術家たち 続 金四郎三代記 戦後編」だ。

http://futsuundo.com/

写真左前列二人目が義父の熊谷登久平で上機嫌な笑顔。カルチェ・ヴァル初の打ち合わせ会の写真。

 

 

カルチェ・ヴァルは敗戦後の谷中界隈に住んでいた画家たちの集まりが発展し、大河内信敬氏が皆で展覧会をやろうと言い出した。

世話人となった浅尾丁策さんの上野桜木の店「拂雲堂」の二階で初の打ち合わせをやり、谷中会では野暮ったいということで、谷中をフランス語に訳してカルチェ・ヴァル。

 

展覧会は小品展が昭和二十三年六月十一日から十九日までプール・ブーで開催され、八月十二日から十七日まで第一回本展が上野松坂屋で開催されたと浅尾丁策さんは書いている。

上野松坂屋での写真も本には載っているが、義父の作品が写っているのかは読み取れない。

 

義父の手記には戦前、長谷川利行たちとも会を持っていたと書かれているが、その会についての記述がある長谷川利行関連の書籍を読んでも義父の名はない。

忘れられた画家の悲しさよ。

まだ私は長谷川利行の書籍全てを読んだわけではないので、こつこつと義父の足取りを調べていこう。

 

 

 

 

足立区北千住の懐かしの居酒屋 #北千両 で、呑んで食べて2500円で釣り

f:id:TokuheiKumagai:20190614223334j:image

足立区北千住駅徒歩数分の居酒屋、北千両で食べてきました。

三十数年前までは居酒屋チェーン養老乃瀧

その店の店主が、うちの隣のご夫婦に惚れ込んで後を頼んだのが #北千両 の始まりでした。

 

まだ若いご夫婦で、男の子が三人いて、私の弟と年が近かったので仲良くなり、奥さんと私は醤油と味噌をやり取りしてました。

 

その夫婦がオリジナルの仕入れでメニューも工夫した店は流行りました。

なので信用もできて家を買えて、団地に住んでいた団塊世代の中でバブル前に郊外脱出をした家族でもあります。

まだ舎人は田園地帯で売りはほとんどなく、夫妻が買ったのは東京寄りの埼玉の駅徒歩圏でした。

 

その後、家を買い団地を脱出した人たちの住所はだんだんと東京から遠くなり、武蔵野線の外、野田線の外と新興住宅地は広がっていきました。

バブル最高の頃は野田線の駅からバスや、栃木や茨城に家を買って引っ越して行く人たちがいましたよ。

 

など、団塊世代が団地にたくさん住んでいて、団塊ジュニアの元気な声が溢れていたころ小学生だった男の子が今の店主です。

団地内の各棟に野球チームがあったのが懐かしい。

 

お綺麗な隣の奥さんに会えるかなと、思っていたら、ご主人が亡くなり、長男さんが後を継いだので今はご自宅で休んでおられるとか。

 

三人兄弟のうち結婚しているのは長男の店主さんだけと聞き、未婚が多いと言われる団塊ジュニアの今を感じました。

 

小学生だった長男店主、お父さんにそっくりに育っています。

トントントンと包丁の音も軽やかです。

お子さんは大学生だとのこと。

奥さんと二人で店を経営しています。

家族経営の居酒屋さんで、居心地がよく、常連さんで店は埋まりました。

若いグループから免許返上を語り合う初老の方まで年齢層が広いです。

f:id:TokuheiKumagai:20190614223337j:image

軟骨の唐揚げ、香ばしく美味しゅうございます。

480円だったか460円だったか。

酔いました。
f:id:TokuheiKumagai:20190614223309j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190614223315j:image

安いです。
f:id:TokuheiKumagai:20190614223318j:image

ナスの揚げたの、370円。

美味しくて二皿頼みました。


f:id:TokuheiKumagai:20190614223341j:image

この通りには昔は古本屋さんが一軒あり、空襲関係の本を市で見つけると仕入れる女性が店主で、地域史の本も揃っていましたよ。

あと当時は珍しい沖縄料理の店もありましたが、今はチェーン店が増えてます。
f:id:TokuheiKumagai:20190614223345j:image

店で仕込んでる焼き串。
f:id:TokuheiKumagai:20190614223327j:image

もずく酢うまし。
f:id:TokuheiKumagai:20190614223312j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190614223321j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190614223324j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190614223330j:image

空いてる時間に入り、店主さんと懐かしい雑談をしていましたが、この後すぐに満席になりました。

常連さんが頼む品に自家製ポテトサラダと自家製鳥ハムがありましが、お腹いっぱいで次の機会に。

結構食べて呑んだのですが、2500円でお釣りがきました。

ご馳走さまです。

うちのマイコンで遊んでいたプログラム少年が大学生の親で居酒屋の店主さん。

私も孫がいるし、時は流れましたが、先代の家庭的な店の雰囲気は変わりませんでした。

また宜しくです。

#台東区のハザードマップ をもらってきた。

白地図が欲しくて台東区役所の受付に相談したら、土木課の白地図ではなくてハザードマップをくれた。

昔は行政区で版権フリーの白地図を買えたんだけど、今はやってないのかな。

夏休みの宿題やPTAの広報の記事に使えて便利でした。

f:id:TokuheiKumagai:20190613221206j:image

上、荒川が氾濫した場合の水の到達する時間。

下の二枚は東海豪雨相当の雨が降り、神田川が氾濫した時に水がその場に溜まったり、下水などから水が溢れ出す内部氾濫をした場合の浸水地域。

今は地下貯水槽があちこちに出来て、昭和まで床下床上浸水していた場所でも白くなっている所がありますが、低地の住宅密集地では床上浸水地域が多いですね。

怖いのは高台の崖地の崩壊危険場所。

赤い斜線の地区かな。
f:id:TokuheiKumagai:20190613221138j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190613221208j:image

下の二枚は荒川が氾濫した場合の浸水地域。

上野公園が避難場所になります。

 

去年末の警察のふれあい相談員の会合で、夫たちふれあい相談員が下谷署の警備課の方から受けた説明では、台東区の低地の他、城東地区の浸水地域の避難場所が上野公園と谷中墓地になっているそうで、水が引くまで期間がかかると説明を受けたとか。

警備課の方達が避難民誘導のメインとなるそうです。

もちろん区役所の人や消防署、台東区だと比較的活発な消防団や町内会役員、氏子会も誘導や救助にあたるのでしょうけど、初動が大事だと過去の自然災害を振り返ると思います。
f:id:TokuheiKumagai:20190613221236j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190613221246j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190613221242j:image

区役所へは遠回り承知で上野公園の紫陽花が多い地域をチャリで走りました。
f:id:TokuheiKumagai:20190613221152j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190613221144j:image

台東区役所の食堂。
f:id:TokuheiKumagai:20190613221222j:image

お得な合羽橋ラーメンとミニカレーのセット。


f:id:TokuheiKumagai:20190613221249j:image

台東区役所の中の公衆電話。

公衆電話減りましたね。

ハザードマップに公衆電話の場所も書き込んで欲しい。
f:id:TokuheiKumagai:20190613221252j:image

台東区役所に展示されている嘉納治五郎先生の像。

#いだてん 

もう少し積極的に台東区もアピールして良いのに。

来週関東大震災で、浅草六区は崩壊しますけどね。

焼けますけどね。
f:id:TokuheiKumagai:20190613221125j:image

f:id:TokuheiKumagai:20190613221156j:image

区役所の隣のお寺さんが屋根の改修をしてました。

大掛かりです。
f:id:TokuheiKumagai:20190613221203j:image

下谷神社。
f:id:TokuheiKumagai:20190613221128j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190613221131j:image

毎年人気の天然石ブレスレット作り体験会。

近年天然石ブレスレットは値が高くなっているので、水晶を使ったこの体験会がお手頃価格に感じてしまいます。
f:id:TokuheiKumagai:20190613221219j:image

舞殿と紫陽花。
f:id:TokuheiKumagai:20190613221214j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190613221230j:image

寄席発祥の地です。
f:id:TokuheiKumagai:20190613221134j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190613221227j:image
f:id:TokuheiKumagai:20190613221159j:image

ここの天井に横山大観が描いた龍がいます。
f:id:TokuheiKumagai:20190613221212j:image

その龍の刺繍が表紙の下谷神社オリジナル御朱印帳。


f:id:TokuheiKumagai:20190613221233j:image

下谷神社の周りの看板建築。
f:id:TokuheiKumagai:20190613221239j:image