熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

メモ 木内克のミューズ松平須美子さん 

池之端画廊さんで10月4日から数点の作品を展示する予定の上野桜木にお住まいだった木内克さん。

彼が執筆された『わたしのどろ箱―随筆集 (1971年)』は我が家には1,000部発行の(廉価)版(1971年で6000円)があり、ざっと斜め読みはした。

上野桜木に焼夷弾が落ちた時にバケツリレーで消した記述が印象に残っているが、その後この本も我が家の名物書籍流で埋もれている。

今どこにあるのだろう。

1畳半ほどの乱雑な書籍の雪崩跡に埋もれてるのは確かだが、困った。

↓写真は70部発行の限定版『わたしのどろ箱―随筆集 (1971年)』には木箱に入ったテラコッタ付き。日本の古本屋さんで売ってます。

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https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=382659331

 

某日、上野桜木の町会長さんから木内克のミューズの名前は松平須美子さんと教えていただいた。

上野桜木の松平家となると、松平郷松平家二十代目の殿様作曲家の松平信博さんの娘さんですかと聞くと「そうだよ」と、

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『わたしのどろ箱』に隣の10代の娘さんと焼夷弾の火をバケツリレーで消したとか書いてあったうろ覚えだが、その娘さんが木内さんのミューズだったのね。

読み込んでなくて申し訳ない。空襲記載に気を取られていました。

 

ネットで検索すると

 

 

『殿上人日記
松平! 将軍ではなく、情熱のミューズにひかれる  2010年05月17日』

https://plaza.rakuten.co.jp/siroihana/diary/201005170000/?scid=wi_blg_amp_diary_next

がヒットした。

以下、該当箇所を引用

 

『明治中旬に生まれた松平郷松平家二十代目の松平信博は、東京音楽学校の器楽部を卒業し、外国航路の楽士として世界各国の楽譜を収集し、詩人の西條八十と組んでの流行歌や、映画音楽、管弦楽曲などを残している。』

 

『そんな流行歌で有名になった信博を苦々しく思っていたのが、四人兄弟の長女として生まれ、思春期を迎えた娘の松平須美子で、とかく横道にそれてしまいアコーディオンなど買い込む父親に、もっと本格的な芸術をやれと喧嘩をふきかけて父娘二人が、大声で言い争いをする始末だった。』

 

下谷区上野桜木町松平家からは、彫刻家の木内克のアトリエが見え、黙々と彫刻をつくり続ける姿に須美子は自分の父親にはない、芸術の道に真摯に打ち込む芸術家の姿に次第に憧れていった。』

『昭和23年。須磨子が22歳の時、木内が裸婦モデルを必要としている事を知って「私は芸術は好きだが、自分で創作する事はできない。だから役立つものなら、そういう仕事をしたい」と志願をして以来、30年にもわたって木内の専属モデルとしてアトリエに通い詰め、木内に献身したそうである。』
『当時、木内は56歳で、あんな賑やかな落着かない娘にできるわけがないと思ったそうである。』

『1952年3月末の木内のアトリエ開きでは、純粋で感受性の強い須美子は「牧神の午後」のイメージで、木内と新アトリエの為に一糸まとわぬ裸で乱舞し、一同は静まりかえって、須美子の姿に吸い込まれたそうである。』

『1977年3月4日、急性肺炎のために85歳で木内が亡くなり須美子は人目もかまわず、激しく泣き伏したそうである。歴史というものは面白い。国を動かすような政治家や、経済人、文化人だけではなく、沢山の無名の人たちこそが、この国を作り上げて歴史を作ってきたのではないかと思う。』

 

また、彫刻家・木内克のまなざし展@水戸市立博物館-を紹介しているブログにも松平須美子さんのことが出ている。https://blog.goo.ne.jp/yochan310west/e/ec01b9adcdf39f0f3d12d6f8c285b7a6

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去年、水戸市で展覧会があったのね。気がつかなくて残念。

 

http://shihaku1.hs.plala.or.jp/exhibition/3744

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彼岸の墓参りがコロナ前ほどではないが復活し花も沢山。

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メモ 戦争と画家 坪内正

池之端画廊の若奥さんと打ち合わせ後、挨拶に周る。

挨拶に行った先で物凄いものを見せていただき、2人で挙動不審になった。

10月4日からの展示会に貸してくださるとのこと。

わおっ。

 

http://tubonotubo.world.coocan.jp/syazitu1.html

『写実から空想への軌跡 坪内  正 ―  人と作品 瀧 悌三』

から抜粋

 

『就職、兵役、シベリア抑留

年譜によると、美校研究科を修了(3月)して半年後の昭和12年(1937)9月、東亜宣伝工作研究所に入所し(15年3月退所)、同14年3月、内閣情報文化部文芸課勤務である。共に国策の線に乗っての情報宣伝の仕事に従事して就職したことを意味しよう。日中事変下で太平洋戦争が始まる以前である。

就職したのは、独立して生計を立てるのに、絵画専業では不可能であったからに相違なく、やむを得ない緊急避難的選択であったろうし、その仕事も芸は身を助けるで、応用美術のデザイン、ポスターの分野のものだったろう。だが、画家として立つには、まともな就職は非常に危険でマイナスに作用する。本格の絵画制作からいつしか遠ざかるせいである。そして実際にそれ以後、太平洋戦争に突入で、働く部署はいわゆる「情報局」の内閣情報局に組織替えとなって、昭和19年4月の召集で職場を離れるまで総計6年半、内閣情報部もしくは情報局で文化部美術係を担当、これが画家としての本格的スタートを遅らせる。

いや、そればかりでない。召集で華北で兵役に服すが、終戦後、ソ連軍に武装解除されて、シベリアに送られ,4年半もの長い間抑留生活を送る。これでまた画家生活はさらに先へと遅延させられた。

就職と兵役とシベリア抑留との期間を合計すると、美術研究科を出て以後実に13年間、本格の制作に没入する生活から離れていた。これが、坪内正の生涯の画家としての歩みを通常画家のペースよりも決定的に遅らせ、また坪内自身、遅れているという焦燥感からなかなか抜け出られなくて、長い間、苦しみ悩むことになった、と思われる。

またその一方、内閣情報部もしくは情報局の美術の仕事をしたことは、デザイン及び広告宣伝への関心や技能を深めさせ、晩年の70歳台までその方との関わりが続くこととなっている。

なお、坪内正のシベリア抑留生活が、通常よりも長期であるのは、情報局の仕事に就いていたことをソ連側に密告され、そのため戦争協力の度合いが重く深いとされて、帰還が延ばされたため、とのことである。』

 

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メモ 上野の森


美術家のほとんど総ては上野の森を背景にして住んでいるのだから奇妙である。

「読売新聞」(大正5年9月21日)

 

浅草の二天門の病院に行って墨田区の塩パン屋さんに行くといつもより並んでいる。

平日なのに何故かなと聞くとPayPay30%還元中ってことで、スマホを忘れた私は慌てて谷中に帰り、用事を済ませてからまた隅田川を渡りパン屋さんへ。

夫の好きなの無事に買えた。

 

夜は池之端画廊で打ち合わせ色々。

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池之端画廊用メモ2

酸素95

機械脈81

実測62 脈跳びなし

血圧130-62

 

上野桜木にあった『ル・カポー』についての記述

 

この頃のことを利行の死後、矢野文夫編纂発行の『夜の歌(長谷川利行と藝術)』(邦画荘、一九四一年十一月十五日)の中で登久平は「墓と塔のある上野の山のおく、ここは若い長谷川にも私にも巴里の連中のように、モン・マルトルであった。この私たちのグループのために、『ル・カポー』といふ酒場が東京のモン・マルトルにつくられた。この酒場が、私たちに飲み倒されるまでの一年間ほど、私たちにとって幸福なことはかつてなかったであらう」

 

 

https://www.culture.city.taito.lg.jp/bunkatanbou/city/ueno_sakuragi/japanese/guide_01.html

 

橋本八百二と鈴木千久馬 の関係

(上野桜木の佛雲堂1927年創業)開店第一号のお客様は、橋本八百二さんだった。美校二年生だった橋本さんは、本郷駒込神明神社裏手にあった当時外遊中の鈴木千久馬先生のアトリエを借りて住んでいた。
犬好きの彼は、学校から帰ると、犬の散歩に毎日かかさず出歩いた。 犬があまり好きでない私にはよく解らないが、土佐犬 秋田犬か、ともかくすごく巨きな獰猛なやつを太い綱で肩からつないで走るようにしていた。玄関入口の大きなカシの中につないで一服しながら画材を求められた。

『浅尾丁策 金四郎三代記―谷中人物叢話 1986年 芸術新聞社 より抜粋』

 


堀進二

谷中三崎町の立派なアトリエに住んでいた堀進二先生は、骨董好きで随分良い物を沢山持っていた。
夕方になると散歩を兼ねて、谷中から団子坂辺りの道具屋を歩かれていて、時々顔を合わせる。しかし 、なかなかの目利きて、生半可な物は御買いにならない。
会う度毎に遊びに来いと言われ て、或る時行って見て驚いた。大変なコレクションで、解らない物は懇切丁寧に教えて下さった。それからは時々伺っては、難しい物を持って行き教えてもらった。

『浅尾丁策 金四郎三代記―谷中人物叢話 1986年 芸術新聞社 より抜粋』

 


堀進二

没年月日:1978/03/27
分野:彫刻, 彫刻家 (彫)
彫刻家、太平洋美術会会長堀進二は、3月27日心筋こうそくのため東京文京区日本医大付属病院で死去した。享年87。

明治23年5月5日東京赤坂区に生まれ、同39年谷中の太平洋画会研究所に入り新海竹太郎に師事して塑造を学ぶとともに同44年まで同所でデッサンも学ぶ。同44年隊へ洋画会展に出品、同会正会員となる。大正4年、第9会文展に「若き女の胸像」を出品し褒状を受け、翌5年から7年まで「H老人の肖像」(第10回)「肖像」(第11回)「老人」(第12回)で連続特選を受賞した。同8年第1回帝展に「寺尾亨氏の肖像」他1点を出品、またこの年から審査員をつとめた。また、昭和3年東京帝国大学工学部建築科の講師を依嘱され(同21年まで)、同6年には東京工業大学建築学科講師を依嘱さる。戦後は日展に出品し審査員をしばしばつとめ、一方太平洋画会に所属して戦災より焼失した太平洋美術学校の復興に尽力し、同32年開校と同時に同校々長となって後進の指導にあたった。同33年新日展発足とともに日展評議員となり、同35年第3回展に出品した「人海」で日本芸術院賞を受賞、また、同25年から千葉工業大学教授(意匠学科)をつとめた。作品は他に東大の「浜尾総長像」「足を洗う女」などがある。

出 典:『日本美術年鑑』昭和54年版(286頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「堀進二」『日本美術年鑑』昭和54年版(286頁)
例)「堀進二 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9566.html(閲覧日 2023-09-21)

 

プールヴーモデル紹介所沿革

1927年、プールヴーモデル紹介所の創始者の浅尾丁策が、画材店の浅尾拂雲堂を創業する[4]
1947年、浅尾丁策が、浅尾拂雲堂にてモデルの斡旋を行う[1]
1948年、浅尾丁策が、浅尾拂雲堂の2階に、「プールヴー美術研究所」を開く
1949年、浅尾丁策が、「プールヴーモデル紹介所」を設立する[1]
1990年頃、モデル登録者が、北村美術モデル紹介所と共に200人ぐらいとなる[1]
2000年、創業者の浅尾丁策が死去する[1]

 

「プールヴー」とは、フランス語で、Pour vous であり、日本語に訳すと「貴方がたのために」となる。(英語でfor youの意。)「貴方がた」=画家、彫刻家のためでもあり、モデルのためでもある。彫刻家の木内克の命名である[1] 。 (※ 「pour vous」は 仏語の文法上、二人称単数形である「貴方のために」ではあるが、木内克は「For you」の持つ二人称複数形・敬称「貴方がたのために」という意味で命名した。

 

Wikiより。

 

鶴岡政男
かつても上野桜木町界隅には画かき仲間がまだ大ぜい住んでいて、芸大の近くにある画材展浅尾拂雲堂は私たちのたまり場になっておりました。
店の前にあった倉庫の二階は主人丁策さんの細工場であったり、プールヴーというモデルクラブだったり、クロッキー研究所だったりして私もよく出入りしました。そして時々近くに住む仲間の親ぼく会には店の二階の一室がつかわれ、よく集まった連中は野間仁根、島村三七雄、熊谷登久平、田代光、桑原実、大河内信敬、木内岬、紅一点の朝倉摂さんなどで、二昔半も前のことなどなつかしく思いだされます。

【以下は略しても良いかと/熊谷明子】
ずいぶん前のことですが倉庫の二階で仕事のあい間にこつこつと描いた小さい絵を何点か見せてもらいました。何かとても楽しい感じの絵であったと記憶しています。 此度、その絵の個展を開くそうで、さぞやたのしいことになるのではないかと期待しております。

『浅尾丁策 昭和の若き芸術家たち―続金四郎三代記〈戦後篇〉 1996年 芸術新聞社』収録

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熊谷明子さんをはじめ、丸井隆人さん、松山庭園美術館、太平洋美術会の協力を得て、
㊗️芸工祭前半企画
2023.10.4から10.15
上野の森を巡る画家たち展
開催いたします。

聞けば、芸工祭とは100年以上も続く谷根千地域をあげての歴史ある祭りだそうです。

今回は清水町(池之端四丁目)ゆかりの画家大河内信敬、望月春江、丸井金猊らをクローズアップに、上野不忍池の石碑のある長谷川利行、熊谷登久平から絹谷幸二のエピソード話、真島町にありました太平洋美術会会長の堀進一、朝倉彫塑館の朝倉文夫、木内 克らの彫刻家の活躍を紹介していきたいと思います。

皆様のご協力のもと
お陰様で素晴らしいラインアップとなりました👍池之端スタッフさんともに、今後ともよろしくお願いします。

   池之端画廊 鈴木弘子

⚫︎展示者の名前
朝倉文夫 1883〜1964
堀 進二 1890〜1978
富田温一郎1887〜1954
長谷川利行1891〜1940
木内 克 1892〜1977
望月春江 1893〜1979
熊谷登久平1901〜1968
大河内信敬1903〜1967

島村三七雄1904〜1978
丸井金猊 1909〜1979

寺田 政明   1912〜1989
張替正次 1914〜2003
鈴木美江 1932〜
絹谷幸二 1943〜
岡本明久 1951〜

松本昌和 1972〜

明日からは本気を出す

アパートの部屋のエアコンが壊れた。

まだ暑いので慌てて手配するも工事の日が連絡待ち。酷残暑なのに店子さん大丈夫だろうか。

 

旅行に行っている間にアンネのバラにハダニが一気に広がっていて何があったの状態。老眼が憎い。

早乙女先生の奥様が亡くなられてからは奥様の妹さんが手入れをされていたけど、妹さんの体調も悪くて何を使って手入れしていたのかがわからない。

仕方ないからネットで薔薇用の薬を注文する。

大丈夫だろうか。

 

 

なんか、大丈夫だろうかな予定が詰まっている気がする。

 

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十国峠にて熊谷登久平を偲ぶ

義父が1ヶ月滞在したという十国峠。以前から確認したいと思っていたが一緒に行くはずだった夫は心臓に面倒なものが見つかり、もう遠出はできない。(プロポーズの時に老後は日本中の鉄道乗り倒そう。新婚旅行は寝台列車で出雲って言ってたのに)

私は調べ物や観光で熱海までいっても十国峠まではバスが少ないのでなかなか行けず、今回15歳の時からの友人に付き合ってもらって初めて登った。

 

 

十国峠とはWikiによると、函南町熱海市の境にあり、十国五島(伊豆・相模・駿河遠江・甲斐・安房・上総・下総・武蔵・信濃、大島・新島・神津島・三宅島・利島)を展望できるといわれる標高766 mの日金山の山頂、展望の良い場所で東京も見える。

 

私の目では確認できなかったが今日はスカイツリーも見えていたそうだ。高層ビル群は目視出来た。

残念ながら十国峠から眺める富士山方面は雲があり、雲が動くのを待ったが風が強く肌寒く、熱海へ向かうバスの都合もあり富士山は諦めて下山し、熱海駅で夫に頼まれていた駅弁を購入して帰宅。

 

 

 

昭和9年の冬、ここでよい富士山を見たくて登久平たちは頑張り、1月ほど滞在した書き残している。ここから里見勝蔵宛に出したハガキには服の重ね着がなくても工夫次第と書いてるけど、絶対に寒かったと思う。

 

 

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去年の展示用に書いたキャプション。

昭和9年11月29日熱海-箱根自動車道路」の記念スタンプが残る里見勝蔵宛て富士山の絵葉書に登久平は『十国峠にやって来ました。重ねはいりません峠の上の工夫●●です。朝な夕な姿を変へる富士は伊達者です。熱海と箱根の中頃です。都を離れての山の日も中々味があります。奥様●●様によろしく。御健康を祈ります。』と書いた。日本初の有料道路、熱海-箱根自動車道路は昭和7年に開通。
その景勝地からの熱海を登久平は描く。」
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『富岳
富士山は葛飾北斉に描かれ、近くは林武によって有名だ。

戦前のことだが、熱海、十国峠の東豆鉄道の専用道路の番小屋に、寝泊りして、十二月一日から三十日まで、まる一ヶ月富士に挑んだ。朝四時半、朝日をうける富士、寸時もたたないうちに何度も色をかへる。そのたびに画布をかへる。もう八時すぎたら夕方まで富士は光輝を発揮しない。

野風呂に入つてゐると、星空の下にくつきりと富士の姿がたつてゐる。

何枚も描いたが、女のような富士山だった。三十日目、私は真赤に富士を塗つてゐた。

この富士を仙台の三越の個展にならべたら、旧第二高等学校の国漢の教授の粟津先生が、おいでになられ、「熊谷さんあんた富士の剛さを描きましたね」と大変ほめられたことがあった。

三十日目、真赤に富士を塗ったとき、私の心をすぎた満足感、これは粟津先生が話されたこと同じだと思ふのだった。(社会保険19(1)(210)出版年月日1968-01

全国社会保険協会連合会、)より引用』

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