熊谷登久平が戦前に白日会の人として山形県に通っていたのは確かなので。
また登久平の弟子が白日会に入選している。
この頃は初音町で日曜研究会という画塾もやっていて、千葉県出身のお弟子さんも入選している。
戦前に登久平が指導に回っていたのは富山県と熊本県と山形県県に岩手県と千葉県が当時の記事で確認できる。
後日整理
追記、山形県の山形グランドホテルは登久平の親友だった山形新聞社の服部社長が設立した。
オープニングに登久平も宿泊する予定だったと夫は話すが少し年代が合わない。
登久平亡き後も山形新聞などの会長となっていた服部敬雄氏は熊谷家を訪ねてくれていたそうだ。
登久平に正妻となる夫の母の笹島房江を紹介したのは服部社長だ。
笹島房江は大正12年の夏に浅草で生まれて関東大震災の時に産褥の母親に背負われて避難した。
幸い家族は無事だったが家財は焼失し、深川区にできた被災者向けバラックに住む。家は貧しく次女だった房江は裕福な家庭に実子扱いの養子として売られた。
ところが養父母に子が授かりお金を付けて笹島家に返された。
またしばらくして養子に売られて、そこではお世話係もつくような生活をしていたのに養父母に子が授かり、お金を付けて返された。
そして縁起が良い子としてまた他家に求められて売られてを2回。
戸籍で確認すると4回売られて笹島家は浅草では植木屋だったが、房江を売ったり返品された金で墓石屋で修行をして、墓石屋を営めるようになった。
笹島家は子が7人、房江は次女で2番目の子。その中で売られたのは房江だけだそうだ。
養子先で習い事を良くした房江は三味線と踊りと唄ができる娘となり、最後の養子縁組解消後は笹島家から浅草の女義太夫の劇団に属していたそうだが、北京の劇団に移る。天安門の広場で義母たちはラジオ体操をしていたそうだ。
慰問団としてあちこち移動したそうだが資料なし。
長谷川一夫や日本のスターたちとも同じ舞台に立ったと言っていたそうだが資料なし。資料がないのは終戦数年後に帰国するまでに多くを失ったうえに実家に送ったものは東京大空襲で失われたからだそうだが、母親が山梨県の実家に送った舞台の写真が数枚残っている。
戦時中はほぼ北京で、たまたま深川区の実家に帰り北京に向かうために上野駅から列車に乗ったのが昭和20年3月9日。
北京について東京大空襲を知る。
帰国の順番が来るまて深川の実家に何度も手紙を送るが返事はなく、弟は少飛と予科練からそれぞれ陸海の航空隊に入隊していたので家族は全滅したかもと思いつつ帰国。
家族見つからず。
空襲で焼けずに景気が良かった山形へ三味線と踊りの腕で芸者として迎えられて、服部社長のお気に入りとなり登久平に引き合わされ惚れられる。
取り合いになったそうだが、登久平は「服部さんは奥さんがいるから愛人にしかなれない。私は独身だから正妻にできる」とわざわざ戸籍謄本を取りに帰り見せて口説いたらしいが証拠なし。
その後も服部社長と登久平は親友で、独立美術協会の山形展の時に援助をしてテープカットも社長だ。
そして登久平作品のコレクションも服部社長は持っていた。その一つが山形ホテルグランドにあるはずだったが平成10年頃までしか確認できず、私は今日ホテルに問い合わせたらあった。
なんとロイヤルスイート720号室に飾られているそうだ。
嬉しいけどスイートルームに泊まるのは予算厳しいです。
嬉しいけど。
あるのは義父の成熟時の代表作の一つなので行きますけどね。
行き帰りは夜行バスだなぁ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%95%AC%E9%9B%84