私が熊谷登久平のことをかき回していると不愉快に感じている方はこのブログを読まないでほしい。
のこのこと、登久平の死後50年近くたってから次男に嫁いだだけの素人が推定やら曖昧なことを繰り返してるわけです。
それが熊谷登久平画伯に対して失礼だととられるのは私はしんどいし、またここを読んでイライラされても困る。
私と熊谷登久平の次男である夫は調査を続けるつもりだから、露出を品がないとか嫌がる人とは相容れないです。
前にも書いたけど、郵便で脅迫状が届いたこともあるし変なコメントもたまにあります。
疲れます。
で、今回も推論です。
山形美術館に明日まで展示されてる熊谷登久平の裸婦。1951年の作品。
義父の死後に戦後の作品が美術館の企画展で展示されたの初めてかも知れない。可能性があるとしても山形美術館だけかな。戦後の絵も良いのに入選作品や長谷川利行の友人らしい作風のものが学芸員に好まれるのかな。
岩手県立美術館には昭和初期のものしかなく、残念ながら死蔵となっている青梅美術館のも初期と戦前のもの。気仙沼のリアス・アーク美術館にも私が関わったけど戦前の気仙沼の絵が入った。
青梅美術館から貸し出された作品が宮城県立美術館で展示されたことがあるそうだ。
板橋区立美術館でも戦前の作品が並んだ。
郵政省の美術館の倉庫に入っている作品は戦後のものであるけど冊子の表紙を飾った絵で展示実績はないと聞いた。
岩手県立美術館にある絵は萬鐵五郎の影響が強く出ている。だから収蔵したのではとの話しも聞いた。
今山形美術館で展示されている裸婦は戦後の作品ではあるが、やはり萬鐵五郎を感じる。
おしどりについて。
今山形美術館で開催されている服部コレクション。そこに展示されている「おしどり」。
この展示ではいつ描かれたのかは不明となっている。
私はこの作品を昭和13年(1938)、第15回白日会に出品した「おしどり」ではないかと推論している。
白日会は新春の開催される、なので描いたのは前年か。
この白日展には他に「裸女と果実」「桐の実」「内裏雛」「小野寺総監像」「雪山」を出品しており、内裏雛のサインと似ている。
この年、6月24日〜26日まで山形新聞後援、熊谷登久平畫伯渡欧記念展が農業会館開催されおり、展示されていた中に「おしどり」が含まれていたのでは。
それを服部社長が求められた、もしくは登久平が贈ったか。
それが今回展示された。
おしどりは1982年(昭和57年)3月31日に山形県の鳥に制定されたとか。
当時の山形新聞によると熊谷登久平は昭和10年頃から山形に通っていたらしい。
↓北京からの引き揚げ後に山形で芸者をやっていた義母の房江。
追記
「おしどり」は1991年11月8日〜11日に岩手県千厩の第20回千厩町産業文化祭で開催された「熊谷登久平画伯展」に貸し出されて展示されている。
(会場は千厩農村勤労福祉センター)
この展覧会に展示された作品の写真撮影など山形新聞社が協力している。