熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

神経質になっている。

https://www.bungakukan.or.jp/cat-exhibition/cat-exh_current/14339/

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例によって胸痛で5時に目覚める。

ここ数日は多めに睡眠薬を飲んでいるし、ソラナックスも飲んでるのに痛い。

自分のマイナス思考の感情が面倒で仕方ない。役に立たない。

 

 

昨日、世田谷の日本近代文学館『プロレタリア文化運動の光芒』を鑑賞してきた方から感想を聞く。

絵画などの美術作品も展示されているそうなので、ぜひ行きたい。

 

義父の熊谷登久平がほんの一時期、『プロレタリア』にはまっていたようなので、また、私の恩師がプロレタリア文学早乙女勝元先生なので、(先生は戦後ではあるけれど)戦前のプロレタリア文化運動にはとても興味がある。

義父がそれを過去形で語っている新聞記事は昭和初期、それでも白山の南天堂で個展を開き、また戦後も左の文学者との交流もあったから、時世を読みながら生きたのだろう。

転向文学者の林房雄との交流もその中の一つかもしれないが、推測しかできない。

とか書くと「林房雄と交流があった証拠もないのに、だから教養がない」と言ってくる人がいそうなので、とても嫌。

 

 

念のために書いておくけど当時の新聞記事は複数あり、熊谷登久平の家の隣に拘束されて転向して解放された林房雄が住んでいた証拠までは調べてある。

が、活字で調べただけなので、それを一次資料とも言えないので難しいところだ。

義父が上京した1920年はプロレタリアがナウでカッコよかったってのはあったかも。不謹慎だが。

 

あー、心臓に爆弾抱えている夫の希望は彼が生きているうちに早世した義兄がやろうとしていた義父が描いた場所の特定と、親戚と協力して完成させたがっていた年表。そして義父の再評価。

去年、それは難しいと御教授頂いていたけどさ。

しばらくは、付け焼き刃の情けなさの自己嫌悪と付き合うんだろうな。

 

明日は義父が描いたらしい茨城の海岸線へ。

外房と内房、熱海、伊豆、下田、茨城から福島の海岸線、そして宮城から岩手の海などを描いたと夫は聞いているそうだが、わかんないよ私。また筑波の国土地理院に通うのか私。

義兄様、確認する前に亡くなされた義兄様、助けて。

 

独立美術協会、功績物故会員選外、夫に任されていたのに情けない。去年無理だと教えてもらった時に、動くべきだったのだろうか。でも評価が固まっているのにしゃしゃりでたら、死後除名もあり得ると聞いたし、文壇には今も飲み友がいるけれど、画壇は外野なのでやっていいこと悪いこと、序列がわからない。

うまく割り切れなくてしんどい。