熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

池袋モンパルナスの会会員展 ギャラリートーク長谷川利行との青春 熊谷登久平の宝物                   仲村明子 (元足立区立郷土博物館調査員・著述業)小林優【ゆう】(足立区立郷土博物館学芸員) 2023年5月20日 熊谷明子加筆改稿

美術の窓 視点      長谷川利行との青春 熊谷登久平の宝物
                  仲村明子 (元足立区立郷土博物館調査員・著述業)小林優【ゆう】(足立区立郷土博物館学芸員)

を元にして

2023年5月20日 仲村明子(熊谷明子)加筆改稿。小林優さんには許可得てます。

 

こんにちは、私は独立美術協会物故会員熊谷登久平の義娘熊谷明子です。
熊谷登久平は池袋モンパルナスのメンバーではありませんが、同時代を生き、住人たちとの交流は伝わります。 

 

交流ではありませんが、池袋モンパルナスの昭和10年小熊秀雄が、「熊谷登久平 「夕月」「五月幟」「朝顔」その出品画や画題を見ても判るとほりすこぶる日本的な作家である。会でこの作家に「海南賞」を出した気持が判らぬが、賞は秀作に出すものだから、きつと秀れた作品といふのだらう。(小熊秀雄全集-19 洋画壇時評 独立展を評す 第六室)』」と、批評を残しています。結構厳しい気がしますが。

戦後池袋にあった画壇バーの炎はお弟子さんの手記によると開店を手伝い、通っていたようです。

 

 


今回展示されている池袋モンパルナスの1人、田中佐一郎と熊谷登久平は独立美術協会の前身、1930年協会の頃からの公募仲間であり、独立美術協会では共に里見勝蔵派と呼ばれていたようです。
それについては里見勝蔵が熊谷の遺作展に寄せた追悼文『熊谷君と私 里見勝蔵』に少し書かれています。
「独立展の初期の頃田中佐一郎君や妹尾正彦、熊谷登久平君等が私のもとに集ったものだ。
それ故にか三人には一連の共通するものが感じらはれた。時代のセイだろう?
その一人の田中君が逝き、続いて熊谷君も他界し、私の身辺も寂しくなった。私も独立展を去って永い年月を経た。」
独立美術協会が発足し、新しい日本洋画をと若い才能が集ったのですが、シュルレアリズム派とフォービズム派それぞれが動き始め、それが里見勝蔵派と福沢一郎派ですが実力行使もあり、上野のそば屋さんの2階で開かれていた福沢派の会合に熊谷登久平たちが殴り込んだこともあります、これは活字に残っております。
その後、里見勝蔵は独立美術協会を退会し、田中と熊谷には独立に残るよう言い含めたとの言い伝えが我が家にありますが真相は不明です。

田中佐一郎は独立美術協会の若手中堅メンバーたちの独立十人の会の会長(時には十七人の会)として創立時から創立会員外として参加していた若き画家たちやその後の会友も含めて高島屋資生堂などで展覧会を開催しました。その中に熊谷も属しております。

私は里見勝蔵が書き残している一連の共通するものを感じたくて田中佐一郎の作品を数点購入しました。それが今回展示されている作品です。

さて、次は複写で展示した長谷川利行のスケッチブック。

 熊谷登久平(1901~1968)の家には彼の宝物入れと伝わる缶がありました。
 その宝箱の中には古いスケッチブックと苦行時代を支えた内縁の妻の写真などが収められていました。
 登久平の遺児、次男の寿郎、私の夫から錆びた缶を渡され蓋を開けると古いスケッチブックがありました。

そこには登久平の盟友で、その豪放な生涯と画風で今日も知られる洋画家、長谷川利行と思われる筆跡があり驚きました、。
 私はかつて勤務した足立区立郷土博物館に連絡をし、同館美術担当の小林優の助言に沿い慎重に資料とすりあわせ、その結果、これは世に出ていない長谷川利行のものであろうと判断し、しかるべき場に連絡をしましたが、利行は贋作が多いこともあり、折り返しの返答はなく、缶を開いて二年が過ぎ平成が終わり令和となりました。


 しかし、ウェブサイトの「今日も日暮里富士見坂」https://fujimizaka.wordpress.com/で「バガボンド長谷川利行」を書く池本達雄(日暮里富士見坂を守る会会員)に私が送ったメールが転機となり、元岩手県立美術館館長原田光と府中市立美術館、福島県立美術館学芸員たちが調査きてくださいました。
 それが令和二年一月十四日朝日新聞東日本版の夕刊に「日本のゴッホ東京素描」「放浪画家・長谷川利行のスケッチ発見」「詩やメモも」の見出しと記事が原田光のコメントと共に掲載されました。
 スケッチブックは、縦十三・五センチメートル、横十八・二の小ぶりなもので、一部ページが破りとられた箇所もあるものの、八十四頁の中に五十一のスケッチや散文詩が鉛筆でかかれている。一ページ目(図一)には年記と共に「Tosiyuki HASEGAWA」のサインが記されています。
 スケッチブックに描かれているのは登久平やその妻、カフェで酒を楽しむ人々で、往事の利行や登久平の日常や、交友の様子。
スケッチブックに残されている日付は一九二八年(昭和三年)一月十四日など。
 その前年の昭和二年に利行と登久平は賞金目当てで大調和展覧会に応募するも全落。反発した二人は十一月二十日から三十日まで「長谷川利行、熊谷徳兵衛(登久平の本名)油絵個人展」(彩美堂・大地堂)を開催しました。
 朝日新聞に掲載された利行の反大調和展覧会の論文を見た里見勝蔵と前田寛二が会場に訪れ、それが里見勝蔵と熊谷登久平の出会いとなります。

二人は目白の里見宅に招待され酒を三升開けた。(『新世界美術』一九六一年十一月号、一九六二年三月号「長谷川利行と私・熊谷登久平」)
 この昭和二年から里見たちの美術団体一九三〇年協会は公募を始め、利行は三作品が入選しており、利行は同年の第十四回二科展でも樗牛賞を受賞している。
 そして登久平は同年の第四回白日展に初入選。昭和三年二月の一九三〇年協会には利行と登久平共に入選した。

二人の快進撃が始まります。
この頃のことを利行の死後、矢野文夫編纂発行の『夜の歌(長谷川利行と藝術)』(邦画荘、一九四一年十一月十五日)の中で登久平は「墓と塔のある上野の山のおく、ここは若い長谷川にも私にも巴里の連中のように、モンマルトルであった。この私たちのグループのために、『ル・カポー』といふ酒場が東京のモン・マルトルにつくられた。この酒場が、私たちに飲み倒されるまでの一年間ほど、私たちにとって幸福なことはかつてなかったであらう」と書き残しています。


熊谷登久平、田中佐一郎、長谷川利行。この3人の当時のことがもっと知りたいと願いつつ。

 

 

以下質問用のメモ

 

         登久平は昭和二年から昭和四十三年まで白日会、独立美術協会などで活躍した洋画家である。

 


 スケッチブックの中には仙台出身の詩人で、戦後に宮沢賢治研究会を主宰した佐藤寛(1893-1970)も登場する。
 佐藤は仙台出身で養家を出奔し、花巻で短歌雑誌を創刊した、その選者は出版社「博文館」の社員でもある生田蝶介だ。
 三重県立美術館のウェブサイトにある長谷川利行年譜(東俊郎編)によると大正八年に「利行は博文館の『講談雑誌』短歌欄の投書でしばしば入賞したことが機となって編集責任者だった生田蝶介を知っていて、生田となんらかの交渉があったと推測される。」とあり、その後長谷川は生田と交流を深めている。
 佐藤は長谷川利行と生田を通じて知り合い交流が始まったと推測できるものの、今まで発表された長谷川の交遊録には彼の名は記されていないが、このスケッチブックには利行が佐藤のことを明記している。
 スケッチブックの記述。 
「サトウガ信州ノ新聞記者ヲ
 ヤメテ、
 サーカスノ小屋ニ見タノハ
 時間ガ ヨホド経過シテ居ル
 サトウノ友達ハ
 面白想【おもしろそう】ニ 輪乗リヲミテ居
 タ、
 サスガ ハ 浅草デアル
 k氏【熊谷登久平か?】像
 一・一四   」
 佐藤寛の名刺も缶の中にあった。名刺の住所は「東京市葛飾區金町三ノ二一二九」
 佐藤寛編『解説 啄木歌集』(成光館出版部 1936 年)巻末広告の住所と符合する。佐藤は岩手県出身の石川啄木の本を出していた。
 宮沢賢治石川啄木、共に岩手県生まれだ。
 熊谷登久平も岩手県生まれ、千厩町の豪商日野屋の長男であった。旧制一関中学を卒業した二年後、大正十年に上京し中央大学に入学すると同時に川端画学校にも通った。
 洋画家を目指す登久平は大正十四年度に大学を卒業するも家業を継がず、父親から勘当されている。勘当が解けたのは昭和四年の二科展入選時であった。
 故郷の岩手県に残った登久平の弟の宏介は陸軍に入隊、宮沢賢治の弟の清六と同期となり彼の除隊後も近しい関係であった。その縁で登久平も宮沢兄弟と交流があったと熊谷家には伝わる。
 それも戦後宮沢賢治研究者となる佐藤寛との接点とも考えられるが確かめる術はない。利行、登久平、それぞれに縁がある人物が佐藤寛だ。登久平の宝箱に残されたスケッチブックは、こうしたつながりを考えるよすがともなり得る。
 


長谷川利行との青春 熊谷登久平の宝物 二
                  


 
 
 太平洋戦争開戦直前に発行された同書籍の中で「彼のような天才を容れ得ない島國根性的日本畫壇の存在は実に笑止千萬であると思う。もし長谷川が巴里に生まれて居つたなら、ルクサンブルクあたりに彼のガランスとエメラルドの光り輝く絵が、彼の短い人生を永久に物語るように懸けられたであらう」とも。
 上野の山のモンマルトルには、旧岡倉天心邸と伝わる屋敷があった。登久平たちは、いつかはそこを買い修繕し利行と矢野、熊谷夫婦で住もうと話していたと熊谷家には伝わっていた。
 その様子を同世代の画家、田崎廣助の長男暘之介が長谷川利行を中心とした小説『野ざらしの詩』(協和出版、一九八○年)に書いているが後書きによると父親をはじめとする当時を知る画家たちに取材をして書いたとある。
 小説に書かれているのは皆で間取り図を楽しげに描く様子。
 その間取り図も長谷川利行のスケッチブックに残っていた。(図一)
 その荒れていた屋敷を購入した登久平は、修繕時に身体の弱った長谷川のための部屋も用意し洋式トイレと広い風呂を作ったが、すでに間に合わなかったと熊谷家には伝わる。
 
 長谷川利行については多くの記録があるが空欄も多くある。その一つのピースとして、このスケッチブックはある。登久平が公開せずいた理由はあまたあるであろうが、世に出す意義もあるであろう。
 今後、研究にいかされることを

 

長谷川利行1891年生まれ

里見勝蔵1885年生まれ

田中佐一郎1900年生まれ

熊谷登久平1901年生まれ

 

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