熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

池袋モンパルナスの会会員展 特別出展 熊谷登久平他

池袋モンパルナスの会会員展にてギャラリートークをした。

トーク前に喘息の大きな発作をやったために咳が残っていること、前日にインフルエンザとコロナのチェックを受けて陰性だったことなどを話し、ご了承をお願いした。

この展覧会でのギャラリートークは2回目。残念ながら途中どうしても咳が出た。

 

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丸木俊ブルガリア人形は恩師早乙女勝元が彼女の個展で買い求めたものと聞いている。先生の形見分けで私の手元にきた。

先生と丸木俊さんの交流は戦後葛飾区の童話、純文学、などの青年たちの集いから始まり、松谷みよ子いわさきちひろ加太こうじらと、合唱、演劇もやっていたと聞いた。この青春期の話しを先生がされる時は若々しく声がさらに輝いていた。

この時代、先生は多くの 童画画家とも知り合いそのコレクションもいくつか頂いた。池袋モンパルナスには童画画家たちも住んでいた。

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この作品は家族と過ごす居間に飾られ、その部屋の窓からは夫妻が大事に育てていたアンネのバラが見えた。

先生が体調を崩され、介護用ベッドはこの絵がある居間に置かれた。

 

 

早乙女先生は他にも良い作品があったが、それは他の人が先に求めたと。

可愛らしい絵だと私が言うと、彼女はブルガリアで大きく評価を受けているのですよと。

 

『1979年にはブルガリアの第3回反ファシズムトリエンナーレ国際具象美術展に《三国同盟から三里塚まで》を出品。ソフィア特別賞を受賞し、ブルガリア国立美術館へ寄贈。ブルガリア美術協会の名誉会員、ソフィア名誉市民に認定された。Wikiより』

 

寺田政明

ばらの花

薔薇の花は義父を含めて多くの画家たちが描いていて、それぞれの違いも楽しくて 、義父が所属していた独立美術協会と白日会の画家の薔薇の絵を自然と集めており、これはその中の一作品。

気に入っています。

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昭和初期から晩年まで熊谷登久平は下谷区谷中に住まい、また寺田政明は谷中眞島町にあった 太平洋美術学校で学んでおり長谷川利行、矢野文夫という共通の友人もいた。なのに残念ながら残されている資料の中で二人の交流は見つけられていません。もしかして仲が悪かったかなと感じるものはあります。

この頃の独立美術協会の若手には里見勝蔵派(野獣派/フォーヴィスム)と福沢一郎派( 超現実主義/シュルレアリスム)がいて、独立美術協会の中で揉めることがありました。

熊谷登久平らと福沢一郎派の乱闘事件は活字にもなってあります。熊谷登久平らが福沢派の若者の会合に押しかけたわけですが。登久平は中央大学応援団団長時代に慶應の応援団と乱闘し(活字に残っています)また柔道有段者、福田派の若者の中には2階の窓から飛び降りて逃げた話しも残っております。この若者たちに寺田政明氏がいたのかは不明ですが。

 

この煽りで里見勝蔵は独立美術協会を抜け、そのときに里見勝蔵は喧嘩に強い熊谷登久平と田中佐一郎に独立のフォーヴを守れと言ったとかの伝承が我が家にはありますがこの真意も不明です。

この田中佐一郎は池袋モンパルナスの一員であります。

 

熊谷登久平と池袋モンパルナスの関わり、池袋のアトリエ村には野口弥太郎、田中佐一郎と交流のあった画家のアトリエもあり、戦後池袋駅前にできた画壇バーの炎の常連でもありました。

 小熊秀雄による評……

『熊谷登久平 「夕月」「五月幟」「朝顔」その出品画や画題を見ても判るとほりすこぶる日本的な作家である。会でこの作家に「海南賞」を出した気持が判らぬが、賞は秀作に出すものだから、きつと秀れた作品といふのだらう。』

 

今回展示したのは熊谷登久平の『レダ』『山の湖(湯の湖)』

 

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