熊谷君と私 里見勝蔵
熊谷君と私
里見勝蔵
独立展の初期の頃田中佐一郎君や妹尾正彦、熊谷登久平君等が私のもとに集ったものだ。
それ故にか三人には一連の共通するものが感じら
はれた。時代のセイだろう?
その一人の田中君が逝き、続いて熊谷君も他界し、私の身辺も寂しくなった。私も独立展を去って永い年月を経た。熊谷君ともまれにも会わ
なかったが、然し彼が独立展に終始がんばっていることや、いつしか十九平のスタイルが出来つつあるように感じていた。
その時に彼が倒れたとは、かえすがえすも残念である。
今度友人達の手で彼の遣作展が開かれると聞いて熊谷君の人徳が斯うした慶事につながるものとして喜ばしいことである
しかし僕が十九平と交際したのは、他の人とは異るかも知れない。
僕は彼のニヒリスティックな、アナキスティックな所が好きだったのだ。
ところが、それも彼のお人よしに被われてしまう事が多かった。十九平の伯父に――タダ居屋――と云うのがいた話を僕は聞くのが好きであった。
或いは十九平も、多分タダ居屋式に生活したのかも知れない。
瞑福をいのる。
田中佐一郎の戦前の作品、『フランス風景』板絵。
↓
田中佐一郎作品、『裸婦』
ヤフオクで落札。
贋作だったら泣く。
熊谷登久平と田中佐一郎は戦前、独立美術協会の里見勝蔵派として里見勝蔵が独立美術協会を去る時にお前らは強いからと(喧嘩に)と残るように言われたと伝わる。
先に会員になっていた田中佐一郎は良いけど、トラブって出ていった里見勝蔵派の熊谷登久平はしばらく会友のまま、欲しかった独立会賞を得られなかった。
実家がとても裕福で仕送りもあった登久平は、芸者遊びの粋を知らない林武に神楽坂で奢ったりしていたと伝わるので、タダ居酒屋をやっていたのかもしれない。