2022年10月12日から30日まで池之端画廊で開催された「里見勝蔵を巡る三人の画家たち展」の熊谷登久平の作品のキャプション。
熊谷登久平《小菅刑務所》油彩 キャンパス
昭和3年(1928)
昭和4年(1929)前年の白日会初入選に続き第六回白日会に入選し白日賞を得、白日会会友に推薦され無鑑査への道を開いた作品。
この3年前、大正15年(1926)に登久平は旧制中学の同級生矢野文夫の文京区根津の下宿で長谷川利行と出会い、共に関東大震災から復興していく東京を歩き作品を描いた。この小菅刑務所には日本初の煉瓦工場があった。煉瓦造りの施設は震災で崩落。この絵が描かれた翌年にモダンな刑務所が落成した。(熊谷明子)
熊谷登久平《熱海》油彩 キャンパス
昭和9年(1934)
「昭和9年11月29日熱海-箱根自動車道路」の記念スタンプが残る里見勝蔵宛て富士山の絵葉書に登久平は『十国峠にやって来ました。重ねはいりません峠の上の工夫●●です。朝な夕な姿を変へる富士は伊達者です。熱海と箱根の中頃です。都を離れての山の日も中々味があります。奥様●●様によろしく。御健康を祈ります。』と書いた。日本初の有料道路、熱海-箱根自動車道路は昭和7年に開通。
その景勝地からの熱海を登久平は描く。(熊谷明子)
熊谷登久平《赤い帽子の女》油彩 キャンパス
制作年不明 昭和初期か
赤い帽子を深くかぶり、その青い陰からは強い眼差し。昭和初期、エロ・グロ・ナンセンスを包括したモダンの時代。肩パットが入った二色使いのブロックチェック柄のワンピース。形の良い唇も赤く、扇情的ですらある。モデルは登久平の妹。宮城県の丸森家に嫁ぐ前か。登久平は詠む。
「楢くぬぎ山はもみぢになる山をいもは宮城に嫁ぎゆきけり」
熊谷登久平 《弓》 油彩 キャンパス
昭和17年(1942)
第12回独立美術展に展示された「弓」。この前年、日本は開戦した。時代は画家たちに雄々しさを求め、あるものはみずから従軍画家となり戦場へ、あるものは国に協力的でないとみなされ拘束された。
登久平は強いられたテーマで描くことを好まず、しかし時流に逆らわない選択をした。
前年の白日会には『戦いの春(弓鳩)』独立美術展には『太鼓』『笛』出品。
この頃登久平が描く人物画は白目がない。(熊谷明子)
熊谷登久平《アラジンストーブと女》油彩キャンパス
昭和初期?(1930年代)
アラジンストーブは1930年代初期に英国で開発された最先端の暖房機器であった。
モデルは登久平より11歳上の衣子。女学校出の才媛で外国語も嗜んでいた。登久平は大学生時代に彼女と出会い交際を始めた。卒業時期、登久平は家業を継がす画業を目指すと実家に伝え勘当され潤沢な仕送りをたたれ慣れない労働をし倒れた。その間彼女は働き生活を画家への夢を支えた。登久平は昭和4年二科に入選。報じる新聞記事に共に写る。彼女は藤田嗣治が企画した銀座のカフェ「サロン春」のマネージャーでもあった。(熊谷明子 )
熊谷登久平《曲馬》油彩 キャンパス
昭和6年(1931)
朝日新聞推薦展に出展した作品。里見勝蔵の影響がみられる。
この年登久平はサーカスを題材とした『軽業の女』を白日会に出展している。開国後、江戸時代からの曲馬芝居はすたれ、西洋曲馬へと人気はうつりサーカスが曲馬と呼ばれるようになる。
長谷川利行が友人の登久平に残したスケッチブックには昭和3年浅草でのサーカスの楽しさが記されている。
本絵は昭和6年作だが人々が熱中した躍動感と彩りがある。(熊谷明子)
熊谷登久平《漁村》 油彩 キャンパス
昭和30年代後半?
熊谷登久平遺作展出品作(昭和46年(1971)9月13日~18日、柳屋画廊)を選定するために台東区谷中の登久平のアトリエに集まった林武たち独立美術協会会員と弟子たちが記念パンフレットの掲載用に選んだ作品。
林武は「その人柄に見える人情に厚いことや自分の尊敬する先輩の作風に何のこだわりもなく採入れそれを自己の色感に唄い上げることを至上の歓びとした」「近年その完成が見られるようになった」とパンフレットに書き残している。(熊谷明子)
熊谷登久平《家》油彩 キャンパス
昭和2年(1927)
大正15年(1926)年藤花の頃、登久平は長谷川利行と出会い、共に絵を描き、短歌を詠んだ。昭和2年11月2人は新人登竜門として新設された「大調和展」の一等賞金千円を目当てに大量出品するも全作落選。結果に納得できなかった2人は谷中の額縁屋、大地堂と彩美堂で「反大協和展」を開催する。そこに朝日新聞に掲載された開催案内を読んだ里見勝蔵が前田寛治と共に訪れた。
里見宅に招待された2人は一升瓶を三本空けた。本作はこの頃の作品。展示会場はここ池之端画廊から徒歩五分ほどの言問通り沿いにあった。(熊谷明子)
熊谷登久平《鹿島神宮》油彩 キャンパス
昭和19年(1944)
登久平は第14回独立美術展に写実的な『香取神宮』とこのポップな作品を共に出展した。展示会も軍の影響が強くなり考え抜いた選択であった。この年、戦局は悪化し続け「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」と書いた新聞記者が徴兵され戦場に送られた。空襲に備えた防火のための建物疎開(建造物を壊して火除け地とする)も始まった。登久平と同じ川端画学校で学んでいた島崎藤村の息子で画家の鶏二が南方で戦死。登久平は学友のつてで国策会社『東京航空計器』に入社し戦地への徴用を逃れた。(熊谷明子)
熊谷登久平《ねこ・じゅうたん・かがみ》油彩キャンバス
昭和34年(1959) 57歳
「熊谷さんが、新しい表現体を打ち出してから、今年は四年目というものだろうか。その表見体は、格別きびしいものでも、敢えて強いものでもなく、実に素朴なという方が適切だろうし、またそこに、熊谷さんがあるというものだろう。」(昭和38年2月1日の月刊美術クラブ)
昭和34年登久平は次男の寿郎を授かる。57歳の彼は長く共に過ごせないだろうと次男を甘やかす宣言をし、砂糖息子と呼んだ。そして表現が変化した。(熊谷明子)
熊谷登久平《山と湖》油彩キャンバス
昭和28年(1953) 52歳
前年27年、日本国の主権が回復しGHQが廃止された。この年厚生省の洋画好きが集い洋画同好会が発足。その指導に登久平が招かれ会の名は熊谷の逆読みのバリベア会となり、室内指導と写生旅行にも出かけた。
本作は昭和28年に日光で描いた習作と思われる。
登久平は戦時中に戦場画家逃れのため入社した国策会社東京航空計器に敗戦後も引き留められ社の生き残りに尽力し進駐軍への交渉にもついた。
その重責からの開放感が本作にある。(熊谷明子)
寿郎気に入りの作品。
節分なので氏神様の諏方神社へ。
今年も豆まきは中止で社務所で分けてもらう。
神社向かいの太平洋画会の展示会へ。