これは独立美術協会物故会員の洋画家熊谷登久平関係者向け用の報告メモでもあります。
以下のページが見つからないとの方向けメモ
オーラルヒストリーの裏付けになれば良いと、熊谷明子の個人の感想も含め、気が向いたら更新しています。
登久平と、生家の日野屋、義母と義兄、お弟子さん、甥の英三さんを中心とした千厩のメンバーが残してくれた資料、その断片、一関の平澤家の資料、それと古書や上野の山にある文化財研究所や国会図書館などで見つけたものを元に、見つけ次第年度に書き込んでいるため、年度内の順は適当になっており、スマホ画面で入れ替えるのは面倒なのでそのままです。
何月何日の展覧会かは検索したら出てくる場合もありますが、ごめんなさい。
私のパソコンは10年前のものなので、Windows社のサポート外落ち。
熊谷登久平の次男である熊谷寿郎(私の配偶者)は登久平の著作権を持ってない、他者が持っているとの御指摘がございましたが、寿郎が法に基づき相続し著作権を持っております。
熊谷美術館を管理運営している本家がスムーズに動けるように大きく主張をしておりませんが、著作権法では寿郎が相続人です。(なんでこんなこと書かなければいけないんだろう)
熊谷登久平はハイアート(high art) 純粋美術の画家ではない、「下手だ」「引き立て役」「戦前からの独立美術協会会員だったのに独立賞をとってない。有力会員でなかった」「格が低い」などとアカデミアな方に複数回言われましたが、美学とか学術的とか美學閥などを私は理解してないので「熊谷登久平は戦前から洋画家名簿に名があり、今も美術年鑑に掲載されてるから画家です」と言わせて頂いております。
(正直言ってムカつく)
随時、加筆訂正更新してます。
長いと苦情が複数から来ましたが、私的なメモでございます。
また参考にできる方との情報共有的なものとしても作成してます。
関係ない広告が出るのは好ましくないので出ないように登久平の次男の寿郎がハテナに使用料を払って運営しております。私たちに何かあったら広告が出ますことご理解ください。
私たちが死んでもハテナがある間はこの記録は残せるかな的な。
明治34年(1901年)
10月2日、岩手県東磐井郡千厩町に、熊谷喜造(二代目半兵衛)とまつみの長男として生まれる。
本名、徳兵衛。
大正8年(1919) 18歳
旧制一関中学を卒業
美術部所属
中学時代の作品「潮来の村」
祖父母の肖像画
大正10年(1921) 20歳
この頃上京し、中央大学商学部に学ぶ。
また、川端絵画学校にも入り、本格的に絵画を学び始める。川端画学校では海老原喜之助、橋本八百二らと交流し渡仏前の海老原から自画像を貰う(桑原住雄/日本の肖像画/南北社 /1966/1/1)。
中央大学では応援団に入り、絵画倶楽部パレットを創立。柔道二段でもあり、慶応大学応援団との乱闘で勝つなどの武勇伝が新聞記事に残る。
上京早々に片瀬写真館を経営する熊谷伊助の直系の熊谷治純や横浜のマツヤカンパニーを訪ねる。
この2年後、熊谷治純は関東大震災で被災した屋根の上の岸田劉生一家を撮影している。(近所住まいだった)
↑右、熊谷治純 真ん中、登久平(徳兵衛)江ノ島にて。
この時、憧れていた岩手県出身の洋画家萬鐵五郎宅を訪ねたとかも我が家には伝わる。
萬鐵五郎は1930年協会創立メンバーが属していた円鳥会の創立者でもあるうろ覚え。熊谷登久平が1930年協会に絵を出し、白日会で会員になっているのに1930年協会のメンバーが創立した独立美術協会の会員になることに固執したのもなんかわかるような、証拠もないのに無責任ですけど。
(円鳥会の成立と消滅―萬鐡五郎を中心として 佐々木一成(岩手県立美術館))
まあ、伝承だと家に岡本太朗がきた。川端康成もきてた。島崎藤村の家と付き合いがあった。サトウハチローと付き合いがあった。棟方志功と付き合いがあったとか。
残念ながら伝承としか言いようがない。
(藤村は息子さん二人が同時期に川端画学校、サトウハチローも同時期に川端画学校で学んでいたとかで接点はあるけどね)
大正12年(1924)22歳
関東大震災にて家財が焼失するも大切に保管していた海老原喜之助の自画像は焼け残る。
(「日本の自画像/桑原住雄著/南北社1966年5月30日発行」)
渡仏前、海老原は登久平に「もっと絵を描け」と、まとまった数の作品を渡しその中に自画像があった。
その絵を潰すのは惜しいと登久平は大事にしまっておいたが、関東大震災に遭い家は全焼する。
が、海老原喜之助の自画像は無事で、その後帰国した海老原にその話をすると喜んで裏にサインをした的な。昭和40年代までその絵は我が家にあったが葬儀後の混乱期に失われたそうだ。
(川端画学校に岩手県出身の橋本八百二もいた。
橋本八百二にも渡仏前に海老原は絵を渡し、その中にも自画像があり、今海老原の自画像として有名なのは橋本八百二が持っていたもの)
小石川の川端画学校は無事?
神田錦町の中央大学は図書館は無事?
大正13年(1924) 23歳
このころ川端絵画学校修了か?
このころ岩手県千厩の豪商日野屋の父に大学を卒業しても家業を継がず画家になると宣言し仕送りを断たれる。
でも11歳上の美しい女性(本名/横江政恵、名乗りは熊谷衣子)と歳下の叔父で中央大学生(彼も後に勘当される)に援助を受け絵も大学も続ける。
大正14年(1925) 24歳
↓参考資料として中央大学学員名簿を添付
洋画の画材は金がかかる。
このころ画材のために慣れない労働をしていたためか倒れる。それを知った母の実家や親戚が一斉に送金を始めるも、父親が送っていた仕送り額には満たない。
援助をくれた家には後に絵を贈ったらしい。
結核を発病。
北里病院(?)を経て(熱海の噏滊館/きゅうきかん)で静養をする(弟の広介の手記より)。
大正15年(1926)25歳
この年、熱海の噏滊館(きゅうきかん)での静養が終わったと思われる。倒れてからずっと献身的に熱海まで付き添った衣子と一緒に帰京。(登久平の従弟談)
中央区浜町から文京区根津に転居/「長谷川利行と私・熊谷登久平」『新世界美術』 一九六一年十一月号、六二年三月号版
(大正時代、日本橋浜町?のモスリン問屋の橋爪利兵衛夫妻に世話になっていたとの情報がそこのひ孫さんから入った。登久平が送った葉書の添付あり)
衣子、登久平の母親公認の内縁の妻となる。(数年前、平成2年まで登久平の生家方の親戚は入籍をしていたと思い込んでいた)
藤の花の咲く頃、一関中学時代の同級生矢野文夫(詩人・日本画家)の紹介で、根津にて洋画家・長谷川利行を知り、親交を結ぶ。
繰り返すが洋画を描くには金がかかり、親戚からの援助では足らず、女学校出の内縁の妻はカフェで働く。
(これを矢野文夫がカフェの女給と登久平の手記「長谷川利行と私」引用の際に(登久平の死後)加筆し、それが今もひとり歩きしている。
そのため彼女を下品な風俗嬢的な書き方をする長谷川利行関連本もあり私は怒っている。)
(衣子は女学校出で教養があり、上方言葉を話し英語、仏語ができる才媛だったので、後に藤田嗣治がプロデュースをした銀座のカフェ『サロン春』に引き抜かれマネージャーになった)(浅尾丁策著/昭和の若き芸術家たち―続金四郎三代記〈戦後篇〉芸術新聞社 (1996/10/1)には、サロン春のマネージャーという記載あり。)
登久平の次男の寿郎は彼女はチャップリンに会ったことがあると聞いていたが、サロン春時代のことかもしれない。
彼女は後に府立美術館で働いていたとの話もある。(登久平の従弟談)
昭和2年(1927) 26歳
白日会で「廃屋」「冬日風景」の二作品が入選し、昭和3年(1928年)新春の第五回白日会展に展示される。
長谷川利行と二人展を上野の山、言問通り沿いの額縁屋彩美堂と大地堂(木秋社)を会場として開催。(企画段階では松尾恒夫(詳細不明、戦前の白日会展と1930年協会入選者に名がある)を含む三人展)
同展、反調和会展を見学に来た洋画家・里見勝蔵(1930年協会、独立美術協会創立会員、二科会友)、と前田寛治の知遇を得る。(長谷川利行と私)
大反調和会展に展示されたと思われる作品。
「家」「ニコライ聖堂」「千厩警察署/岩手県立美術蔵蔵」
ニコライ聖堂
家(廃屋の可能性あり)
千厩警察署
この年、招待された里見勝蔵宅にて利行と一升瓶を三本空ける。次から里見家に行っても酒が出なくなる。(長谷川利行と私)
昭和3年(1928) 27歳
熊谷登久平の宝物、長谷川利行スケッチブックはこの年のもの。
第5回白日会展。「廃屋」「冬日風景」
第3回1930年協会に出展。「冬の風景」「軽業」
白日会には、昭和16年の第18回展まで連続出品。白日会の仲間と創作と文芸の会「まひる」を結成。
白日会の冊子制作にも参加。編集部は浅草の村上鉄太郎宅。村上は戦後白日会主要メンバーとなる。
この冊子に書いた随筆及び短歌は1944年に発行した画集に収録。
昭和4年(1929) 28歳
第4回1930年協会展に出品。「居留地風景(横浜)」「冬」
第16回二科展に出品、入選する。「気仙沼風景」「赤松と水車小屋」
『鬼才 長谷川利行と二人 熊谷登久平・矢野茫土 一関ゆかりの画家 生誕百年展 』一関博物館図録より。(一関博物館 岩手日日新聞社 企画・構成 /出版社一関博物館、岩手日日新聞社
刊行年平成13)
「赤松と水車小屋」は見学した児童の票が集まった作品。
第6回白日会展「燈台などの静物」「小菅刑務所」
白日賞受賞、白日会会友に推薦される。
「小菅刑務所 熊谷登久平氏 力作である。灰色の中に赤と緑の調和を意識的に纏めてみることに成功してみる。 併し灰色のバックの筆遣い上に、多少の騒がしさを認める事と色彩の質に於て考慮されたい点がある。/富田温一郎」
『熊谷(登久平) ハ白日賞ヲ受ケマシタ。白日会へコノ間一寸行キマシタ。 富田(温一郎)氏が居マ
シテ白日評ヲ書イタカラトテ美術館食堂ニテ、ソーセージヤ酒、ビフテキ等ノ御馳走ヲシテクレマシタ。十日ブリニテ人ラシイ食事ニアリつけた次第デアリマス。(昭和4年2月16日 矢野文夫宛書簡より抜粋)』
この年、村上鉄太郎も白日賞を受賞。
二科展入選により、父による勘当を解かれ仕送りの再開。初回送金は200円。この頃の大卒(超エリート)の初任給が50円。
内縁の妻は新聞雑誌などの関係記事のスクラップを始める、スクラップは彼女の晩年まで続く。
アトリエのある谷中初音町の貸家に転居する。新聞に父親が大きな援助を始めたことへの皮肉記事が載る。
登久平を支えた妻の名が違うが、写真は衣子である。
↑富田里要に師事とあるが、富永勝重
昭和5年(1930) 29歳
岩手県出身の画家の会、北斗会の会員となる。
上野松坂屋の北斗会展覧会に出品。
第5回1930年協会展に出品。「気仙沼風景」「千厩風景」
第17回二科展に出品。「海」「落日/岩手県立美術蔵」
(『海』と思われる作品。所蔵、撮影、リアス・アーク美術館)
第7回白日会展「冬の気仙沼湾/リアス・アーク美術館蔵」「風景A」「風景B」「風景C」「裸女」
この年の7月、旧制一関中学の美術部仲間と一関で展覧会を開く。
『また、郷里一関でも、昭和五年、一関中学校出身の美術家が、郷里に残っている者も上京中の者もふくめいっしょに集まって「オンバコ社」という結社をつくり、この年の七月、一関町の中心街に新築された白い時計台の名物建物・千田ビルで「第一回美術展」が開かれた。
これには、もちろん隆一も加わり、北斗会の会員の熊谷登久平、安倍郁二のほか、同級生の親友の佐々木祝寿、横地省三、先輩の安倍貞世ら、計十人が出品している。このとき隆一は油彩の風景画二点を出品、横地は二点、佐々木も二点、安倍郁二は八点、貞世は十六点、熊谷は十点出品した。』美は脊椎にあり : 画家白石隆一の生涯 本の森 (1997/11/23)小池 平和著より。』
↑↓大正末期熊谷徳兵衛(登久平)は日本橋の浜町のモスリン問屋を経営していた橋爪利兵衛宅に下宿しお世話になっていた。
二科に連続入選をして画家として自信がついた登久平はお礼として絵を贈った。
昭和6年(1931) 30歳
第8回白日会展「軽業の娘」「岬」「手風琴を持ち」「木立と畑」
↑1月の白日展での集合写真。こちらは村上鉄太郎所蔵のもので年月が書いてある。(ありがたや)
里見勝蔵、林武等が創立した洋画団体「独立美術協会」の第1回展に「聖堂附近/青梅市立美術館蔵」「噴水のある風景」を出品。同展には、亡くなる前年の昭和42年の第35回展まで連続して出品。
朝日新聞推薦展「曲馬」「教会」
昭和6年5月?日〜12日まで、岩手県出身の画家たちの会、北斗会の盛岡展に裸女を出品
会場は図書館
↓資料提供 岩手県立美術館より
初等図画練習法を出す。詳細不明。
日曜洋画研究所を創設
昭和7年(1932)31歳
白日会会員となる。
第9回白日会展「林檎を持つ少女」「蜀黍と楽器」「麓村」「農家と黍畑」「水車場」「サイフォンのある静物」「山麓」「青磁器の花」「桑折の駅」
第2回独立展「風景」「夏山」「秋」「静物」
朝鮮総統府推薦展出品「曲馬」「落日」「港」「桑折駅」「ばら」
千葉美術会顧問になる。野田キッコーマン醤油会社後援にて開催出品「青い林檎」「遠山」「ばら」「少女像」(我が家にはキッコーマンの工場に泊まり込んで描いた作品があると伝わるも詳細不明)
↑野田にて。
白日会小品展
12月12日から3日間
まひる同人展 銀座甚兵衛商店ギャラリー
昭和7年6月15日から17日までの3日間、気仙沼の元丸井百貨店にて洋画個人展覧会を開催。
大気新聞社後援。
昭和8年(1933)32歳
第10回白日会展「溪流」「三人」「森」「朝海(勅題)」
独立展「書架と雉子」「月夜」「風景」「鳥離室」この第3回独立展で海南賞を受賞。
6月 独立17人展 神田東京堂
↓「鳥離室」
10月、「第2回アリコ・ルージュ洋画展」(10.20-24 横須賀さいか屋)に長谷川利行と出品
昭和9年(1934)33歳
第11回白日会展「野鴨」「菊」「雉子と卵」「冬」「砲兵軍曹(モデルは弟の熊谷広介か?)」
第4回独立展「風景(岬)」「菜園」「風景(春)」「山百合と娘」
↓参考まで
11月2日から15日
この年、11月29日に登久平は熱海から里見勝蔵に絵葉書を出している。
そして、この葉書の記念スタンプと同じような構図を描いた熱海が二点残っており、サインがない方が『熊谷登久平 畫と文』に掲載されている。
サインがあるものは修作でサインは実は次男の熊谷寿郎が頼まれて入れたもの。
また、この葉書は里見勝蔵と親交があった水上文政氏が勝蔵の遺品整理時に遺族から譲り受けたもの。そのご遺族から私(熊谷明子)が購入した。私が持っている1930年協会関係資料他、里見勝蔵の旧蔵品は水上文政氏のご遺族から譲り受けたもの。
昭和9年11月29日熱海-箱根自動車道路」の記念スタンプが残る里見勝蔵宛て富士山の絵葉書。
『十国峠にやって来ました。重ねはいりません峠の上の工夫次第です。朝な夕な姿を変へる富士は伊達者です。熱海と箱根の中頃です。都を離れての山の日も中々味があります。奥様●●様によろしく。御健康を祈ります。』
日本初の有料道路、熱海-箱根自動車道路は昭和7年に開通。
『富岳
富士山は葛飾北斉に描かれ、近くは林武によって有名だ。戦前のことだが、熱海、十国峠の東豆鉄道の専用道路の番小屋に、寝泊りして、十二月一日から三十日まで、まる一ヶ月富士に挑んだ。朝四時半、朝日をうける富士、寸時もたたないうちに何度も色をかへる。
そのたびに画布をかへる。もう八時すぎたら夕方まで富士は光輝を発揮しない。
野風呂に入つてゐると、星空の下にくつきりと富士の姿がたつてゐる。
何枚も描いたが、女のような富士山だった。
三十日目、私は真赤に富士を塗つてゐた。この富士を仙台の三越の個展にならべたら、旧第二高
等学校の国漢の教授の粟津先生が、おいでになられ、「熊谷さんあんた富士の剛さを描きましたね」と大変ほめられたことがあった。
三十日目、真赤に富士を塗ったとき、私の心をすぎた満足感、これは粟津先生が話されたこと同じだと思ふのだった。1968年、社会保険1月号表紙のことばより』
昭和10年(1935)34歳
第5回独立展で、2度目の海南賞を受賞。
「画壇青春群像 竹田道太郎 著 雪華社 出版年月日1960」にはこの頃の登久平の様子が書かれている。
第12回白日会「舞妓」「横たわる裸女」「紫陽花」「Mousieur Shesakoff」「ざくろ/ヤフオクに出品されていた。額縁は大地堂」
第5回独立美術展「夕月」「五月織」「朝顔」
『児島善太郎 残念ながらブルジョア的要素を洗ひ切ることができてゐない。 進歩性が少ないといふことは、絵を見るよりも、その絵を収めてゐるガクブチを見ればそれを雄弁に語つてゐる。
熊谷登久平 「夕月」「五月幟」「朝顔」その出品画や画題を見ても判るとほりすこぶる 日本的な
作家である。会でこの作家に「海南賞」を出した気持が判らぬが、賞は秀作に出すものだから、きつと秀れた作品といふのだらう。(小熊秀雄全集-19 洋画壇時評 独立展を評す 第六室)』
https://www.aozora.gr.jp/cards/000124/files/2421_21876.html
東京府美術館開館十周年記念展に↓「月夜」昭和8年独立美術出品を選ぶ。(美術界のメンバーが自薦の代表作品を出品した展覧会)
やすだ書店さんのTwitterの呟きで桃が見れた。
https://twitter.com/yasudashoten/status/1625320753590837250?s=46&t=0wiI7QdT8_kGKjwfypwC5w
同書購入す。
昭和11年(1936)35歳
独立美術協会会友となる。
母校中央大学の卒業生名簿の熊谷徳兵衛に洋画家の肩書きがつく。前年まで空欄。
盛岡市で個展を開催。
https://www.ima.or.jp/collection/search-shiryo/
(多分盛岡の人達は私の絵に対し不思議を持つでしょう。しかし親切に見て下さるならば、それはかつて見たことのない新たな感覚であることに気づいてくれると思います。私は自然のもつ形を如何に画布の中にあてはめるかということを心配します。一本の線のつくる画布の左右、上下、その区画にさえ美しい調和がなければなりません。色彩の上では私は私の感情をもって一番美しいと思う色をつけます。(熊谷登久平「出品画について」『岩手日報』昭和11年10月16日より抜粋))
第13回白日会展「薔薇」「娘」「花束を持つ少女」「霧の朝(岩手県立美術館蔵)「舞妓」「カナリヤ」
↓こまどり
金糸雀↓
↓カナリヤ
「第四室では熊谷登久平氏の六の作品、従前の太いウルトラの線を止めて、今度はボリウムで行かうとしてゐる。 素朴な野性的な詩人的興味をみるべく、今度の出品では「カナリヤ」を採る。」
第6回独立美術展「七夕」「風景」「雲雀」
「岩手の山中を知っていますか。
洒落や流行をやれつたって、それは、私にはでき
ない芸当です。
三十年のあいだ、酒だ、女だ、としたしんできました、いっこうに、その味がわかりません。
絵筆をとつて十五年もなるが一まいの絵にさへ安心したことがないのです。
都合の生活につかれたり、あくどい成人生活に
嘔吐をもよおしたくなると坊主にでもなりたくなるが、坊主もあやしいものだと思うとあくびが出ます。
私の知っている範囲では私が無心に恋をしたり、泣いたりした過ぎ去った御伽噺のくにのやうな懐かしいこどものときです。 去年もおとしもかきましたが今年も芸のない私は、郷里の祭、七夕、麦畑の雲雀、田舎の唄もうたわれて、島の娘がうたっているだろうところの岩手の風景などかき、出品してお祭りは落選しました。
私は私の仕事についてはおぼれるほどの愛情をも
ていちばん美しいと思ふ心の感情を描き、新しい
仕事を発見するまで私をみつめて、 たづねてゆきます。私の田舎には(石川)啄木や宮澤(賢治)や萬(鐵五郎)さんのいるだけで誇りです。」
「美術 11(6)(32)/美術發行所/出版年月日 1936-06」
「私の出品作・独立展の項の熊谷登久平執筆部分抜粋。(現代仮名遣いにある程度直しました。熊谷明子)」
福島「独立四人展」協力出展
詳細は不明だが谷中初音町に日曜洋画研究所を開き、初期の弟子は白日に途中から独立へも出展を薦める。
昭和12年(1937)36歳
第14回白日会「冬の日」「裸女と薔薇」「港」「手風琴を持つ男」「Alabesgue」
美術 12(3) 美術發行所
出版年月日1937-03 に掲載された野口良一呂による評。
『熊谷登久平氏、「手風琴を持つ男」其他君のセンチメンタルな面がのぞいて皆それぞれに美しい、甘い色彩のハーモニー、人は見掛けに依らぬものだ。』
第7回独立美術会「ballet Carnaval」「春の朝」
「港」
「熊谷登久平氏の「カルナヴァル」、畫枠が問題だが、作者の悪いフオーヴを捨てかかつてるのがいい。」
昭和13年(1938)37歳
第15回白日会「裸女と果実」「桐の実」「内裏雛」「小野寺総監像」「雪山」「おしどり」
↓「おしどり」と思われる作品。山形新聞の服部社長のコレクションに含まれており、2022年12月からの山形美術館「服部コレクション」にて展示されていた。撮影ブログ掲載許可有り。
『第15回白日展 鈴木武久
熊谷登久平氏の作は場中優れたものとして印
象づけられた。この作家にこれだけの味を持
つてゐたとは知らなかつた、幾分デコラチー
フな些末さは畫面を雑多な感情で分列させて
行く嫌ひがないでもないが、勇敢な直視力に
は惹きつけられる。(美術 13(3) 出版者/美術發行所/出版年月日1938-03)』
第8回独立美術展「パラシュート」「古都噴水」「美しき海」
6月24日〜26日
山形新聞後援、熊谷登久平畫伯渡欧記念展
10月8日-10日『清水錬徳欧洲旅行作品展』銀座資生堂にて鑑賞。ヤフオクにてこの芳名帳の署名に気付き明子が落札。崩し字見慣れていてよかった。
昭和14年(1939)38歳
第16回白日会「十字章のひと」「鷺」「鳩」「桐の花」「夏に鍛える」
第9回独立美術展「冬」「兵と鳩」「?と花」
兵と鳩
昭和15年(1940)39歳
10月12日長谷川利行没
紀元二千六百年奉祝美術展「冷泉流観月歌會」
第17回白日会「青いリボン」「日傘」「朝の螢」「あさがお」
↓朝の蛍
参考として「キリの花」
↓日傘?
第10回 独立美術展 「月の量」「旅愁」「砂」
『みづゑ 第426号 昭和15年5月発行
p621〜p623より抜粋
ロベール・ギラン 第十回独立美術展覧会評
第十三室……
……又小川マリ子も大陸を材料にとり、女性らしく美しい感愛を力強く創造した。最後の室に近くなつても、吾々は決して、急いではならない。
その第十四室に於て、私はこの會に於て、めづらしい快さと驚ろき満ちた歌を聞いた事である。それは熊谷登久平の、半音楽的な佳作の論文である。彼は單に、畫家としてでばかりでなく、同時に詩人であるとも言へる。畫面から音律を聞く事が出來る。「月の暈」より受けるローマンチズム「砂」より受ける不思さ、「旅愁」より受ける悲歌など、彼の作品の原始的な、又新らしい感覚が、生み出す或種の感情は、彼の作品がこの展覧會の一方向を示して居る様にも思へる。赤色の光線と、肉感的な「月の暈」や「旅愁」は神秘な、同一の告白をして居る様である。彼はこの近代二十世紀の、むつかしさと、現代の騒々しさに拘泥せず、感傷的な詩人であり、又彼自らが、さうである事を臆面もなく発揮して居る事である。(終)』
「月の量」は新宿区の厚生年金会館に長らく展示されていたが解体後厚生労働省に問い合わせるも行方不明。
「月の暈」だが、16年に出版された『熊谷登久平 繪と文』に収録されている「月の暈」には裸婦の姿がない。これは青梅美術館に収蔵されており、館の資料では第10回独立展出品作となっている。
昭和16年(1941)40歳
独立美術協会会員となる。
画文集「熊谷登久平画集 絵と文」を出版。
第18回白日会展「戦いの春(弓鳩)」
第11回独立美術展「太鼓」「笛」
第5回大日本海洋美術展 朝日新聞社 招待出展「海に生く」(現在/青梅美術館蔵)
時局を見て登久平は国策会社東京航空計器の嘱託社員となる。
指図される戦争画を描きたくなかったからと伝わる。
気仙沼出身の画家、佐藤龍雄遺作集 『佐藤竜雄作品集』を編纂 弔文を寄稿
『佐藤龍雄君の藝術
獨立美術協会会員 熊谷登久平
佐藤君は宮城県気仙沼に生れました。
宮城師範學校なでるとまもなく三陸沿岸の海と岩との風景に、心うたれて彼の多感な人生を絵画のみちにもとめて居つたのでした。
そして間もなく、上野美術館に開催せられる白日会展覽會に入選し、翌年は白日会賞を授賞せられて一躍 同輩を凌いで、画壇の寵児となりました。
彼はその頃より深く人生と、藝術に就ての煩図をふかめて、そして東北の僻地での勉風をたって、一層画業の勉学に適する中央画壇に接觸する横浜に居をかまへ、平沼小学校に教鞭をとつて、彼の第二期の精進がみるも痛ましいままでつけられたのでした。
学校にあつては、初等科兒童の絵の指導にあたり、家にあっては若葉兒童画会を開設して、家庭に帰った兒童の情操教育についての絵の指導に専念して数百の児童を教えておりました。
日曜日の朝多くの子供にとりまかれて、野毛山、小湊と多摩川に寫生にゆく佐藤君は実に北欧の教育者アンダルゼンの如く美しいものでありました。
横濱に於ける努力がむくいられて白日会とは無審査友に推され、獨立美術協会展覧会には入選を重ね、横浜白虹舎には同人に推されて、彼の絵技はいよいよ光揮をましてきたのでした。
そして昨年の満蒙の旅を君はむかったのです。 朝鮮、新京、ハルピン、ソ満国境、彼は今日あることを知つてゐたごとく腕も、身も、骨もわれる程描きまくつて帰京したのです。
そして三十三年の彼の生涯をたってしまいました、三人の可愛い子供と、生涯をぶっこんだ多くの絵を残しただけで。
彼の絵技は若かったかも知れない。しかし彼の絵は人が五十歳をしても、まだなし得ない一つの悟人の境があると、私はいふのです。』
(佐藤龍雄画伯の作品『鮪立風景』は気仙沼図書館に長く展示されていたが、東日本大震災後リアス・アーク美術館に移管)
昭和17年(1942)41歳
第12回独立美術展「弓」「母子」「鳩」
↓旧制一関中学同級生の矢野文夫による弓の評
独立美術夏期講習講師 大阪 仙台会場
昭和18年(1943)42歳
第13回独立美術展「夕雲」「早雲」「白雲」「茜雲」「ちぎれ雲」
この年、9月4日 - かつて登久平と利行たちがスケッチに通った東京・上野動物園で空襲に備えて処分された動物たちの慰霊祭が開催された。
文展無鑑査に
青樹社展に白日会の仲間たちと出品(宮崎精一図録より)
友人の宮崎精一夫妻に谷中初音町の借家を紹介する。(熊本美術館で1988年に開催された宮崎精一展の図録より。)
『1943 (昭和18年)31歳
(宮崎精一は)図画教師をやめ、 上京。
荒川区尾久町の畳屋の二階を間借して制作に没頭する。
近くに軍の戦車工場があり、道路をタンクが通るたびに、四畳半二間がゆれて、 キャンバスがぐらつく。
熊谷登久平の紹介で、 谷中初音町に転居。 墓地の近くにあって静かな環境であった。
近くに島村三七雄、鶴岡政男、 堀進二、 熊谷登久平がいた。
熊谷宅には、時おり里見勝蔵が訪れ、 里見よりヴラマンクについて話を聞く。
青樹社展に出品 (白日会関係作家は、中沢弘光、 伊藤清永、 島村三七雄、熊谷登久平、 小島真佐吉、 川村精一郎、山道栄助、 梅津泰助、 平松譲、大河内信秀、吉川弘、 宮崎精一)』
(2023年6月1日、宮崎精一の正確な住所判明 谷中初音町2-3)
「戦場スパイの手記 ニコラス・スノーデン 著 /工人社」装丁
11月19日〜24日 独立美術協会会員秋季油絵展 阪急百貨店
昭和19年(1944) 43歳。
このころ、東京航空計器の正規社員となる。
会社の用務で山形新聞服部敬雄専務(翌年12月社長就任)と交わる。山形新聞社とはこれ以前から付き合いがある。
この時代、美術展にも陸軍からの干渉があり、それは検閲であった。登久平はテーマに悩み神社を描いた。
この時代、配給品となった絵の具、国策的に茶色が推奨される。
『S
第十四回獨立美術協会展 二月二十三日 三月十五日 都美術館
東朝 材の質的低下が著しく目についく。料の発色の悪さが、会場をどんよりした空気で包んでいる。
画面の汚れてゆくのは作家の罪ではないかも知れないが、こういう時代には、新しい構想や主題でこの困難を他へ換すべきだろう。
少くとも今日は、綺麗な画面の装飾的効果等を気にして筆をとる時ではない。もと大胆に主題と取組む必要がある。
農村や漁村の生活を扱ったものに佳作がある。 秋の収穫期を描いた斎藤長三、富寅の雪國の人々、居串佳一の北海漁などは量質ともに優良の方で、沈滞した会場は、これら三人の活動で分か絞ったようにみえる。
その他は熊谷登久平の香取、鹿島、
宮崎精一の霧島山など神域を題材としたものや、山道栄助の早朝鍛錬がやや見るべきであり、主題面ではないが菅野圭介の山村冬日、長島常吉の雪の山村など目立つ部類である。
上層部の会員はして不活である。完島善三郎の三点中では池畔風景が注目されるだけであり、須田國太郎の石組習作も格別のことはない。鈴木保徳の海景や野口太郎の小品も色感の良さはあるが、これる上乗の作とはいえない。
この親の会員では中山親の小品三点と、清水登之の二点が秀作で、それらはいずれも南方を主題としたもの、技術もかなりしつかりしている。』
昭和20年(1945)44歳
昭和19年から(戦争画家逃れの為に正社員となった)国策会社東京航空計器の疎開工場用地選定のために山形県と東京を行き来する。
3月4日の谷中空襲を経験し隣町の谷中眞島町の惨劇を見る。爆風で飛んできた地蔵と石が屋敷の壁に穴を開けた。
衣子はアトリエを守ると言い、使用人と共に谷中に残る。
登久平は長谷川利行の形見などを持って温泉宿に居住か?。
この時期は蔵王の「新雪」など、蔵王を描いたものが2点確認できる。
↓蔵王
山形には戦前から絵の指導に訪れており、戦前に個展を山形新聞後援で開催していた。
↓山形での参考写真。詳細不明。登久平左端、右端が山形新聞の服部敬雄。登久平以外は国民服か?脚絆の人物もいるので戦時中の撮影と思われる。
疎開中も山形の洋画家達と親交を深める。後々まで、影響を与える。
山形美術展の審査員ともなる。
終戦後の記事に谷中の家は無事、東京航空計器に残留を望まれたことなどを書く。
国策会社で日本軍の航空機の部品を製作していた東京航空計器には進駐軍の調査が入り、役員たちは戦犯容疑で連れていかれ、東京航空計器は存続危機に陥っていた。
残された登久平たちは社内技術で作れるものを模索して映写機のニュースターを発案開発。
完成後、登久平は東北各地に自ら営業をかけたという。そのうち一台が千厩に残る。
昭和21年(1946)45歳
独立美術展
昭和22年(1947)46歳
「十字架のある風景」「修道女」
山形で大正12年浅草生まれ、登久平より22歳下の房江と出会う。元舞台女優の房江は北京からの引き揚げ者。
山形新聞社長にみそめられ山形で生活をしていた。登久平は房江を口説く。
何回も口説く。
東京に持ち帰る。
谷中の家には複数の女性が暮らしていた。
秋田出身の女性は池袋モンパルナスの夫の暴力から逃げてきていたとの伝承もある。本名を使わず「雪女」と名乗っていたとか。
昭和23年(1948)「聖書頌歌」
上野の山在住の画家の会カルチェ・バル(谷中会)の上野松坂屋の展覧会に参加。
↓カルチェ・バルの懇親会。上野桜木の佛雲堂2階にて。(我が家のアルバムより、撮影者不明)
参加資料
「昭和の若き芸術家たち―続金四郎三代記〈戦後篇〉浅尾丁策著 芸術新聞社 (1996/10/1)」(子息の浅尾空人さんに書面と写真使用許可を得ています。)
昭和24年(1949)「朝の港」「裸婦」
↓いのは画廊さんのサイトにある「朝の港」
http://www.inohag.com/newpage153.html
昭和25年(1950)
月の暈を使う。
著者の希望によると伝わる。
1950年第4回美術団体連合展(一水会 二科会 独立美術協会 旺玄会 第二紀会 創元会 行動美術協会 光風会 国画会 自由美術家協会 春陽会 新制作派)
「女役者」(房江か?)
(毎日主催の第四回美術団体連合展が一四日より開かれた。両陛下が一五日にはおそろいで御覧になつた。/文化財研究所のサイトより)
昭和26年(1951)「裸婦(服部コレクション)」
この頃、山形の医師小林傳一郎さんの病院に長期入院か?
弟子たちも小林先生に接待されていたようだ。
昭和27年(1952) 51歳
↓「寿美子の乳房」
「うすれ日」
この年、友人の宮崎精一の甥たち厚生省の絵画愛好者と付合いを始める。
厚生省の洋画愛好会「バリベア会」発足。
以後、没する前年まで登久平は同会の指導をする。(没後の指導者は登久平の友人で同じ独立美術協会の松島正幸。物心ついた頃から登久平が絵筆を持たせて指導していた次男の寿郎も松島から指導を受ける)
房江、数度の流産後、長男の久を出産。久出産前に登久平は房江と入籍する。
登久平、戸籍上は初婚であった。
それまで登久平を支えていた11歳上の内縁の妻衣子は心臓発作を起こし東大病院に入院。その後登久平の弟の親友が勤務する日大病院に転院。
それまで登久平を支えてきた衣子を嫁として大切にし、房江に冷たかった登久平の母と父は喜び久に千坪の土地を譲る。
その上登久平の父は久に象を買おうとして皆にとめられる。
多くの親戚が本妻でなくなった衣子に同情した。
登久平にくってかかった甥もいた。
衣子は戦前戦後進学で上京してくる一族の子の世話をし、弁当も作って持していた。
みな登久平の女癖の悪さは知っていた。
戦時中登久平が山形に疎開した後も谷中のアトリエを護っていた衣子を妾に落とすとは誰も思っていなかった。
妻妾同居の家で衣子と房江の立場は逆転するが、衣子は久を可愛がる。
登久平の母は久誕生しばらくして亡くなり、物心ついた久は衣子を父方の祖母と思い込み慕う。
7年後生まれた次男の寿郎も衣子を父方の祖母だと思い込んで育つ。
久は幼い頃、近所の寺の鐘をガンガン鳴らすことを喜び、ちょうちんのあるその寺にガンガン鳴らしに行きたがり、「ちょうちんガンガン」が久が衣子をよぶ言葉となる。
その後、衣子をちょーちんばあちゃんと呼ぶ。
ひどくないか久。
登久平、東京航空計器の副社長(臨)として進駐軍と交渉してきたが、講和条約後、公職追放期間が終わり役員たちが復帰するも残留を求められる。
昭和27年 独立美術20回展《1952》
白日会時代の恩師中沢弘光画伯からお褒めの手紙が届き、登久平は感激し表装し家宝とする。
昭和28年「日本展望 1953年版 日本展望編集委員会 編 毎日新聞社」にてカット。
昭和29年「ふるさと」
昭和30年「白い町」
昭和31年「夏去りし海」
↑「古き灯台」修作
1901生(明治34)数えで58歳。
熊谷登久平《ねこ・じゅうたん・かがみ》油彩キャンバス
「熊谷さんが、新しい表現体を打ち出してから、今年は四年目というものだろうか。その表見体は、格別きびしいものでも、敢えて強いものでもなく、実に素朴なという方が適切だろうし、またそこに、熊谷さんがあるというものだろう。(昭和38年2月1日の月刊美術クラブ)」
昭和34年登久平は次男の寿郎を授かる。57歳の彼は長く共に過ごせないだろうと次男を甘やかす宣言をし、砂糖息子と呼んだ。そして表現が変化した。(熊谷明子/池之端画廊展示キャプション)
この『ねこ・じゅうたん・かがみ』は子どもに受けると言われていた赤色と、ねこを配置した。
登久平は次男に自分が画家であったと覚えていて欲しいと、今まで創作中誰もいれなかったアトリエに寿郎が入ることだけは許した。
そして物心つく前から絵筆を握らせ油彩を教えた。
昭和35年(1960)
まひる野の同人であった登久平の手紙があった。
ひかへめに胸に十字はきりにけり
馬鈴薯の花畑に真白し
熊谷登久平
ひと日こもりて出品作をいそぎたり
雁来紅のうへの白雲
熊谷登久平
いづれ死ぬる吾と思ひつつながめゐ(うぃ)つ
幾千とならぶ春の墓石を
熊谷登久平
この年に描かれた作品を千厩のM先生が購入。
北海道で描かれたものらしい。
昭和36年(1961)
「信濃の春」いのは画廊さんのサイトより。
昭和37年(1962) 61歳 日本橋、三越で個展を開催。三越での個展は、昭和41年迄毎年開催。
写真は第一回熊谷登久平展。
↓撮影者は大気ジャーナル社の佐藤三樹氏。(戦前お世話になった気仙沼の大気新聞の社長の御曹司)
↑佐藤三樹氏の結婚を祝い贈った富士山の色紙。
昭和38年(1963) 62歳
オランダ航空で渡欧。
昭和38年「ナイル河」「サワラ砂漠」
帰国後、千厩町で個展を開催。
厚生省の配布書籍『ねんきん』の表紙の依頼を受けたのはこの頃か?
題字は朝倉文夫。
4月26日から5月1日まで山形新聞・放送・山形美術博物館共催の独立美術選抜展。
山形新聞社と熊谷登久平は戦前から交流があった。
昭和39年(1964年)63歳「NICEの宿」「斗牛士」
週刊誌、週刊現代の「胃袋パトロール」に一週間分の食事が載る。カロリー過多を指摘される。
昭和40年(1965年)64歳
独立十人の会は戦前から続く独立美術協会中堅の会で、田中佐一郎が会長。17人の会の時もあったという。
登久平も創立期から参加し、戦前は資生堂画廊などでも展示会をしていたようだ。
今は名を変えて日本橋高島屋で展覧会をしていると聞く。人はもちろん入れ替わっている。
「ローマの碑」
昭和41年(1966)65歳
「愛も武力も十字架も(殉教)」
衣子死す。
晩年は衣子の33歳下の房江が在宅介護をしていた。
登久平の長男久と次男の寿郎は葬式の時にちょうちんばあちゃんが実の祖母でないと知る。また久と寿郎にそれぞれに少なくない貯金通帳を残していた。
衣子の死を受け入れられない登久平は新興宗教に嵌り広告塔にまでなる。
同時に体調が悪くなっていくが元々病院嫌いだったため新興宗教団体から出される謎の煎じ薬の飲用を続け悪化する。
昭和42年(1967)66歳
「裸女」「木の間」
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