我が家と一関の親戚に残る学芸員がやったのであろう熊谷登久平の調査の痕跡。
書き文字に特徴があり、ほぼ特定しているがコロナ禍でお会いできず相手さんが前年度に定年退職をされたと知り、血の涙を流している。
その方が岩手県出身の洋画家萬鐵五郎の研究をかなりやっておられた痕跡もあるが、今はコロナ禍、専門書が読める場所は閉じているか予約でしかも時間と冊数制限もある。
悲しや。
熊谷登久平は独立美術協会にかなり拘ったようだが、岩手時代に憧れた萬鐵五郎が創立した円鳥会の流れが1930年協会、独立美術協会とあったからではないかしらと。
一昨年、岩手県立美術館で教科書のじゃない萬鐵五郎の生作品を観て「オトーサンの初期作品は萬鐵五郎にもめちゃ影響受けてんじゃん」的な。
夫の話では義父は萬鐵五郎さんに会いに行ったらしい。
熊谷登久平は徳兵衛だった旧制一関中学時代に美術雑誌や美術書を読み漁ったそうだけど、その頃の岩手画壇のスターは萬鐵五郎さんだよねな。
で今は円鳥会の資料も探している。