平成後半や令和になってからの商業出版本の中の熊谷登久平が銀行員の日曜画家や貧乏画学生で終わったように書かれているのは、矢野文夫氏が義父の死後、義父の手記に書き足したのが一人歩きしたからだろうなと推測しているけど、亡くなる直前まで独立美術協会の審査員で、三越の日本橋本店で毎年個展もしていたから熊谷登久平はプロの画家だったと私は思うの。
あとどんなに探しても銀行勤務の痕跡は見つからない。
一関市の元新聞記者が一関市の博物館とかで調べて書いた書籍に銀行云々とか、絵は描いていたようだとかみたいなことが書かれているんだけど、謎。