熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

#長谷川利行と私 #熊谷登久平 スケッチブック資料展開催に向けて

熊谷登久平 長谷川利行と私 


墓と塔のある上野の山のおく、ここは若い長谷川にも私にも巴里の連中のように、モンマルトルであつた。この私達のグループのために、『ル・カポー』といふ酒場が東京のモン・マルトルにつくられた。この酒場が、私達に吞み倒されるまでの一年間ほど私達にとつて幸福なことはかつてなかったであらう。

 

(矢野文夫編纂発行の『夜の歌(長谷川利行とその藝術)』1941年11月15日発行より抜粋)

 

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1935(昭和10)年

34歳の矢野は1月美術・文学・映画の「美術手帳」(美術手帳社)を主宰創刊。銀座6丁目松坂屋隣本木ビル内の空室を利用、二科会の画家の野村夫と二人で経営の「アモレ画廊」を開く。利行はじめ熊谷(登)、寺田政明らの画家、草野心平高橋新吉らの詩人がよく集まった6月開いた「長谷川利行洋画小品展」の会場写真に、利行と矢野、熊谷が一緒に写っている(矢野発行の「美術手帳」10月号)。
10月矢野はボードレール詩集「悪の華」改訂第3版を耕進社から、12月には「ボードレール抒情詩集」を学而書院から、それぞれ刊行。

熊谷は第5回独立展に「夕月」などで海南賞。一関町役場で個展。

 

『鬼才長谷川利行と二人
一熊谷登久平・矢野花士 一関ゆかりの画家 生誕百年-』図録

渋谷誠編 年譜より抜粋

2001年9月22日生11月4日一関市市博物館
■主催 一関市博物館・岩手日日新聞社

 

ル・カポーは矢野文夫が描いた絵地図によると、台東区上野桜木の言問通り沿い、寛永寺側にあった。ル・カポーには里見勝蔵も立ち寄っていたという。

 

上野の山の高台をモンマルトル、太平洋美術会があった辺りをモンパルナスと登久平たちは言っていたようだ。

なお、大田区にも若い画家が集まる地域があり、そこもモンパルナスと言っていたと何かで読んだ。

 

『そして(太平洋美術)研究所で仲間になった井上長三郎、鶴岡政男たちは、このころから盛んに流入されはじめたエコール・ド・パリの作風と、 その自由に生きる芸術家気質に強くひかれてゆく。蓬髪弊衣、 貧乏を苦にしない奔放気ままな生活が、雙光とその仲間たちの日々であった。谷中を中心にくりひろげられたこうした青春の昂揚を、 のちに井上長三郎は、日本のモンパルナスと名づけている。

「近代洋画の青春像 12人の画家の生涯と芸術」197頁
原田実 昭和43年3月10日 東京芸術』

 

『「リリオム」という喫茶店は谷中の三崎坂を下ったあたりにあって 小説家や画家がよく集っていた。
そこで室生犀星に会ったと目を輝かせて、《谷中はまるでフランス のモンパルナスのようだった》と話している。リリオムが北川実に 代変わりして長谷川利行が主催で仲間のグループ展もあった。


「画家鶴岡政男の生涯 ボタン落し」24頁
鶴岡美直子 美術出版社 2001年6月1日』

リリオムは現在大島屋があるところにあったという。

だとすれば台東区谷中になるが、資料によっては文京区の団子坂と書かれている。

 

長谷川利行
はせがわとしゆき
(1891―1940)

洋画家。明治24年7月9日京都山科(やましな)に生まれる。 和歌山県の耐久(たいきゅう)中学校時代から詩、小説、 短歌をつくり、同校を中退ののち、歌集『木葦(もくい)集』 を京都で自費出版する。1921年(大正10) 上京して大衆小説を書きながら画作し、23年関東大震災にあい、 歌誌『火岸』を出版、同年の第1回新光洋画展に『田端(たばた) 変電所』が入選する。京都で画業に励み、 26年再度上京して帝展、二科展に出品。翌年の二科展で『 麦酒室(ビールしつ)』ほかにより樗牛(ちょぎゅう)賞を受け、 以後毎年出品する。28年(昭和3)一九三〇年協会展に『 地下鉄道』ほかを出品、協会賞を受ける。32年ごろから浅草、 三河島荒川放水路あたりを放浪。 昭和10年代初めは新宿の天城(あまぎ) 画廊で数多く個展を開く。37年夏、矢野文夫と大島に遊び、 二科展を去り、第1回一水会展に『ノア・ノア』ほかを出品。 フォーブ的作風から詩的ビジョンの表現へと進んだが、 昭和15年10月12日、 東京市養育院板橋本院で窮民として胃癌(いがん)で死去した。

[小倉忠夫]

長谷川利行画集刊行会編・刊『長谷川利行画集』(1963)』 ▽『矢野文夫編『長谷川利行全文集』(1981・五月書房)』▽ 『矢野文夫著『長谷川利行』(1974・美術出版社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

 

 熊谷登久平は、明治34年(1901)10月2日、 岩手県東盤井郡に生まれ、大正14年中央大学商学部を卒業、 学生時代に川端画学校に入り、大正13年修了、昭和元年、 白日会展に入選、このころ長谷川利行を識り、親交を結ぶ。 昭和2年、白日会会員に推されたが、昭和4年には「気仙沼風景」 「赤松と水車小車」を二科展に出品入選、翌5年には「海」「 落日」を出品した。昭和6年、独立美術展第1回展に入選、 その後、毎回出品して、昭和8、 10年の出品作で海南賞を受賞し、 昭和11年独立美術協会会友に推薦され、同16年会員となった。 昭和37年以後、41年まで毎年、 東京日本橋三越で個展を開催し、 同38年にはヨーロッパに旅行した。また、著書に「 初等図画練習帳」(5巻)、「熊谷登久平画集(絵と文)」( 昭和16年、美術巧芸社)などがある。
出 典:『日本美術年鑑』昭和44年版(69-70頁)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「熊谷登久平」『日本美術年鑑』昭和44年版(69- 70頁)
例)「熊谷登久平 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所https: //www.tobunken.go.jp/ materials/bukko/9199.html(閲覧日 2022-01-11)

 

長谷川利行のおすすめの文字資料。

尾崎 眞人著
『読んで視る長谷川利行 視覚都市・東京の色―池袋モンパルナス そぞろ歩き (池袋モンパルナス叢書)』

資料として持ち歩くと取材相手さんが欲しがられることがあり、私は第2版を3回購入しています。

初版から2版まで間があり、その間品薄で一時期プレミアム価格でした。

長谷川利行と交流があった人名や場所、矢野文夫氏が長谷川利行全集に収録する時に添削した利行の詩の原文も一部読めます。

 

https://amzn.to/3nglIRM

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