熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

熊谷登久平 概略 メモ

これは独立美術協会物故会員の洋画家熊谷登久平関係者向け用の報 告メモでもあります。

オーラルヒストリーの裏付けになれば良いと、 熊谷明子の個人の感想も含め、気が向いたら更新しています。

登久平と、生家の日野屋、義母と義兄、お弟子さん、 甥の英三さんを中心とした千厩のメンバーが残してくれた資料、 その断片、一関の平澤家の資料、それと古書や上野の山にある文化 財研究所や国会図書館などで見つけたものを元に、 見つけ次第年度に書き込んでいるため、 年度内の順は適当になっており、スマホ画面で入れ替えるのは面倒 なのでそのままです。

何月何日の展覧会かは検索したら出てくる場合もありますが、 ごめんなさい。

私のパソコンは10年前のものなので、Windows社のサポー ト外落ち。

 

熊谷登久平の次男である熊谷寿郎(私の配偶者)は登久平の著作権 を持ってない、他者が持っているとの御指摘がございましたが、 寿郎が法に基づき相続し著作権を持っております。

熊谷美術館を管理運営している本家がスムーズに動けるように大き く主張をしておりませんが、著作権法では寿郎が相続人です。( なんでこんなこと書かなければいけないんだろう)

 

 

 

熊谷登久平はハイアート(high art) 純粋美術の画家ではない、「下手だ」「引き立て役」「 戦前からの独立美術協会会員だったのに独立賞をとってない。 有力会員でなかった」「格が低い」 などとアカデミアな方に複数回言われましたが、 美学とか学術的とか美學閥などを私は理解してないので「 熊谷登久平は戦前から洋画家名簿に名があり、 今も美術年鑑に掲載されてるから画家です」 と言わせて頂いております。

(正直言ってムカつく)

 

随時、加筆訂正更新してます。

長いと苦情が複数から来ましたが、私的なメモでございます。

また参考にできる方との情報共有的なものとしても作成してます。

関係ない広告が出るのは好ましくないので出ないように登久平の次 男の寿郎がハテナに使用料を払って運営しております。 私たちに何かあったら広告が出ますことご理解ください。

私たちが死んでもハテナがある間はこの記録は残せるかな的な。

 

 

 


明治34年(1901年)
10月2日、岩手県東磐井郡千厩町に、熊谷喜造(二代目半兵衛) とまつみの長男として生まれる。
本名、徳兵衛。

 

 

大正8年(1919) 18歳

旧制一関中学を卒業 

美術部所属

中学時代の作品「潮来の村」

 

祖父母の肖像画

 

 

大正10年(1921) 20歳
この頃上京し、中央大学商学部に学ぶ。

 


また、川端絵画学校にも入り、本格的に絵画を学び始める。 川端画学校では海老原喜之助、 橋本八百二らと交流し渡仏前の海老原から自画像を貰う( 桑原住雄/日本の肖像画/南北社 /1966/1/1)。

 

中央大学では応援団に入り、絵画倶楽部パレットを創立。柔道二段 でもあり、 慶応大学応援団との乱闘で勝つなどの武勇伝が新聞記事に残る。

上京早々に片瀬写真館を経営する熊谷伊助の直系の熊谷治純や横浜 のマツヤカンパニーを訪ねる。

この2年後、熊谷治純は関東大震災で被災した屋根の上の岸田劉生 一家を撮影している。(近所住まいだった)

 

↑右、熊谷治純 真ん中、登久平(徳兵衛)江ノ島にて。

 

この時、憧れていた岩手県出身の洋画家萬鐵五郎宅を訪ねたとかも 我が家には伝わる。
萬鐵五郎は1930年協会創立メンバーが属していた円鳥会の創立 者でもあるうろ覚え。熊谷登久平が1930年協会に絵を出し、 白日会で会員になっているのに1930年協会のメンバーが創立し た独立美術協会の会員になることに固執したのもなんかわかるよう な、証拠もないのに無責任ですけど。

(円鳥会の成立と消滅―萬鐡五郎を中心として  佐々木一成(岩手県立美術館))

まあ、伝承だと家に岡本太朗がきた。川端康成もきてた。島崎藤村 の家と付き合いがあった。サトウハチローと付き合いがあった。棟 方志功と付き合いがあったとか。

残念ながら伝承としか言いようがない。


(藤村は息子さん二人が同時期に川端画学校、サトウハチローも同 時期に川端画学校で学んでいたとかで接点はあるけどね)

 

大正12年(1924)22歳 

関東大震災にて家財が焼失するも大切に保管していた海老原喜之助 の自画像は焼け残る。

(「日本の自画像/桑原住雄著/ 南北社1966年5月30日発行」)
渡仏前、海老原は登久平に「もっと絵を描け」と、 まとまった数の作品を渡しその中に自画像があった。
その絵を潰すのは惜しいと登久平は大事にしまっておいたが、関東 大震災に遭い家は全焼する。
が、海老原喜之助の自画像は無事で、 その後帰国した海老原にその話をすると喜んで裏にサインをした的 な。 昭和40年代までその絵は我が家にあったが葬儀後の混乱期に失わ れたそうだ。

 

(川端画学校に岩手県出身の橋本八百二もいた。
橋本八百二にも渡仏前に海老原は絵を渡し、 その中にも自画像があり、 今海老原の自画像として有名なのは橋本八百二が持っていたもの)

 

 

小石川の川端画学校は無事?
神田錦町中央大学は図書館は無事?

 

 

大正13年(1924) 23歳

このころ川端絵画学校修了か?

このころ岩手県千厩の豪商日野屋の父に大学を卒業しても家業を継 がず画家になると宣言し仕送りを断たれる。
でも11歳上の美しい女性(本名/横江政恵、名乗りは熊谷衣子) と歳下の叔父で中央大学生(彼も後に勘当される) に援助を受け絵も大学も続ける。

 

大正14年(1925) 24歳

中央大学商学部卒業。(中央大学にて熊谷徳兵衛卒業を確認済)

↓参考資料として中央大学学員名簿を添付

 

洋画の画材は金がかかる。

このころ画材のために慣れない労働をしていたためか倒れる。 それを知った母の実家や親戚が一斉に送金を始めるも、 父親が送っていた仕送り額には満たない。

援助をくれた家には後に絵を贈ったらしい。

 

結核を発病。

北里病院(?)を経て(熱海の噏滊館/きゅうきかん) で静養をする(弟の広介の手記より)。



 


大正15年(1926)25歳

この年、熱海の噏滊館(きゅうきかん) での静養が終わったと思われる。 倒れてからずっと献身的に熱海まで付き添った衣子と一緒に帰京。 (登久平の従弟談)

中央区浜町から文京区根津に転居/「長谷川利行と私・ 熊谷登久平」『新世界美術』 一九六一年十一月号、六二年三月号版

(大正時代、日本橋浜町?のモスリン問屋の橋爪利兵衛夫妻に世話 になっていたとの情報がそこのひ孫さんから入った。 登久平が送った葉書の添付あり)

 

衣子、登久平の母親公認の内縁の妻となる。(数年前、 平成2年まで登久平の生家方の親戚は入籍をしていたと思い込んで いた)

 

 

藤の花の咲く頃、一関中学時代の同級生矢野文夫(詩人・日本画家 )の紹介で、根津にて洋画家・長谷川利行を知り、親交を結ぶ。

 

 


繰り返すが洋画を描くには金がかかり、 親戚からの援助では足らず、女学校出の内縁の妻はカフェで働く。
(これを矢野文夫がカフェの女給と登久平の手記「長谷川利行と私 」引用の際に(登久平の死後)加筆し、 それが今もひとり歩きしている。

そのため彼女を下品な風俗嬢的な書き方をする長谷川利行関連本も あり私は怒っている。)

(衣子は女学校出で教養があり、上方言葉を話し英語、 仏語ができる才媛だったので、後に藤田嗣治がプロデュースをした 銀座のカフェ『サロン春』に引き抜かれマネージャーになった)( 浅尾丁策著/昭和の若き芸術家たち―続金四郎三代記〈戦後篇〉 芸術新聞社 (1996/10/1)には、 サロン春のマネージャーという記載あり。)

登久平の次男の寿郎は彼女はチャップリンに会ったことがあると聞 いていたが、サロン春時代のことかもしれない。
彼女は後に府立美術館で働いていたとの話もある。( 登久平の従弟談)




昭和2年(1927) 26歳
白日会で「廃屋」「冬日風景」の二作品が入選し、昭和3年( 1928年)新春の第五回白日会展に展示される。

 

 

 


長谷川利行と二人展を上野の山、言問通り沿いの額縁屋彩美堂と大 地堂(木秋社)を会場として開催。(企画段階では松尾恒夫( 詳細不明、戦前の白日会展と1930年協会入選者に名がある) を含む三人展)

彩美堂のサイトより。https://saibido-art. jimdofree.com/%E5%BD%A9%E7%BE% 8E%E5%A0%82%E3%81%AB%E3%81%A4% E3%81%84%E3%81%A6-%E4%B8%8A% E9%87%8E%E5%BA%97-%E8%B6%B3% E7%AB%8B%E5%96%B6%E6%A5%AD%E6% 89%80-%E5%BA%83%E5%B3%B6%E6% 94%AF%E5%BA%97/


同展、反調和会展を見学に来た洋画家・里見勝蔵( 1930年協会、独立美術協会創立会員、二科会友)、 と前田寛治の知遇を得る。(長谷川利行と私)

大反調和会展に展示されたと思われる作品。
「家」「ニコライ聖堂」「千厩警察署/岩手県立美術蔵蔵」

 

 


ニコライ聖堂
家(廃屋の可能性あり)

千厩警察署

 

この年、招待された里見勝蔵宅にて利行と一升瓶を三本空ける。 次から里見家に行っても酒が出なくなる。(長谷川利行と私)

 

昭和3年(1928) 27歳

熊谷登久平の宝物、長谷川利行スケッチブックはこの年のもの。

 

 

第5回白日会展。「廃屋」「冬日風景」
第3回1930年協会に出展。「冬の風景」「軽業」
白日会には、昭和16年の第18回展まで連続出品。 白日会の仲間と創作と文芸の会「まひる」を結成。

 

白日会の冊子制作にも参加。編集部は浅草の村上鉄太郎宅。 村上は戦後白日会主要メンバーとなる。

この冊子に書いた随筆及び短歌は1944年に発行した画集に収録 。


昭和4年(1929) 28歳

第4回1930年協会展に出品。「居留地風景(横浜)」「冬」
第16回二科展に出品、入選する。「気仙沼風景」「 赤松と水車小屋」

 

『鬼才 長谷川利行と二人 熊谷登久平・矢野茫土 一関ゆかりの画家 生誕百年展 』一関博物館図録より。(一関博物館 岩手日日新聞社 企画・構成 /出版社一関博物館、岩手日日新聞社
刊行年平成13)

 

「赤松と水車小屋」は見学した児童の票が集まった作品。


第6回白日会展「燈台などの静物」「小菅刑務所」

 

白日賞受賞、白日会会友に推薦される。

「小菅刑務所 熊谷登久平氏 力作である。 灰色の中に赤と緑の調和を意識的に纏めてみることに成功してみる 。 併し灰色のバックの筆遣い上に、 多少の騒がしさを認める事と色彩の質に於て考慮されたい点がある 。/富田温一郎」

『熊谷(登久平) ハ白日賞ヲ受ケマシタ。白日会へコノ間一寸行キマシタ。 富田(温一郎)氏が居マ
シテ白日評ヲ書イタカラトテ美術館食堂ニテ、ソーセージヤ酒、ビ フテキ等ノ御馳走ヲシテクレマシタ。 十日ブリニテ人ラシイ食事ニアリつけた次第デアリマス。(昭和4 年2月16日 矢野文夫宛書簡より抜粋)』

 

この年、村上鉄太郎も白日賞を受賞。

 

 

日本アンデパンダン展「気仙沼港」「赤襟の女」

二科展入選により、父による勘当を解かれ仕送りの再開。 初回送金は200円。この頃の大卒(超エリート) の初任給が50円。

内縁の妻は新聞雑誌などの関係記事のスクラップを始める、 スクラップは彼女の晩年まで続く。
アトリエのある谷中初音町の貸家に転居する。 新聞に父親が大きな援助を始めたことへの皮肉記事が載る。

登久平を支えた妻の名が違うが、写真は衣子である。

 



↑富田里要に師事とあるが、富永勝重

昭和5年(1930) 29歳

岩手県出身の画家の会、北斗会の会員となる。

 

上野松坂屋の北斗会展覧会に出品。

 


第5回1930年協会展に出品。「気仙沼風景」「千厩風景」
第17回二科展に出品。「海」「落日/岩手県立美術蔵」

 

 

(『海』と思われる作品。所蔵、撮影、リアス・アーク美術館)

 

第7回白日会展「冬の気仙沼湾/リアス・アーク美術館蔵」「 風景A」「風景B」「風景C」「裸女」

 

 

 

この年の7月、旧制一関中学の美術部仲間と一関で展覧会を開く。

 

『また、郷里一関でも、昭和五年、一関中学校出身の美術家が、 郷里に残っている者も上京中の者もふくめいっしょに集まって「 オンバコ社」という結社をつくり、この年の七月、 一関町の中心街に新築された白い時計台の名物建物・千田ビルで「 第一回美術展」が開かれた。

これには、もちろん隆一も加わり、北斗会の会員の熊谷登久平、 安倍郁二のほか、同級生の親友の佐々木祝寿、横地省三、 先輩の安倍貞世ら、計十人が出品している。 このとき隆一は油彩の風景画二点を出品、横地は二点、 佐々木も二点、安倍郁二は八点、貞世は十六点、 熊谷は十点出品した。』美は脊椎にあり : 画家白石隆一の生涯 本の森 (1997/11/23)小池 平和著より。』

 

 

↑↓大正末期熊谷徳兵衛(登久平)は日本橋の浜町のモスリン問屋 を経営していた橋爪利兵衛宅に下宿しお世話になっていた。

二科に連続入選をして画家として自信がついた登久平はお礼として 絵を贈った。


昭和6年(1931) 30歳

第8回白日会展「軽業の娘」「岬」「手風琴を持ち」「木立と畑」

 

↑1月の白日展での集合写真。 こちらは村上鉄太郎所蔵のもので年月が書いてある。( ありがたや)


里見勝蔵、林武等が創立した洋画団体「独立美術協会」 の第1回展に「聖堂附近/青梅市立美術館蔵」「噴水のある風景」 を出品。同展には、 亡くなる前年の昭和42年の第35回展まで連続して出品。

 

朝日新聞推薦展「曲馬」「教会」

 

 

 

昭和6年5月?日〜12日まで、岩手県出身の画家たちの会、 北斗会の盛岡展に裸女を出品

会場は図書館

↓資料提供 岩手県立美術館より

 

 

 

初等図画練習法を出す。詳細不明。

日曜洋画研究所を創設

 

昭和7年(1932)31歳
白日会会員となる。
第9回白日会展「林檎を持つ少女」「蜀黍と楽器」「麓村」「 農家と黍畑」「水車場」「サイフォンのある静物」「山麓」「青磁 器の花」「桑折の駅」
第2回独立展「風景」「夏山」「秋」「静物

 

 

 

 

朝鮮総統府推薦展出品「曲馬」「落日」「港」「桑折駅」「ばら」

 

千葉美術会顧問になる。野田キッコーマン醤油会社後援にて開催出 品「青い林檎」「遠山」「ばら」「少女像」(我が家にはキッコー マンの工場に泊まり込んで描いた作品があると伝わるも詳細不明)

 

 

↑野田にて。

 

 

白日会小品展 

 

12月12日から3日間

まひる同人展 銀座甚兵衛商店ギャラリー