結城天鼓✖️結城康太朗展
〒103-0007 東京都中央区日本橋浜町2丁目30−7 水野ビル 1階
ART&CAFE+BAR あ・い・う。
今月30日まで。
義父の個展をきっかけに知り合った独立美術協会の会員の結城康太朗先生とお父様の日中水墨交流協会顧問の結城天鼓先生の作品展。
私は明日がファイザーワクチン2回目接種なので、その2週間後以降にお邪魔しようと思っている。
浜町辺りにはまた見たい石碑などがいくつかあるし。
独立美術協会会員だった義父の熊谷登久平は大正15年に根津に引っ越してくるまでは浜町に住んでいたと書き残している。
独立美術協会第1回に出品した中には浜町公園もあった。(濱町公園)
浜町公園あたりは私にも縁がある。
関東大震災後に火除と避難場所として整備された復興の象徴の一つである濱町公園は、太平洋戦争中に高射砲陣地ができた。
東京大空襲で火がこの一帯を襲った時に、伝承では浜町公園の高射砲陣地は避難民を受け入れず、避難民は鉄筋コンクリートの明治座に駆け込むも、火が入り多くの人が焼死した。
中途半端に閉じた防火シャッター?に脱出路が塞がれていた明治座の中の避難民たちは君が代を合唱して死んでいったと、長く伝わっていた。
その話は戦後40年ごろに浜町公園の脇にあったお店のおばあちゃんから聞いた。
20歳の頃私は人形町駅から浜町公園に向かい明治座を右に曲がり少しするとあったホカ弁の上の小さな出版社で働いていて、あちこちの慰霊碑や関東大震災の石碑などをまわっていた。
浜町公園の高射砲陣地が避難民を受け入れなかった話は確証はなく、噂である。
錦糸町公園にあった高射砲陣地も受け入れなかったという話もあるが、入れてもらって助かった話しも沢山あった。
上野公園の高射砲陣地に逃げ込んだ話もあり、私が世話になった本郷台の方は後楽園球場の高射砲陣地に逃げ込み助かっている。
荒川の高射砲陣地も隊長さんに聞いた話では受け入れていた。火が迫らなかったのもあるかも知れないが、空襲が落ち着いたあとは炊き出しもしている。
以下撮影結城康太朗先生