熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

明智抄さんの命日だ

なんというか、兵庫県西明石の画材屋のミタニで(現在は)道原かつみさんに出会い、明智抄さんに紹介してもらった。

あの頃の4歳上はとても大人で、良い画材も使い方も教えてもらえて広島の明智さんの実家で合宿して。明石の我が家に道原さんと明智さんが泊まったこともある。

私の美術部の先輩だった森脇さんに会いに姫路に行く時だったか。

あぁ、道原さんがJUNEで仕事をしていたから私と明智さんもJUNEに縁ができたのか。道原さんの家に明智さんと泊まった時に、道原さんが私のドツボをつく誘惑的なことを教えてくれて、それで編集長の佐川さんに電話をしたんだ。

 

明智さんたちに出会った思春期の私、あの頃私の実家は父の工場がうまくいかなくなりグダグダだったし、小中学校時代のいじめのトラウマに苦しんでいた。

そしたら明智さんも浮いて辛かった時代の話をしてくれて、彼女は花とゆめのデビュー作の主人公名を私の名にしてくれて、「こっちにいらっしゃい」と言ってくれた。

私は中々芽が出なくて、上京後もたまに会いに来てくれて「明子さんは大丈夫、こちらの人間よ」と文章の方へ転換する相談をした時も言ってくれて、賞を取ったときには喜んでくれて、丸で連載の話が来たときも「大丈夫」と言ってくれた。

「B-29操縦マニュアル」のときも助けてくれて、関西方面で取材がある時は幼児2人を預かってくれて。

彼女の前旦那さんとは一緒に京都散策もした。その旦那さんはだんだん拗ねていき変わり、明智さんは気を使うようになったが、旦那さんが私が作るうどんが好きなので彼女宅に泊まると作った。

 

 

 

 

明智さんとは喧嘩もよくしたけど、仲直りできた。

それを繰り返していてて、互いの子も幼馴染となり、離婚再婚のゴタゴタも互いにやり、親の介護の嘆き合いもして。

 

大喧嘩したあと死んでしまった。

 

彼女が今のうちに泊まっていた時に使っていた自転車は彼女のために整備されていたのに彼女が病床にあった時に風で倒れて不思議な壊れ方をした。

彼女が病床にいた頃に我が家では不思議なことが沢山あった。

 

訃報はきてしまった。

 

今我が家にあるウォシュレットは明智さんが買ってくれたものだ。

 

40年以上の付き合いがあり、引っ張ってくれていた。

 

長生きして欲しかった。

 

つか死んでしまうなら私も連れて行って欲しかった。

去年の8月、私は中途半端な危篤となり今年も生きているが、おだて上手な明智さんがいないと自信がうまく作れない。