https://www.yanaka.blog/entry/2020/08/03/林房雄氏の谷中初音町の番地
義父が林房雄氏に貸した古代羅馬のインク壺は、義父の隣の家に住んでいた林房雄氏が静養と称して鎌倉に出て、そのまま持っていってしまい熊谷家には返されず、今は何処にあるのかわからない。
登久平が絵に描くつもりであったインク壺を林房雄氏は文章で表現したいと借り、壮年に書き、そこから考古学者が存在を知ることになり騒動となり、アアン的な。
林房雄と熊谷登久平の共通の友人に島崎藤村の三男蓊助がいて、彼は登久平と同時期に川端画学校に通っていた。
藤村が昭和3年に加藤静子と再婚をした時に蓊助が祝文を書いたことになっているが、それを書いたのは林房雄だった。
(藤村、最初の妻の死後に姪に手をつけて妊娠させた後に姪を置いてパリに渡る。生まれた子は里子に出され、その子は関東大震災で行方不明になった。藤村は姪との関係を『新生』で発表しちゃい、親族会議で姪は台湾の親戚宅に送られたりして辛い思いもしてとか。で、藤村は他の女性と再婚。この姪は帰国後結婚し子も生まれるが貧困のため倒れて、(のちに長谷川利行が運び込まれ死んだ)板橋の養育院に入院している)
林房雄が出所後に熊谷登久平の隣に住んだのは、昭和7年当時は比較的裕福になっていた登久平に、特高に睨まれていた蓊助が頼んだのかも知れない。
が、林房雄は転向したので当局から良い待遇をされていたかも知れないから蓊助は関係ないかも。
この推測だらけの時期に失われた古代羅馬のインク壺。
今も行方を探しています。
あれば国宝モノなんだよなぁ。
https://fujimizaka.wordpress.com/2013/08/21/hasegawa_toshiyuki_1_first/amp/
『今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day』よりコピペ
『美術新論』1931(昭和6)年5月号の「消息」欄に「東京下谷区谷中初音町二ノ五へ移転」との記事が掲載されている(註40)が、同地番は「福井という下宿屋」の住所にほかならず、転居もまさにこの時期と考えられ、それ以前は住所の定まらない時期であったように見える。』
以外、林房雄の谷中時代への私の問い合わせについての回答
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000285894
質問
(Question)
昭和7年4月に出獄した林房雄が下谷区谷中初音町に住み、「青年」を書いたが、このころ同じ初音町に住む画家熊谷登久平宅にて「古代羅馬インク壺を見て『壮年』につながったと」昭和13年ごろの新聞にあるが
①林房雄が初音町の何番地に住んでいたか
②また、(林房雄が)登久平との事を何かに書いていないか知りたい。
③宮崎精一氏(画家)が、昭和18年頃に谷中初音町に住んだ住所を知りたい(そのころは白日会)。谷中初音町に住んだのは熊本県立美術館の1987頃の発行物(で確認できる。)
回答
(Answer)
①国立国会デジタルコレクションより
『文藝年鑑』1932
P.436~:ハヤシフサオ/下谷区谷中初音町2-7
この頃、熊谷登久平は下谷区谷中初音町2-6