熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

池之端画廊用メモ3 上野の森を巡る画家たち展

今日は熊谷登久平の122歳の誕生日。

 

「熊谷明子さんをはじめ、丸井隆人さん、松山庭園美術館、太平洋美術会の協力を得て、
㊗️芸工祭前半企画
2023.10.4から10.15
上野の森を巡る画家たち展
開催いたします。

聞けば、芸工祭とは100年以上も続く谷根千地域をあげての歴史ある祭りだそうです。

今回は清水町(池之端四丁目)ゆかりの画家大河内信敬、望月春江、丸井金猊らをクローズアップに、上野不忍池の石碑のある長谷川利行、熊谷登久平から絹谷幸二のエピソード話、真島町にありました太平洋美術会会長の堀進一、朝倉彫塑館の朝倉文夫、木内 克らの彫刻家の活躍を紹介していきたいと思います。

皆様のご協力のもと、お陰様で素晴らしいラインアップとなりました👍池之端スタッフさんともに、今後ともよろしくお願いします。

   池之端画廊 鈴木弘子

f:id:TokuheiKumagai:20231001140010j:imagef:id:TokuheiKumagai:20231001140056j:image

 

⚫︎展示者の名前 作品

⚫️朝倉文夫 1883〜1964 谷中天王寺町(台東区谷中7丁目)

装甲自動車(仮)

 

1883年(明治16年)、大分県大野郡上井田村(現豊後大野市朝地町)生まれる。

1902年(明治35年)、当時既に東京で新進気鋭の彫刻家として既に活躍していた9歳年上の兄・渡辺長男を頼って上京。

翌年東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻選科に入学、寸暇を惜しんで彫塑制作に没頭した。モデルを雇う金がないために上野動物園へ通って動物のスケッチをするうち、たまたま教授からの紹介を受けた貿易商の注文で動物の像の制作を始めほぼ一日に一体のペースで卒業までに1200体以上に及んだ。このころ、当時の海軍省が募集していた三海将銅像に「仁礼景範中将像」で応募し1等を射止め注目される。

1907年(明治40年)、卒業制作として「進化」を発表し研究科へと進み谷中天王寺町にアトリエ、朝倉塾を作り子弟の養成にあたった。

太平洋美術会(太平洋画会)が、谷中清水町にあった1904年から通いデッサンを学んだ。また谷中清水町の大河内子爵邸に招かれたことが黒田清輝の日記に残る。

 

今回展示する『装甲自動車』は、昭和6年満州事変記念品として南満州鉄道の発注で制作され配られたとのこと。残念ながら朝倉彫塑館にも問い合わせるも当時の詳細はわからない。

今回の「装甲自動車」の題は所蔵している福島県立近代美術館の資料から。

この車両、特徴から91式広軌牽引車であり、鉄輪による鉄道の軌道走行だけでなくタイヤに交換することで路上も走れる装甲車である。非武装であるが、着脱式の機関銃がある。

装甲は6 mm、小銃弾に耐えられる程度。

Wikiにには、「南満州鉄道の警備を行う独立守備隊や、各地の鉄道で作戦する鉄道連隊などに配備された。満州事変の際に「装甲軌道車」「装甲単車」の名で実戦使用されたのを皮切りに、鉄道の敷設や修復、警備などにあたり、大いに活躍した」とある。


 このブロンズがどういう経緯で朝倉文夫が制作したのか資料、繰り返すが私は見つけられてない。が、思春期にこの作品を見る機会があり満州事変絡みであるのに、この柔らかな造形に、惹かれたのは確かであり、時代背景が気になりはするが、多くの人に知ってもらいたいと願う作品なのは間違いなく、会場でそっと触ってみてください。

 

今回、この作品について問い合わせた縁で朝倉彫塑館 主任研究員 戸張泰子さんから以下の言葉を頂けました。

「彫刻作品を触ることができるということは、作者の朝倉文夫も望んでいたことです。触ってみたくなるような気持を起させる、感覚を揺さぶるような制作を心がけていました。本作はそのように手に取ってみたくなるような作品です。残念ながら朝倉彫塑館の所蔵には無い作品ですので、ぜひこの機会に私も堪能させていただきたいと思います。」
 
熊谷明子

 

 

f:id:TokuheiKumagai:20231001113611j:image
f:id:TokuheiKumagai:20231001113608j:image
f:id:TokuheiKumagai:20231001113615j:image



⚫️堀 進二 1890〜1978 谷中上三崎南町(台東区谷中4丁目) 

明治23年5月5日東京赤坂区に生まれ、同39年谷中の太平洋画会研究所に入り新海竹太郎に師事して塑造を学ぶとともに同44年まで同所でデッサンも学ぶ。同44年隊へ洋画会展に出品、同会正会員となる。大正4年、第9会文展に「若き女の胸像」を出品し褒状を受け、翌5年から7年まで「H老人の肖像」(第10回)「肖像」(第11回)「老人」(第12回)で連続特選を受賞した。同8年第1回帝展に「寺尾亨氏の肖像」他1点を出品、またこの年から審査員をつとめた。また、昭和3年東京帝国大学工学部建築科の講師を依嘱され(同21年まで)、同6年には東京工業大学建築学科講師を依嘱さる。戦後は日展に出品し審査員をしばしばつとめ、一方太平洋画会に所属して戦災より焼失した太平洋美術学校の復興に尽力し、同32年開校と同時に同校々長となって後進の指導にあたった。同33年新日展発足とともに日展評議員となり、同35年第3回展に出品した「人海」で日本芸術院賞を受賞、また、同25年から千葉工業大学教授(意匠学科)をつとめた。作品は他に東大の「浜尾総長像」「足を洗う女」などがある。

「堀進二 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所

実は私、堀信二が江戸川乱歩賞のために制作した記念品ホームズの像がとても好きなんです。

 

f:id:TokuheiKumagai:20231001113831j:image
f:id:TokuheiKumagai:20231001113827j:image

と、デッサン。

3作品

↓参考として、かつて江戸川乱歩賞受賞者に渡されていたホームズの像。今は他の方が制作した江戸川乱歩が記念品です。

f:id:TokuheiKumagai:20231004095736j:image


⚫️富田温一郎1887〜1954 谷中清水町(台東区池之端4丁目)

明治20年10月21日石川県金沢市に生れ、44年3月東京美術学校西洋画科を卒業した。大正3年第8回文展に「大学校庭の初夏」がはじめて入選して以来、文、帝展に出品し、9年第2回帝展の「母の肖像」、昭和3年第9回帝展の「子供とその母」は特選となつた。大正13年中沢弘光などと白日会を結成し、終始この会のためつくした。また戦後日展審査員を数回つとめた。前記のほか、主な作品には「河口」(大正11年平和記念東京博覧会2等賞)、「業」(第3回帯展)、「静物を配せる裸婦」(第10回帝展)、「八月の椽」(第15回白日会展)、「炉辺」(第3回日展)などがある。その作風は、極めて穏和な外光派風であつた。

「富田温一郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)より引用。

白日会が大正13年に発足した時の事務局は富田温一郎の谷中清水町の自宅であった。

『熊谷(登久平) ハ白日賞ヲ受ケマシタ。白日会へコノ間一寸行キマシタ。 富田(温一郎)氏が居マ
シテ白日評ヲ書イタカラトテ美術館食堂ニテ、ソーセージヤ酒、ビフテキ等ノ御馳走ヲシテクレマシタ。十日ブリニテ人ラシイ食事ニアリつけた次第デアリマス。(昭和4年2月16日 矢野文夫宛書簡より抜粋)』

f:id:TokuheiKumagai:20231001113938j:image

2作品の予定

f:id:TokuheiKumagai:20231002080233j:image


⚫️長谷川利行1891〜1940 谷中初音町2-5(台東区谷中7丁目)

明治24年7月9日京都山科生。和歌山県耐久中学校中退。
大将12年新光洋画家展に入選。15年上京。
二科会展に《田端変電所》が初入選。昭和2年二科会展で
《麦酒屋》などが樗牛賞。3年一九三〇年協会展で《地下鉄道》などが協会賞。
4年一九三〇年協会展で《靉光の肖像》など出品。
8年頃より放浪生活が始まる。11年~13年新宿・天城画廊で個展開催。
12年一水会展に《ノアノア》など出品。15年10月12日歿。享年49歳。

株式会社美術年間社「20世紀物故洋画家辞典」平成九年 より抜粋

 

f:id:TokuheiKumagai:20231018192537j:image

大八車がある風景(諏訪台の富士見坂)
f:id:TokuheiKumagai:20231018192541j:image

裸婦

 

2作品

 

長谷川利行と熊谷登久平は大正15年、藤の花が咲く頃に根津の登久平の岩手県の旧制一関中学の同級生だった矢野文夫の下宿で出会った。

その後、やはり根津の登久平の下宿先に利行が訪ねて来るようになり交流が続き、後に2人は谷中坂町にあった額縁屋の彩美堂と谷中町の大地堂で展覧会を開き里見勝蔵らの知遇えた。

登久平は二科展入選を機会として谷中初音町2-6のアトリエ付きの借家に転居し、利行はそれを追って隣の初音町2-5の福井家に下宿。

後に登久平の次男の寿郎は当時を知る福井家の人から2人は窓を開けて会話し、また登久平の家で飲み会をして随分と賑やかだったと話されたという。この福井家から長谷川利行の幻の作品カフェ・パウリスタが寿郎の助言により「なんでも鑑定団」に出され大きな鑑定額が出たのは10年以上昔の話しで、今は国立近代美術館に収蔵されている。(熊谷明子)

 

 


⚫️木内 克(ヨシ)1892〜1977 下谷区桜木町33(台東区上野桜木町)

。明治25(1892)年6月27日、水戸市に生まれ、同45年水戸中学五年生在学中の夏、帰省中の東京美術学校彫金科教授海野美盛の指導を受けた。大正3年海野と相談し彫刻に専念することを決意、この年朝倉文夫の彫塑塾に入る。同5年第10回文展に「平吉」が初入選、以後出品を続け、同9年には第2回帝展に「手」を出品した。翌10年ヨーロッパに留学、ロンドンからパリへ移り、パリではグラン・ショミエール研究所へ通い、ブールデルの指導を受ける。同11年からサロン・デ・ザンデパンダンに出品、翌12年にはブールデルの推薦で第1回サロン・デ・チュイルリ展に「ギタリスト」を出品(昭和3年まで毎年出品)、同13年からサロン・ドートンヌにも出品した。また、昭和2年にはパリ郊外の陶芸家ラシュナルのアトリエで初めて陶芸を試み、この年藤田嗣治、原勝郎らとラシュナルの展示会に招待出品、同5年頃からギリシャのアルカイック彫刻に心をひかれテラコッタの技法を修得する。同10年12月帰国し藤沢市に居住、翌11年第23回二科展に「女の顔」「女のトルソ」「猫」を出品、特待を受け、翌年会友に推挙された。また、この頃から同16年までマジョリカを制作、同15年東京上野桜木町33番地の朝倉文夫分塾に転居した。同16年二科会を退会、文展無鑑査となる。戦後は、同23年第2回新樹会展に招待され、「猫」「首」「マスク」などの滞欧作多数を出品して注目を集め、同26年に新樹会会員となった。この年第1回サンパウロビエンナーレ展に「婦人坐像」を出品、また「臥像」で第3回毎日美術賞を受けた。

以上「木内克 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)より抜粋

 

今回展示されている女性像は全て上野桜木町の木内克のアトリエの隣に住んでいた松平須美子である。松平郷松平家二十代目の殿様作曲家の松平信博さんの娘である須美子は、戦後木内がヌードモデルを探していると知り志願、その後の木内の制作する女性は彼女をモデルとしている。

明るくのびやかに爛漫と咲き誇る女神のレリーフを見かけた私は心惹かれ入手し、のちにモデルの話しを上野桜木町の浅尾空人さんにご教示いただき、また今回展示のテラコッタも借りることができた。この地縁に感謝を。(熊谷明子)

追記、私の体型をご存知の方は、私がこの女性像の開放感に惹かれたのを納得してくれると思う。

f:id:TokuheiKumagai:20231001114120j:image

f:id:TokuheiKumagai:20231001114258j:image

f:id:TokuheiKumagai:20231004184803j:image

テラコッタ

の3作品

 

⚫️望月春江 1893〜1979谷中清水町(台東区池之端4丁目)

1893(明26)年11月13日山梨県西山梨郡の教育者の家に生まれ、1913年山梨県甲府中学校を卒業した。医学を志して上京し、たまたま美術史学の大家であった中川忠順にその画才を認められ、1914年東京美術学校日本画科に入学した。教授陣に川合玉堂、寺崎広業、結城素明、小堀鞆音、松岡映丘等が居り、1919年卒業後は結城素明に師事した。この年文部省文部大臣官房図書課の嘱託となり、翌年東京女子師範学校の講師となった。のち教授となったが1927年退職し、実践女子専門学校講師をつとめる。1921年第3回帝展に「春に生きんとす」が初入選し、第5回以後連年同展に出品し、第9回「趁春」、同10回「明るきかぐのこの実」は特選となった。1937年新文展開催後は、同展に出品したが、1938年は同士とともに日本画院を結成し、創立同人となった。1941年文展審査員となり、同年第4回文展に「蓮」を出品した。1945年戦局の酷しさとともに山梨県の生家に疎開したが終戦後東京に戻り、1948年には台東区谷中清水町に転居した。作品は日展及び日本画院展に発表し、1958年第13回日展出品作「蓮」では日本芸術院賞を受賞した。1977年9月には東京セントラル美術館において、日本経済新聞社主催により画業60年回顧展が開催され画業の全貌がはじめて公開された。作品は専ら花鳥画の探求にあり、ことに花卉図を多く描いた。作風は日本伝統的流れに立もので、堅実な写実を基礎とし、琳派や近代的感覚を投入した花卉図等は重厚にしてかつ新鮮な特色を示した。代表作-「趁春」「黄牡丹黒牡丹」「蓮」ほか。

望月春江 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)より

 

⚫️熊谷登久平1901〜1968 谷中初音町2-6から谷中上三崎南町へ(台東区谷中4丁目)

明治34年(1901)10月2日、岩手県東盤井郡に生まれ、大正14年中央大学商学部を卒業、学生時代に川端画学校に入り、大正13年修了、昭和元年、白日会展に入選、このころ長谷川利行を識り、親交を結ぶ。昭和2年、白日会会員に推されたが、昭和4年には「気仙沼風景」「赤松と水車小車」を二科展に出品入選、翌5年には「海」「落日」を出品した。昭和6年、独立美術展第1回展に入選、その後、毎回出品して、昭和8、10年の出品作で海南賞を受賞し、昭和11年独立美術協会会友に推薦され、同16年会員となった。昭和37年以後、41年まで毎年、東京日本橋三越で個展を開催し、同38年にはヨーロッパに旅行した。また、著書に「初等図画練習帳」(5巻)、「熊谷登久平画集(絵と文)」(昭和16年、美術巧芸社)などがある。

「熊谷登久平 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)より。

 

f:id:TokuheiKumagai:20231001115558j:image

展示作品決めるのは池之端画廊さん

「Paris」

f:id:TokuheiKumagai:20231018192701j:image


f:id:TokuheiKumagai:20231018192705j:image

キリスト昇天
f:id:TokuheiKumagai:20231018192657j:image「家」「キリスト昇天」

 

⚫️布施悌次郎1901〜1992 台東区谷中眞島町1の太平洋画学校に学び、後に校長に。

明治34(1901)年10月1日宮城県仙台市に生まれ、大正14年仙台東亜学院専門部英文学部を卒業、上京後翌年太平洋画会研究所へ通う。太平洋画会展へ出品を続け、昭和3年太平洋画会賞を受け会員に推挙され、同6年には太平洋画会委員となった。戦後の同32年、太平洋画会が太平洋美術会と改称され同会委員、翌年から太平洋美術学校教授をつとめる。のち、太平洋美術会校長。

 

「布施悌次郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所

 

兄の布施信太郎1899〜1965も太平洋洋画研究所出身の洋画家で戦後校長となった。

布施家は代々伊達藩に仕えた武士であったが、先祖に絵をよくする者があり、父、淡も洋画家であった。

戦前、布施兄弟は伊達藩の支藩出身の熊谷登久平と共に東北に絵の指導にまわった。

また布施信太郎と登久平は東北出身者初の文展無審査となった。(熊谷明子)

f:id:TokuheiKumagai:20231001120016j:image
f:id:TokuheiKumagai:20231001120020j:image

1作品 ローマの遺跡

 


⚫️大河内信敬1903〜1967 谷中清水町1(松平伊豆守下屋敷/大河内子爵邸/台東区池之端4丁目)

(明治36年)物理学者・子爵の大河内正敏の次男。谷中眞島町にあった太平洋画会に学ぶ。昭和6年本郷洋画研究所に学ぶ。

仲間からは「しんけい」さんと呼び親しまれる。

戦後占領下の昭和23年、上野桜木町の額縁店佛雲堂に集う谷中近隣の芸術家たちと「谷中会」をフランス語に訳した「カルチェ・バル会」を起こし、第1回展示会を昭和23年6月21日から19日まで佛雲堂の画廊プール・ヴーで開催。その後信啓の口利きにより上野松坂屋で開催された。

f:id:TokuheiKumagai:20231001114801j:image
f:id:TokuheiKumagai:20231001114758j:image

f:id:TokuheiKumagai:20231001114901j:image

3作品と、参考としての書籍一冊

f:id:TokuheiKumagai:20231001114936j:image

 

⚫️島村三七雄1904〜1978 谷中初音町4-17(谷中5丁目)

島村三七雄は明治37年(1904)大阪市に生まれ、昭和4年東京美術学校西洋画科を卒業、同年フランスへ留学、昭和11年まで滞在した。その間、フレスコ画法を修得、またサロン・ドーンヌ、サロン・デ・ザルチスト・フランセなどに出品した。帰国後は昭和15年第10回独立展に出品、独立美術協会会友となり、同20年同会会員となった。昭和32年東京芸術大学美術学部講師として壁画フラスコ画法の指導を担当、同41年助教授、同42年教授に任じられ、同46年停年退官した。昭和42年には前年の作品「巽橋」で日本芸術院賞を受賞、没後、勲四等旭日章叙勲した。

同じ谷中住まいの熊谷登久平と親しく、白日会、独立美術と、共に属し絵を並べた。戦後熊谷宅に教え子の絹谷幸二を連れてきたのも島村だと伝わる。

f:id:TokuheiKumagai:20231001114959j:image

1作品 けしのはな

 

⚫️丸井金猊 1909〜1979 1928昭和3年5/24東京市本郷区根津須賀町23
1929昭和4年11/30東京市下谷区谷中清水町20(池之端4丁目)
1930昭和5年 7/10東京市下谷区谷中坂町63

 

⚫️寺田 政明   1912〜1989下谷区谷中真島町1-2の辻ハウス (谷中2丁目)

明治45年(1912)1月3日福岡県八幡市に生まれる。昭和2年九州画学院に入学し、この頃ゴッホゴーギャン、ブレイクらの影響を受けた。本格的な絵の勉強のため上京を決意し、翌3年上京、小林萬吾の同舟舎絵画研究所に通う。次いで4年太平洋画会研究所(5年太平洋美術学校と改称)で学び、鶴岡政男、松本竣介、麻生三郎らを知る。7年第2回独立美術協会展に「風景B」が初入選、12年の同第7回展で「美しい季節」「街の憂鬱と花束」により協会賞を受賞した。また8年鶴岡政男らが結成したNOVA美術協会にも出品する。

「寺田政明 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)より抜粋

f:id:TokuheiKumagai:20231001115047j:image

1作品


⚫️張替正次 1914〜2003 谷中坂町74(台東区谷中1丁目)

谷中町の額縁屋にて額縁を学びながら、谷中眞島町の太平洋美術学校にて絵を学ぶ。

その頃熊谷登久平とも知り合い、額縁制作を依頼したこともあり当時の額縁が登久平の郷里の千厩に残る。熊谷の次男によれば家にも良く遊びに来られていたとのこと。夫は大人になっても「寿郎ちゃん」と呼ばれていたそうだ。

張替さんは谷中坂町に自宅件アトリエを持ち、地元の人たちとの交流もあり覚えている人は今もいる。

後に広いアトリエを求めて転居した。

 

https://kokuten.com/40350

以下上記サイトより抜粋

【魂の画家】張替正次先生のこと

                          絵画部会員 安富信也

 張替先生は1914年(大正3年)東京深川森下町に生まれ、本名は(はりかえ・まさつぐ)「しょうじはりかえ」みたいで、面白いと雅号にしたそうです。幼いころからカブスカウトボーイスカウトに入り、登山や山スキーに熱心でした。20歳の時に谷中に下宿して額縁業に従事し、その頃歌人の宮柊三と同居していました。24歳の時に鳥海青児に師事、26歳の時に太平洋美術学校で学び、33歳で国展初入選。39歳で絵画部会友(準会員)になられました。


 画家としては遅い出発でしたが、その後が凄い!まっしぐらに華々しく活躍されています。絵画だけにとどまらずに、版画・陶芸にも力強い造形力を発揮されています。40歳の時に第一回個展を開催してから、20年間ほとんど毎年のように連続的に個展をされています。45歳で絵画部会員に推挙され、49歳で絵画部会務委員になられてからは、会の運営にもその手腕を十分に発揮されて、また多くの後輩たちを育てています。また49歳で版画部にも出品されて、50歳の時には版画部国画賞も受賞されて、52歳で版画部会員にも推挙されています。

 

以上、国画会のサイトの【魂の画家】張替正次先生のこと 絵画部会員 安富信也 より抜粋

f:id:TokuheiKumagai:20231001115143j:image
f:id:TokuheiKumagai:20231001115139j:image

 

⚫️朝倉 響子 1925〜2016

日本の彫刻家。本名は矜子。彫刻家朝倉文夫の次女として東京府東京市下谷区谷中天王寺町(東京台東区谷中7丁目)に生まれ育つ。姉は舞台美術家で画家の朝倉摂


 1925(大正14)年12月9日、彫刻家・朝倉文夫の次女として東京に生まれる。姉は日本画家、舞台美術家として活躍した朝倉摂(本名、富沢摂)。父文夫の方針により学校へは通わず、義務教育の内容は家庭教師より教わった。はじめは姉摂とともに絵を描いていたが、彫刻を制作するようになり、1939(昭和14)年には9月に東京府美術館にて開催された第12回朝倉彫塑塾展覧会へ、「習作(第一)」「習作(第二)」「手習作」「手習作(イ)」「手習作(ロ)」の5点を出品している。42年10月第5回新文展に「望」で初入選を果たし、翌43年の第6回展には「あゆみ」を、46年3月の第1回日展には「慈」を出品。同年10月の第2回日展へ出品した「晨」にて特選を受賞した。以後も「萌」(第3回展、1947年)、「作品S」(第6回展、1950年)、「Mlle S.」(第7回展、1951年)で特選受賞。52年の第8回展、57年の第13回展では審査員を務めるも、以後同展への出品はしていない。新文展日展への出品作はいずれも女性を題材にしたもので、多くは裸体の立像であった。また47年の第3回展までは、本名の矜子で出品していた。

朝倉響子 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)より抜粋

https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/818746.html

f:id:TokuheiKumagai:20231001120543j:image

「若い芽」

 


⚫️鈴木美江 1932〜 谷中清水町(台東区池之端4丁目)

1932年、日本画家の望月春江の長女として、東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区池之端にて出生[1]。

193年、川崎小虎、望月春江ら日本画院設立する。1939年、御茶ノ水大学付属小学校に入学する。1994年、甲府市に縁故疎開甲府市立相生小学校に通う。1945年、甲府高等女学校に入学する。1946年、春江の生家である山梨県増坪町より一家で帰京する。御茶ノ水女子大中学校に編入学する。

1948年、寺内萬治郎(洋画家)と朝倉摂(舞台美術家) にデッサンの指導を受ける[2]。1951年、御茶ノ水高等学校卒業する。1954年、日本画院展初出店 第14回 「いもうと」 以後毎年出品する。1955年に東京藝術大学美術学部絵画科(日本画)を卒業[3]。日本画家の野田修一郎は大学の同期生である。同年、 第11回 日展 「葡萄と姉妹」が日展初入選を果たす[3]。

1956年、第16回 日本画院 「二人」 日本画院賞を受賞する。第12回 日展「三人」白寿賞を受賞する。1957年、日本画院同人に推挙される。 

1960年 鈴木千久馬の次男、久雄と結婚する。 産経学園吉祥寺教室の日本画講師となる。同年、鈴木千久馬が産経学園吉祥寺教室の洋画家講師となる。

1964年、産経学園自由が丘教室の日本画講師となる。1968年、第11回新日展に「苑」を出品、以後は日本画院展を中心に作品発表を行う。

1977年、日本美術家連盟の中団の一員として中国各地を訪問する。1979年、父望月春江没 1980年、日本画院秋季展新設、以後毎年出品する。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E7%BE%8E%E6%B1%9F_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%94%BB%E5%AE%B6)

Wikiより抜粋

 

⚫️絹谷幸二 1943〜 桜木町(上野桜木町)

f:id:TokuheiKumagai:20231018192929j:image

絹谷 幸二(きぬたに こうじ、1943年生まれ)は、日本の画家。東京藝術大学を経て1971年のイタリア留学によってアフレスコ(壁画技法)をさらに深め、帰国後、歴代最年少にて画家の登龍門である安井賞を受賞。多彩な技法を駆使し、エネルギーに満ちあふれた独自の画風を確立した。1997年には長野冬季オリンピック・ポスターの原画制作、2008年には渋谷駅の壁面にパブリック・アートを設置、2014年には文化功労者に選出され、美術と社会を結びつける幅広い活動も行っている。(公式サイトより)

絹谷幸二画伯は上野桜木在住時代に島村三七雄が熊谷登久平宅に連れてきたことから熊谷家に訪れるようになり、林武ら独立美術協会のメンバーが集うときにも同席していたと聞く。熊谷登久平宅の斜め前、堀信二の屋敷の並びで火災が発生した時に、何故か一升瓶を持って「先生大丈夫ですか」と駆けつけたという。(消火を手伝い、そのまま飲み会に)

熊谷登久平の葬儀の時は手伝いもよくしてくれたと親戚たちが今も語る。また熊谷の遺族が経営するアパート在住の藝大生が藝大教授だった絹谷幸二に当時の思い出を聞いたという。

 

⚫️岡本明久 1951〜

 

⚫️松本昌和 1971〜

祖父母が昭和5年に谷中眞島町の太平洋画研究所で出会う。

現在の太平洋美術会、絵画部運営委員、本部職員、研究所講師、東京支部長、太平洋美術会Twitter(X)の中の人。写実の作品の光の捉えが繊細で空気の揺れまで描き、かつ物を掴む視点の冴えがある。

池之端画廊代表鈴木英之と熊谷登久平の義娘熊谷明子と同じ画学校出身である。

2023年 第118回 太平洋展 「碌山美術館」SOMPO美術館賞

 

f:id:TokuheiKumagai:20231001115458j:image

谷中のヒマラヤ杉

 

追加

宮崎精一

『宮崎 精一(みやざき せいいち。1912年11月24日 - 1996年1月7日 )は、日本の洋画家[1]。

1912年(大正元年)、熊本県人吉市に料亭を経営していた父・宮崎儀太郎の長男として生まれる[2]。1930年(昭和5年)、日本美術学校に入学。』

Wikiより。

f:id:TokuheiKumagai:20231018192855j:image

 

『1943 (昭和18年)31歳
(宮崎精一は)図画教師をやめ、 上京。
荒川区尾久町の畳屋の二階を間借して制作に没頭する。
近くに軍の戦車工場があり、道路をタンクが通るたびに、四畳半二間がゆれて、 キャンバスがぐらつく。
熊谷登久平の紹介で、 谷中初音町に転居。
墓地の近くにあって静かな環境であった。
近くに島村三七雄、鶴岡政男、 堀進二、 熊谷登久平がいた。
熊谷宅には、時おり里見勝蔵が訪れ、 里見よりヴラマンクについて話を聞く。
青樹社展に出品 (白日会関係作家は、中沢弘光、 伊藤清永、 島村三七雄、熊谷登久平、 小島真佐吉、 川村精一郎、山道栄助、 梅津泰助、 平松譲、大河内信秀、吉川弘、 宮崎精一)
 (熊本美術館で1988年に開催された宮崎精一展の図録より。)


昭和7年、義父の隣に住んでいた林文雄
「谷中初音町2-7」
あ、その頃の熊谷登久平の住所は
「谷中初音町2-6」
近いじゃん。
(昭和6年頃の長谷川利行の住所は「谷中初音町2-5」)