熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

怒涛の没量に心折れて。軽慮浅謀な私。

昨日は池之端画廊の上野の森を巡る画家たち展の広報活動で、藝大や文化財研究所をはじめ、あちこちに挨拶周りをしました。

 

『墓と塔のある上野の山のおく、ここは若い長谷川にも私にも巴里の連中のように、モンマルトルであつた。この私達のグループのために、『ル・カポー』といふ酒場が東京のモン・マルトルにつくられた。この酒場が、私達に吞み倒されるまでの一年間ほど私達にとつて幸福なことはかつてなかったであらう。

 

矢野文夫編纂発行の『夜の歌(長谷川利行とその藝術)』1941年11月15日発行より抜粋)』

ル・カポーは上野桜木の寛永寺近所の言問通り沿いにあった。

 

『 東京の美術村

太平洋美術協会百年史からの抜粋で、大正五年の読売新聞の記事
103頁より


日暮里、田端周辺の美術家村
東京の大久保と雑司ヶ谷には小説家が多く住んでいたので、「文士村」と称された。
美術界でも明治後期に、既述のように皇居を境にして「北派」「南派」があったが、大正期には日暮里から田端界隈が東京の「美術村」であった。
当時の「読売新聞」(大正5年9月21日)は次のように伝えている。
美術家のほとんど総ては上野の森を背景にして住んでいるのだから奇妙である。上野の森を裏手に廻ったところ、日暮里から田端の一角は東京に於ける美術村とも称されるべき所で、これに本郷駒込の一角を加えて一線を画してみると、日本現代の美術は全くこの界隈の居住者によって左右されているような感じがする...…。
田端には、太平洋画会の美術家たちが創立した社交倶楽部「ポプラ倶楽部」があり、その会員の中川八郎、小杉未醒、満谷国四郎、藤井浩祐、吉田博、柚木久太などが住んでいた。そのほか横山大観、田辺至も田端に住んでいた。
日暮里には戸張孤雁、また駒込方面には石井柏亭、高村真夫、北村四海、丸山晩霞、それに高村光雲藤島武二などが住んでいた』

 

 

好きな画家の作品が事故で破れて剥離したので、ここ数日かなり落ち込んでいる。形あるものだから仕方ないけど、私はオタクで執着が酷く異常なのだろうな。

市場に出回りにくい画家の作品がざっくり。

相手さんは謝ってくれたけど、もうなおらない。

あと、しっかりとした額縁で保護されていた絵が落ちてガラスが割れた。今むき身。

何かの罰を受けているのだろうか。

ガラスが割れた作品とざっくり破れた作品を見るのが実は嫌だ。

私が古い額縁のガラスをアクリルに交換してなかったことや、むき身の仮縁で外に出したのが悪いんだけどね。保険をかけられない貧乏な私が悪いんだけどね。

観るたびにしんどい。

画家に申し訳ない。

ここ数日、家に帰るたびに外面やめて本来の根暗になるので夫と息子に心配かけてる。

画家の家の嫁辞めたい。失踪したい。

 

f:id:TokuheiKumagai:20231007085324p:image

旧谷中清水町、現池之端四丁目の池之端画廊で展示中の長谷川利行と付き合いがあった画家たち。

谷中眞島町、寺田政明『薔薇』

太平洋画会研究所時代に長谷川利行と出会う。

政明氏の妻を描いた作品が『割烹着』

(某日ヤフオクに利行が池袋に転居した寺田に送った絵が出品されていたのは私驚いた)

 


f:id:TokuheiKumagai:20231007085328p:image

旧谷中清水町、現池之端四丁目の池之端画廊で展示中の谷中清水町発祥の太平洋画研究所に関係者たち。

太平洋谷中清水町時代から指導していた石井柏亭の「ユングフラウ」。

太平洋谷中眞島町時代に学び、戦後会長となった布施悌次郎「ローマの遺跡」

谷中上三崎南町在住、会長の堀進二「デッサン」

 


f:id:TokuheiKumagai:20231007085336p:image

旧谷中清水町、現池之端四丁目の池之端画廊で展示中のご近所に住んでいた1930年協会〜独立美術協会の画家の展示。野獣派系。

f:id:TokuheiKumagai:20231007195326j:image

義父、熊谷登久平が可愛がっていた独立絹谷幸二の「裸婦」上野桜木町に在住してた。

 

f:id:TokuheiKumagai:20231007195401j:image
f:id:TokuheiKumagai:20231007195358j:image

谷中初音町で義父の隣に住んだ友の長谷川利行の「裸婦」「富士見坂」

義父の「Paris」

 


f:id:TokuheiKumagai:20231007085332j:image

旧谷中清水町、現池之端四丁目の池之端画廊で展示中の近隣の画家。義父と交流があった画家たち。

谷中清水町、大河内信敬の薔薇。(理化学研究所の3代目所長大河内正敏の息子/松平伊豆守の子孫/河内桃子の父)

谷中眞島町、寺田政明の薔薇。

谷中清水町、富田温一郎の花(アネモネとマーガレット)


f:id:TokuheiKumagai:20231007085340j:image

旧谷中清水町、現池之端四丁目の池之端画廊で展示中の近隣の彫刻家。

うちの斜向かいにアトリエがあった堀進二によるギリシャの建築・工芸・鍛治の神ヘーパイストス

谷中天王寺町の朝倉文夫満州事変記念の装甲自動車。

朝倉文夫の弟子で上野桜木の木内克の裸婦。モデル上野桜木の松平須美子。

f:id:TokuheiKumagai:20231007085451p:image

旧谷中清水町、現池之端四丁目の池之端画廊で展示中の谷中清水町発祥の太平洋画研究所に関係者たち。

「谷中のヒマラヤ杉」松本昌和
祖父母が昭和5年に谷中眞島町の太平洋画研究所で出会う。
現太平洋美術会、絵画部運営委員、本部職員、研究所講師、東京支部長、太平洋美術会Twitter(X)の中の人。

 

f:id:TokuheiKumagai:20231007085557j:image

池之端画廊で展示中の長谷川利行の関係者。富田温一郎「鮒」
『熊谷(登久平) ハ白日賞ヲ受ケマシタ。白日会へコノ間一寸行キマシタ。 富田(温一郎)氏が居マシテ白日評ヲ書イタカラトテ美術館食堂ニテ、ソーセージヤ酒、ビフテキ等ノ御馳走ヲシテクレマシタ。(昭和4年2月16日 矢野文夫宛書簡より抜粋)』

f:id:TokuheiKumagai:20231007091340j:image

旧谷中清水町、池之端画廊で展示中の画家。

張替正次 谷中坂町
谷中町の額縁屋に住込み額縁制作を学ぶ。谷中眞島町の太平洋美術学校にて絵を学ぶ。
熊谷登久平が、額縁制作を依頼したこともあり当時の額縁が登久平の郷里に残る。
登久平の次男、私の夫寿郎によれば家にも良く遊びに来られていた。

 

f:id:TokuheiKumagai:20231007092441j:image

旧谷中清水町、池之端画廊で展示中の作品。

堀進二のレリーフ「洋洋」

大河内信敬の「春の風景」
寺田政明の「薔薇」

 

 

池之端画廊は、三河国吉田藩(現在の愛知県豊橋市辺り)の松平伊豆守信古(維新後/ 大河内信古 1829年 - 1878年)までの江戸下屋敷跡にある。

明治維新後に大河内信古が子爵となり、江戸下屋敷は大河内子爵邸となった。

信古の息子(養子で娘の婿)で大正天皇のご学友、物理学者で科学者の天国と呼ばれた理化学研究所理研)の3代目所長の大河内正敏子爵の息子が大河内信敬。

 

太平洋戦争敗戦前は谷中清水町のほぼ全体が大河内子爵の敷地だった。
池之端画廊の敷地は大河内正敏から代表の祖父で日本画家の望月春江が譲り受けた。

 

(大河内正敏は旧上総大多喜藩主で、子爵大河内正質の長男として東京浜松町に生まれた。のち旧三河吉田藩の子爵大河内家(江戸時代前期に活躍し、「知恵伊豆」と呼ばれた老中松平伊豆守信綱の子孫の家系で、大多喜藩主家の遠縁)の養子となり、最後の藩主・大河内信古の娘を妻に迎える/Wikiより)

 

f:id:TokuheiKumagai:20231007094137j:image

池之端画廊で展示中の木内克のテラコッタ、デッサン、レリーフ
レリーフには『「まごころ」女神』の題がある。
この3点のモデルは上野桜木町に在住だった松平郷松平家(家康の本家)二十代目の殿様作曲家の松平信博さんの娘である須美子さん。
一時期木内が住んでいた朝倉文夫の持ち家の隣が松平家

 

f:id:TokuheiKumagai:20231007094317j:image

池之端画廊で展示中のご近所に住んでいた谷中清水町発祥の白日会に属し、独立美術協会に移籍した画家。

谷中初音町4丁目在住だった島村三七雄の「けしの花」我が家に教え子の絹谷幸二を連れてきた人。

谷中初音町2丁目、宮崎精一「木山の渕」昭和19年熊本人吉に帰郷、実家は旅館。独立美術系の常宿。

 

 

 

 

メモ

宮崎精一 谷中初音町2-3

(熊本美術館で1988年に開催された宮崎精一展の図録より。)
『1943 (昭和18年)31歳
(宮崎精一は)図画教師をやめ、 上京。
荒川区尾久町の畳屋の二階を間借して制作に没頭する。
近くに軍の戦車工場があり、道路をタンクが通るたびに、四畳半二間がゆれて、 キャンバスがぐらつく。
熊谷登久平の紹介で、 谷中初音町に転居。
墓地の近くにあって静かな環境であった。
近くに島村三七雄、鶴岡政男、 堀進二、 熊谷登久平がいた。
熊谷宅には、時おり里見勝蔵が訪れ、 里見よりヴラマンクについて話を聞く。
青樹社展に出品 (白日会関係作家は、中沢弘光、 伊藤清永、 島村三七雄、熊谷登久平、 小島真佐吉、 川村精一郎、山道栄助、 梅津泰助、 平松譲、大河内信秀、吉川弘、 宮崎精一)

熊本県人吉出身の宮崎精一の生家は料亭旅館、彼は戦前東京で料理の修行時代に画学校で学び、白日会と独立美術協会などの公募に出品するうちに熊谷登久平らと交流をするようになり、戦前帰郷後は熊谷登久平や林武らが次々と人吉を訪れ滞在した。

人吉時代、戦時中に赤色を使った絵を描いたことで特高に目をつけられた宮崎は登久平の勧めで東京でまた暮らし始め、谷中初音町2丁目に家を借りる。

東京への空襲の危険が強くなり、宮崎は人吉に帰った。

熊谷登久平の川端画学校時代からの友人の海老原喜之助の東京のアトリエ兼自宅が空襲の被害を受け、喜之助が郷里の鹿児島に向かう準備中に鹿児島にも空襲があり、途方にくれていた彼に登久平は人吉の宮崎精一の実家の旅館を疎開先として勧め、宮崎にも手紙を出した。海老原は人吉で戦後も暮らし、女性それぞれに合うファッションを教え、海老原は人吉の婚活にも大いに貢献したという。

 

戦後、宮崎の甥が熊谷登久平に弟子入りした。


(昭和6年頃の長谷川利行の住所は「谷中初音町2-5」熊谷登久平の住所は「谷中初音町2-6」)

 

 

3行でOKな時代についていけない。

Twitter構文を求められても私にはその能力も教養もない。

 

 

https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/55288038361.htm

『この頃、谷中墓地近く初音町の福井宅に引越す。(『美術新論』5月号「消息」に「東京下谷区谷中初音町2ノ5へ移転」)。

 夏頃、「渡仏研学の資の一助とする為」彩美堂で個展と画会をひらく。

 パトロンの一人となった衣笠静夫を知るのもこの頃か。また下谷真島町の太平洋美術学校ちかく、本郷団子坂の茶房「りゝおむ」を発見。31年から34年のあいだに、「りゝおむ」で小品展をひらく。寺田政明を知るようになる。「四十歳前後の長谷川は、ちょうどドヤ街の芸術家という感じであった。リリオムのおやじ中林政吉さんの紹介で私たちはすぐ親しくなった。私の下宿は谷中のモデル坂の墓地に向き合った辻ハウスという化け物屋敷みたいなところであったが、長谷川は私の下宿をたずね、私の作品を観ていろいろと話した末に団子坂近くの飲み屋で『焼ちゅう』を飲み、一層とけ合ったのをおぼえている」。「彼独特の美しい色彩を織り込んだフォーヴィックな作風に私たちはすっかり参って、彼の周辺には、我孫子真人、中村金作、吉井忠、麻生三郎、私など若い画家グループが出来るようになった。三崎町の寺のそばに中村の下宿があった。その二階の六畳間で長谷川を混えて裸婦のデッサン会を何回もやったことを思い出す」(寺田政明「長谷川利行の思い出」)。「利行は当時、龍泉寺簡易宿泊所に泊まっていまして、泊まっているとはいうけれど、安酒飲んで、行きあたりばったり、野宿も平気でするような生活でしたが、利行も『リリオム』で個展などをして、何となく、谷中の画家仲間のそういうつき合いで知るようになったんですね」(寺田政明『寺田政明画集』)。「長谷川利行に会ったのは昭和六、七年頃で、私が太平洋画会研究所の時代であった。谷中のある額縁屋の店先で彼の作品をよく見かけた。縁を見せるためであったが、そのなかの絵に驚いた。それが長谷川利行の作品であった。二科会ではよい作品を見た。烈しいかたまりである」(麻生三郎「長谷川利行」)。』

 

f:id:TokuheiKumagai:20231007194725j:image
f:id:TokuheiKumagai:20231007194728j:image
f:id:TokuheiKumagai:20231007194722j:image