熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

池之端画廊用メモ2

酸素95

機械脈81

実測62 脈跳びなし

血圧130-62

 

上野桜木にあった『ル・カポー』についての記述

 

この頃のことを利行の死後、矢野文夫編纂発行の『夜の歌(長谷川利行と藝術)』(邦画荘、一九四一年十一月十五日)の中で登久平は「墓と塔のある上野の山のおく、ここは若い長谷川にも私にも巴里の連中のように、モン・マルトルであった。この私たちのグループのために、『ル・カポー』といふ酒場が東京のモン・マルトルにつくられた。この酒場が、私たちに飲み倒されるまでの一年間ほど、私たちにとって幸福なことはかつてなかったであらう」

 

 

https://www.culture.city.taito.lg.jp/bunkatanbou/city/ueno_sakuragi/japanese/guide_01.html

 

橋本八百二と鈴木千久馬 の関係

(上野桜木の佛雲堂1927年創業)開店第一号のお客様は、橋本八百二さんだった。美校二年生だった橋本さんは、本郷駒込神明神社裏手にあった当時外遊中の鈴木千久馬先生のアトリエを借りて住んでいた。
犬好きの彼は、学校から帰ると、犬の散歩に毎日かかさず出歩いた。 犬があまり好きでない私にはよく解らないが、土佐犬 秋田犬か、ともかくすごく巨きな獰猛なやつを太い綱で肩からつないで走るようにしていた。玄関入口の大きなカシの中につないで一服しながら画材を求められた。

『浅尾丁策 金四郎三代記―谷中人物叢話 1986年 芸術新聞社 より抜粋』

 


堀進二

谷中三崎町の立派なアトリエに住んでいた堀進二先生は、骨董好きで随分良い物を沢山持っていた。
夕方になると散歩を兼ねて、谷中から団子坂辺りの道具屋を歩かれていて、時々顔を合わせる。しかし 、なかなかの目利きて、生半可な物は御買いにならない。
会う度毎に遊びに来いと言われ て、或る時行って見て驚いた。大変なコレクションで、解らない物は懇切丁寧に教えて下さった。それからは時々伺っては、難しい物を持って行き教えてもらった。

『浅尾丁策 金四郎三代記―谷中人物叢話 1986年 芸術新聞社 より抜粋』

 


堀進二

没年月日:1978/03/27
分野:彫刻, 彫刻家 (彫)
彫刻家、太平洋美術会会長堀進二は、3月27日心筋こうそくのため東京文京区日本医大付属病院で死去した。享年87。

明治23年5月5日東京赤坂区に生まれ、同39年谷中の太平洋画会研究所に入り新海竹太郎に師事して塑造を学ぶとともに同44年まで同所でデッサンも学ぶ。同44年隊へ洋画会展に出品、同会正会員となる。大正4年、第9会文展に「若き女の胸像」を出品し褒状を受け、翌5年から7年まで「H老人の肖像」(第10回)「肖像」(第11回)「老人」(第12回)で連続特選を受賞した。同8年第1回帝展に「寺尾亨氏の肖像」他1点を出品、またこの年から審査員をつとめた。また、昭和3年東京帝国大学工学部建築科の講師を依嘱され(同21年まで)、同6年には東京工業大学建築学科講師を依嘱さる。戦後は日展に出品し審査員をしばしばつとめ、一方太平洋画会に所属して戦災より焼失した太平洋美術学校の復興に尽力し、同32年開校と同時に同校々長となって後進の指導にあたった。同33年新日展発足とともに日展評議員となり、同35年第3回展に出品した「人海」で日本芸術院賞を受賞、また、同25年から千葉工業大学教授(意匠学科)をつとめた。作品は他に東大の「浜尾総長像」「足を洗う女」などがある。

出 典:『日本美術年鑑』昭和54年版(286頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「堀進二」『日本美術年鑑』昭和54年版(286頁)
例)「堀進二 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9566.html(閲覧日 2023-09-21)

 

プールヴーモデル紹介所沿革

1927年、プールヴーモデル紹介所の創始者の浅尾丁策が、画材店の浅尾拂雲堂を創業する[4]
1947年、浅尾丁策が、浅尾拂雲堂にてモデルの斡旋を行う[1]
1948年、浅尾丁策が、浅尾拂雲堂の2階に、「プールヴー美術研究所」を開く
1949年、浅尾丁策が、「プールヴーモデル紹介所」を設立する[1]
1990年頃、モデル登録者が、北村美術モデル紹介所と共に200人ぐらいとなる[1]
2000年、創業者の浅尾丁策が死去する[1]

 

「プールヴー」とは、フランス語で、Pour vous であり、日本語に訳すと「貴方がたのために」となる。(英語でfor youの意。)「貴方がた」=画家、彫刻家のためでもあり、モデルのためでもある。彫刻家の木内克の命名である[1] 。 (※ 「pour vous」は 仏語の文法上、二人称単数形である「貴方のために」ではあるが、木内克は「For you」の持つ二人称複数形・敬称「貴方がたのために」という意味で命名した。

 

Wikiより。

 

鶴岡政男
かつても上野桜木町界隅には画かき仲間がまだ大ぜい住んでいて、芸大の近くにある画材展浅尾拂雲堂は私たちのたまり場になっておりました。
店の前にあった倉庫の二階は主人丁策さんの細工場であったり、プールヴーというモデルクラブだったり、クロッキー研究所だったりして私もよく出入りしました。そして時々近くに住む仲間の親ぼく会には店の二階の一室がつかわれ、よく集まった連中は野間仁根、島村三七雄、熊谷登久平、田代光、桑原実、大河内信敬、木内岬、紅一点の朝倉摂さんなどで、二昔半も前のことなどなつかしく思いだされます。

【以下は略しても良いかと/熊谷明子】
ずいぶん前のことですが倉庫の二階で仕事のあい間にこつこつと描いた小さい絵を何点か見せてもらいました。何かとても楽しい感じの絵であったと記憶しています。 此度、その絵の個展を開くそうで、さぞやたのしいことになるのではないかと期待しております。

『浅尾丁策 昭和の若き芸術家たち―続金四郎三代記〈戦後篇〉 1996年 芸術新聞社』収録

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熊谷明子さんをはじめ、丸井隆人さん、松山庭園美術館、太平洋美術会の協力を得て、
㊗️芸工祭前半企画
2023.10.4から10.15
上野の森を巡る画家たち展
開催いたします。

聞けば、芸工祭とは100年以上も続く谷根千地域をあげての歴史ある祭りだそうです。

今回は清水町(池之端四丁目)ゆかりの画家大河内信敬、望月春江、丸井金猊らをクローズアップに、上野不忍池の石碑のある長谷川利行、熊谷登久平から絹谷幸二のエピソード話、真島町にありました太平洋美術会会長の堀進一、朝倉彫塑館の朝倉文夫、木内 克らの彫刻家の活躍を紹介していきたいと思います。

皆様のご協力のもと
お陰様で素晴らしいラインアップとなりました👍池之端スタッフさんともに、今後ともよろしくお願いします。

   池之端画廊 鈴木弘子

⚫︎展示者の名前
朝倉文夫 1883〜1964
堀 進二 1890〜1978
富田温一郎1887〜1954
長谷川利行1891〜1940
木内 克 1892〜1977
望月春江 1893〜1979
熊谷登久平1901〜1968
大河内信敬1903〜1967

島村三七雄1904〜1978
丸井金猊 1909〜1979

寺田 政明   1912〜1989
張替正次 1914〜2003
鈴木美江 1932〜
絹谷幸二 1943〜
岡本明久 1951〜

松本昌和 1972〜