熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

昭和19年 戦時下の画家たち 第十四回独立美術協会 戦時特別文展

美術年鑑などのバックナンバーを追うのが辛い老眼な遠近両用メガネの還暦女。

腰の骨が溶けてから長時間座るのも辛いわ、集中力が無くなったわ。

『昭和期美術展覧会出品目録 戦前篇』を見に資料室に通うのも予約で時間制限有りが辛いわ。

ユンケル黄帝液とリポビタンDとブラックのコーヒーと明治のアーモンドチョコレートで稼働時間を作ってきたけど、それがどんどん短くなってきた。

それでも欲しかったピースが見つかった時の喜びは麻薬のようだ。

 

 

 

 

f:id:TokuheiKumagai:20230531022443j:imagef:id:TokuheiKumagai:20230531023647j:image

 

『第十四回獨立美術協会展 (二月二十三日?) 三月十五日 都美術館
東朝 資材の質的低下が著しく目についく。

顔料の発色の悪さが、会場をどんよりした空気で包んでいる。

画面の汚れてゆくのは作家の罪ではないかも知れないが、こういう時代には、新しい構想や主題でこの困難を他へ転換すべきだろう。
少くとも今日は、綺麗な画面の装飾的効果等を気にして筆をとる時ではない。もつと大胆に主題と取組む必要がある。
農村や漁村の生活を扱ったものに佳作がある。 秋の収穫期を描いた斎藤長三、富寅の雪國の人々、居串佳一の北海漁猟などは量質ともに優良の方で、沈滞した会場は、これら三人の活動で幾分か引き締まったようにみえる。
その他は熊谷登久平の香取、鹿島、宮崎精一の霧島山など神域を題材としたものや、山道栄助の早朝鍛錬がやや見るべきであり、主題面ではないが菅野圭介の山村冬日、長島常吉の雪の山村など目立つ部類である。
上層部の会員は概して不活発である。児島善三郎の三点中では池畔風景が注目されるだけであり、須田國太郎の石組習作も格別のことはない。鈴木保徳の海景や野口弥太郎の小品も色感の良さはあるが、これも上乗の作とはいえない。
この級の会員では中山巍の小品三点と、清水登之の二点が秀作で、それらはいずれも南方を主題としたもの、技術もかなりしつかりしている。』

 

f:id:TokuheiKumagai:20230531030659j:image

 

またこの書籍中、昭和19年の戦時特別文展の項目、出品作の中に熊谷登久平「潮来朝霧」の文字があった。登久平の生家、一関市千厩の熊谷美術館(本家)所蔵、制作年不明で

あるf:id:TokuheiKumagai:20230531122545j:imagef:id:TokuheiKumagai:20230531122549j:image

潮来朝霧」が該当作品だと思われる。

欲しかったピースだ。

 

去年、義父のふるさと千厩が開催してくださった「熊谷登久平生誕120周年展」でじっくり観察し、「このタッチは昭和19年香取神宮と似ています、この時代の作品じゃないですか」と熊谷の本家の人に偉そうに言った手前、不安で仕方なかったけど、多分あってた。かな。

 

手に入りにくくなった画材をやりくりして薄塗りでと感じた二作品、使っている絵の具も同じなので同時代と思ったの。

常磐線で移動して利根川を渡り滞在して描いたのかなと。

好きな作品であります。

そして銃後の日常が描かれていて、私には貴重な作品でもあります。

この時代、画家が画材を入手するには時代にじゅんずるしかなく、国の方針に沿った絵を描かないと絵の具の入手どころか当局に捕まることさえあった。

絵の具が欲しくて探し回ったエピソードを上野桜木の佛雲堂の浅尾丁策さんも書き残している。

そんな時代の展覧会評に絵の具にかこつけて暗いと書いた記者は無記名。

時代だ。

 

登久平らがこの時に使った茶色の絵の具については以下のサイトの 足立元氏執筆の「日本美術及工芸統制協会・日本美術報国会」に詳しい。

https://artscape.jp/artword/index.php/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%8F%8A%E5%B7%A5%E8%8A%B8%E7%B5%B1%E5%88%B6%E5%8D%94%E4%BC%9A%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%A0%B1%E5%9B%BD%E4%BC%9A

以下抜粋

『洋画家、日本画家、彫刻家、工芸家たちはそれぞれ自主規制のための翼賛的な団体を組織して、制作のための資材の確保に努めていたが、43年5月に日本美術及工芸統制協会(美統)と日本美術報国会(美報)の二つの組織に集約された。美統は美術制作資材の統制を行なうものであり、美報は前年に組織された文学報国会に倣ったものであるが、両者は表裏一体の組織として戦争美術の振興すなわち「彩管(=絵具)報国」に貢献した。美術家は、これらの組織に加入しなければ作品制作のための資材配給を得られないという事態になっていた。表現としては、当時耐久性において信頼のおける絵具が茶系色に限られた。そのために藤田嗣治戦争画に茶系色が多用され、そのほか多くの戦争画にも同様の茶系のモノクローム絵画が増えたといわれる。』

抜粋終わり。

f:id:TokuheiKumagai:20230925092827j:image

 

 

 

キャンパスも入手しづらくなり登久平は疎開先の山形に持っていった長谷川利行が描いた(谷中のアトリエを守らたまに疎開をしなかった)内縁の妻衣子の肖像画の上に絵を描いてしまったことを戦後後悔していた。

 

 

f:id:TokuheiKumagai:20230531124207j:image

この戦時特別文展は、

「 1943年3月から、 美術団体の間では各個の団体を解消し、一元化する動きが始まった。 1944年9月には情報局作成の「美術展覧会取扱要綱」 に基づいて、当局は一斉に展覧会を中止し、団体を解散する方向を打ち出し、文展も延期し、 公募によらない 「戦時特別美術展覧会」が開催された。 課題は予め決められており、

① 国体の清華、国土、国風を讃えるもの

② 戦争を主題とするもの

③戦時国民の敢闘生活を描くもの
④その他国民生活を明朗闊達ならしめ戦意の昂揚に資するものとされていた。

 

日本大学大学院総合社会情報研究科紀要 No.7,515-526 (2006)
彩管報国と戦争美術展覧会
一戦争と美術 (3)
増子 保志 日本大学大学院総合社会情報研究科 より抜粋」

https://gssc.dld.nihon-u.ac.jp/wp-content/uploads/journal/pdf07/7-515-526-masuko.pdf

 

戦争画を描きたくなくて、でも絵を描きたい登久平の選んだ題材なのですね。

 

f:id:TokuheiKumagai:20230531123607p:image
f:id:TokuheiKumagai:20230531123612p:image

 

f:id:TokuheiKumagai:20230531212342j:image
f:id:TokuheiKumagai:20230531212345j:image
f:id:TokuheiKumagai:20230531212339j:image