日本美術報国会創立
記事番号:00818
年月:1943年05月
大政翼賛会文化部では文部省と情報局との協力のもとに全日本美術作家を一丸とする社団法人日本美術報国会を創立し、その創立総会を十八日発起人二百八十余名参集のもとに開いた。横山大観会長に就任と共に各部の部会長、幹事長を次の如く決定した。第一部(日本画)野田九浦、山口蓬春、第二部(油絵)辻永、木村荘八、第三部(彫塑)石井鶴三、加藤顕清、第四部(工芸)高村豊周、山崎覚太郎。この部会長、幹事長は何れも理事となるが、このほか理事には芸術院会員の各部から一名づつが就任した。
登録日: 2014年04月14日
更新日: 2020年12月11日 (更新履歴)
https://www.tobunken.go.jp/materials/nenshi/5440.html
http://tubonotubo.world.coocan.jp/syazitu1.html
以下、『写実から空想への軌跡 坪内 正 ― 人と作品 瀧 悌三』
から抜粋
『就職、兵役、シベリア抑留
年譜によると、美校研究科を修了(3月)して半年後の昭和12年(1937)9月、東亜宣伝工作研究所に入所し(15年3月退所)、同14年3月、内閣情報文化部文芸課勤務である。共に国策の線に乗っての情報宣伝の仕事に従事して就職したことを意味しよう。日中事変下で太平洋戦争が始まる以前である。
就職したのは、独立して生計を立てるのに、絵画専業では不可能であったからに相違なく、やむを得ない緊急避難的選択であったろうし、その仕事も芸は身を助けるで、応用美術のデザイン、ポスターの分野のものだったろう。だが、画家として立つには、まともな就職は非常に危険でマイナスに作用する。本格の絵画制作からいつしか遠ざかるせいである。そして実際にそれ以後、太平洋戦争に突入で、働く部署はいわゆる「情報局」の内閣情報局に組織替えとなって、昭和19年4月の召集で職場を離れるまで総計6年半、内閣情報部もしくは情報局で文化部美術係を担当、これが画家としての本格的スタートを遅らせる。
いや、そればかりでない。召集で華北で兵役に服すが、終戦後、ソ連軍に武装解除されて、シベリアに送られ,4年半もの長い間抑留生活を送る。これでまた画家生活はさらに先へと遅延させられた。
就職と兵役とシベリア抑留との期間を合計すると、美術研究科を出て以後実に13年間、本格の制作に没入する生活から離れていた。これが、坪内正の生涯の画家としての歩みを通常画家のペースよりも決定的に遅らせ、また坪内自身、遅れているという焦燥感からなかなか抜け出られなくて、長い間、苦しみ悩むことになった、と思われる。
またその一方、内閣情報部もしくは情報局の美術の仕事をしたことは、デザイン及び広告宣伝への関心や技能を深めさせ、晩年の70歳台までその方との関わりが続くこととなっている。
なお、坪内正のシベリア抑留生活が、通常よりも長期であるのは、情報局の仕事に就いていたことをソ連側に密告され、そのため戦争協力の度合いが重く深いとされて、帰還が延ばされたため、とのことである。』
抜粋終わり。