熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

メモ 川端画学校 富永勝重 富田里要 の謎 旧制一関中学美術部出身の白石隆一画伯と熊谷登久平

義父熊谷登久平(徳兵衛)の旧制一関中学美術部の後輩で、共に川端画学校に通った白石隆一画伯の展覧会が来年一関市千厩で開催されるそうだ。

 

残念ながら私が岩手県立美術館に行く日程と重ならないので画伯の作品は県立美術館で見ることになる。

 

 

白石画伯は魚の絵が有名な肌感覚。でも某日オークションに出品され私も入札に参戦した画伯の昭和30年代の一関の風景画にも惹かれるものがあった。

 

私、画伯の作品、雉、魚の静物とパリを描いた作品を直接観たことがあり心惹かれたがオークションの写真で観た一関の風景画結構好きだ。

あの絵は欲しかった。

 

 

 

 

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https://www.facebook.com/profile.php?id=100066744753871

 

夫によると、白石隆一さんは夫が物心がついてからも家にいらした記憶があるとか。

義父と同じ先生、富永先生に学んだ話しなどを(歳をとってからできた溺愛息子で長く一緒にいられないからと、来客がきても膝の上だったことが多かったとか)、話していたとか。(夫は富田先生だったか富永先生だったかと言っていた。が多分富永先生だろうと)

大正時代から義父を支えた義父より11歳上の衣子さんも同席していたとか。内縁の妻から妾になった衣子さんは正妻となった義父より22歳下の義母を立て、義父の新しい縁とは同席しなかったと聞いている。

が、白石画伯がいらっしゃると同席したのは戦後に義父と結婚した義母よりも、衣子さんの方が近しかったからだろう。

 

そういうことがある時代ではあったけど、妻妾同居の家の複雑さ。でも衣子さんは登久平の子らからはおばあちゃんと慕われ、衣子さんも2人を可愛がっていたそうだし、衣子さんが寝たきりになったときは義母が面倒を見ていたので、外野がどうのこうの言えないが。

(父が外で作り妾腹と呼ばれて育った私には複雑ではある)

 

画家と女性関係。

白石画伯と同時期に川端画学校で学んだ岩手県出身者の橋本八百二、熊谷登久平は妻以外の女性も愛するタイプで、子は本妻以外では成してないが……

(あー、昔は画家もてたし。連続殺人犯の大久保清は画家を自称して女性を誘ったぐらい、昔は画家はモテる)

何回も書いてるけど登久平が夫の母親を入籍した時に自殺したモデルさんもいらしたそうだし。

 

でも、白石画伯は本妻以外の女性を愛さない会をつくっていたというエピソードが残っていたりもする。

義父が大正時代、中央大学、川端画学校時代から支え、結核で倒れた時も献身した衣子さん以外に子を作り入籍までしたこと、衣子さんをよく知る人たちの反発を招き、義母も厚かましい女として義父の親戚から嫌な思いをしたそうだ。

その時の愚痴を正妻となった義母は晩年口にしていたそうだが。

 

白石画伯も義父に呆れた一人なのかなと思うこともある。

妻を大事にされたようだし。

 

 

話しを戻すが、義父が川端画学校で指導を受けた藤島武二と富永勝重。

藤島武二のことは義父石膏デッサンの時のことを書き残しているが、富永勝重のことは私が読んだ中にはない。

 

https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/18,16154,137,262,html

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が、1929年昭和4年の読売新聞の記事に富田里要に師事とある。

これ多分写植ミスだよね。

それとも富田先生って方がおられたのだろうか。

 

あと、岩手県出身の洋画家の萬鐵五郎が1927年5月1日に亡くなってからの記事だけど、岩手唯一の洋画家もひっかかる。1929年に帝展に入選した橋本八百二がいたじゃん的な。

 

(橋本八百二と言えば、私の親戚のお祖父さんが八百二の弟子で二人展もやっていた。お付き合いのある画家夫婦のお祖父様の鈴木千久馬が洋行していた時に留守宅を預かっていたのが八百二で犬の世話をしていたとか)

 

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白石隆一画伯は1928年に帝展入選だし。

とか脱線しまくりですが、

 

 

 

義父と白石隆一画伯は川端画学校で富永勝重に学んだのは間違いないよね。

と、書いたけど、あの時代に川端画学校で学べばそうなるってことで、我が家で美術部や画学校時代を話していたとかは幼い夫のうろ覚えなので、師事と書いて良いのかは判断できない。が、義父の初期作品と白石画伯の作品には同門の色があると私は思っている。(個人の感想です)

 

しかし、白石画伯の評伝本『美は脊椎にあり―画家・白石隆一の生涯/小池平和著/本の森 (1997/11/23)』には画伯は川端画学校時代に岡田三郎助に学んだとあり、岡田三郎助は本郷洋画研究所だけなく川端画学校でも指導をしていたんだと驚いたり。

 

 

 

https://amzn.to/48ClUA0

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タイトル美術新論 8(9)

出版者美術新論社
出版年月日1933-09

 

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https://art.bunmori.tokushima.jp/srch/srch_art_detail.php?pno=1&no=10638


徳島県立近代美術館による「富永勝重」の詳細情報

富永勝重
トミナガカツシゲ
TOMINAGA KATSUSHIGE
出身地
徳島県徳島市
生没年月日
1884年~1958年
略歴
1884年徳島県に生まれる。1958年没する。徳島師範附属小学校を卒業し、郷里で森魚淵に師事して日本画を学ぶが、後に上京して1908年に東京美術学校西洋画科を卒業する。1915年第9回文部省美術展に入選。上京間もない頃は、藤島武二のもとに内弟子として住み込み、藤島の薫陶を受けた。1914年川端画学校に洋画部が開設されると洋画部幹事(後に教授)に就任し、学生の指導にあたった。1945年に同校が廃校となるまで、多くの画家を育て、日本の洋画界に大きな功績を残した。

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Wikiの方には富永勝重と書いたのに、こちらでは富田勝重と書いてました。自動変換ミスです。

 

 

 

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