海老原喜之助は熊谷登久平と同時期に小石川区の川端画学校で学びつつ、アテネフランセでフランス語を学んでいた。これは渡仏への準備であった。
かたや登久平は中央大学で商業について学んでいた。岩手県千厩の豪商日野屋の跡取りとして生まれ育ち、親に内緒でこっそり川端画学校で洋画を学んだ登久平の画学生時代は、海老原喜之助の自画像について書かれた「日本の自画像/桑原住雄著/南北社1966年5月30日発行」で垣間見える。
渡仏前、海老原は登久平に「もっと絵を描け」と、まとまった数の作品を渡しその中に自画像があった。
その絵を潰すのは惜しいと登久平は大事にしまっておいたが、関東大震災に遭い家は全焼する。
が、海老原喜之助の自画像は無事で、その後帰国した海老原にその話をすると喜んで裏にサインをした的な。
同時期、川端画学校に岩手県出身の橋本八百ニもいた。
橋本八百ニも渡仏前に海老原は絵を渡し、その中にも自画像があり、今海老原の自画像として有名なのは橋本八百ニが持っていたものみたいなぁ。
以前、熊本県立美術館に登久平が人吉に残した絵を探して電話をして学芸員さんと海老原さんの自画像の話しをした時に違和感があり、熊本で展示された海老原さんの自画像の写真を求めて(図書館がコロナ禍で閉まってる)図録を先日購入できた。
その図録にある自画像は橋本八百ニに渡されたものだった。
不思議なのは橋本版自画像の方が野獣派的なタッチで、熊谷版は正統派的な。
とか素人考えです。
岩手県出身の画家二人が鹿児島出身の海老原喜之助画伯の若き自画像を持っていた縁をつらつらと。
熊谷登久平が持っていた絵は行方不明。
登久平が亡くなったあと、義母が放心状態だった時に縁が薄い人たちが次々と伊万里コレクションや他の画家の書画を約束していたと言って持ち出した中に含まれていたと思われます。
義父のお弟子さんたちバリベア会のメンバーが気がついた時にはかなり持ち去られた後で、良寛コレクションはレプリカに代えられて残されていたとかなんとか。
その後、バリベア会のメンバー宅に残ったものを疎開
させた的な。
以下、橋本八百ニが持っていた自画像とエピソード。