義父が戦前所属していた美術団体の白日会は中澤弘光らが大正13年に結成し、事務局は谷中清水町にあった。
中澤らが結成準備をしていた大正12年に関東大震災が起きる。↓、江戸東京博物館が所蔵している中澤弘光の「流言蜚語」
https://www.edohakuarchives.jp/detail-4202.html
↓私の個人蔵の中澤弘光が描いた、おそらく「吉原」の遊女たち。
つか誰か詳細を教えて。
詳細を知る人を探したけど見つからず。
コロナ禍が終わったら早乙女勝元先生が参りたいとおっしゃられていた。先生はある程度震災関係の資料も集めておられたので、この忘れられている石碑について報告をした時にかなり気にされていた。
↓谷中眞島町の太平洋画会の中村不折が描いた「上野大仏」震災で首が落ちた。
今は顔だけが残っている。
この日、上野の山では二科展とが再興院展が始まり招待日で画家たちが集っていた。
外にいた入れない画学生の目撃談では展示場の屋根が波うつってのを読んだ記憶があるけど、どの本だったか忘れた。
【震災・パンデミック · 2014/01/30 (たけいとしふみ 美術評論家/府中市美術館学芸員)】
関東大震災と美術―震災は美術史にどのような影響を与えたか
「日本近代美術の社会史」
2013年9月・10月、日本美術会附属美術研究所・民美で、「日本近代美術の社会史―震災と戦争から」
以下引用
「美術界への影響だが、まず展覧会の中止がある。秋口の土曜日であったので上野公園内の竹之台陳列館は、第10回を迎えた再興院展と二科展の招待日だった。作家たちが会場に集まってきた頃、地震が襲った。展示は即時中止で、秋の帝展も中止された。被災の実態だが、美術家の死者は少なかったといわれている。なぜなら、作家のアトリエは下町に少なく火災を免れたからである。他方、中心部に集中していた研究所・画廊・出版社等はほとんど全焼した。文化財の被害では、『大正震災志附録』に大倉集古館を含む164氏の所蔵家の損害が記載されており、失われた美術品は少なくない。
美術界の復旧は早く、救援活動も行われた。東京会場が中止となった院展と二科展は、地方展を実施する。院展は大阪と法政大学で、横山大観の全長40mに及ぶ山水絵巻《生々流転》などを展示した。二科展も、大阪、京都、福岡に巡回して大きな反響を呼ぶ。展覧会での収益は、被災会員の救援にも使われた。募金活動も行われ、後述する徳永仁臣(柳洲)ら東京青年画家同人会の「移動震災実況油絵展覧会」は、各地を巡回して義援金を集めた。また海外からの支援もあり、翌年11月には内務省社会局主催で「白耳義国作家寄贈絵画展覧会」が開かれ、皇族も購入して完売した。」
「東京美術学校在学中の永田一脩は、横山潤之助宅で地震に遭遇し、九段下の実家を焼失した。自警団に襲われ、高畠達四郎に助けられた。」
引用終わり
関東大震災から100年後の美學(東京藝大)の祭
中央大学生で川端画学校生だった熊谷登久平(熊谷徳兵衛)の自宅も消失し、多くの作品が失われてしまった。
以下熊谷登久平の震災体験が垣間見える
「日本の自画像/桑原住雄著/南北社1966年5月30日発行
『渡仏前、海老原は登久平に「もっと絵を描け」と、まとまった数の作品を渡しその中に自画像があった。
その絵を潰すのは惜しいと登久平は大事にしまっておいたが、関東大震災に遭い家は全焼する。』
(海老原喜之助の自画像は無事で、その後帰国した海老原にその話をすると喜んで裏にサインをした)」
この日、登久平はどこにいたのだろう。
中央大学の資料によると、この日はまだ夏休み中。二科に憧れていたから上野の山に集まっていた画家の卵たちの1人だったのかも知れない。
中央大学の資料によると、4700人の学生・教職員のうち火災にあった者は942人、この火災にあった中に登久平も含まれる。
(死亡者は学生が7人。)