熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

池之端画廊用メモ

体温6.3

脈機械 85

実測66

血中酸素98

血圧100-80

 

朝倉 響子/あさくら きょうこ、1925年(昭和1年)は、日本の彫刻家。本名は矜子。彫刻家朝倉文夫の次女として東京府東京市下谷区谷中天王寺町(東京台東区)に生まれる。姉は舞台美術家で画家の朝倉摂

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朝倉 摂/あさくら せつ、1922年(大正11年)

東京府東京市下谷区谷中天王寺町(現在の東京都台東区谷中)に生まれる。父は彫刻家の朝倉文夫。妹は彫刻家の朝倉響子。娘は文学座所属の女優の富沢亜古。声優の大塚周夫は従弟。同じく声優の大塚明夫は従弟の長男にあたる。

画家の伊東深水に師事し、初めは日本画を学ぶ。1941年、第4回新文展に「小憩」が初入選となるが、翌年より福田豊四郎や吉岡堅二らによる在野の新美術人協会に参加、その流れから戦後は創造美術に参加。(Wikiより)

 

朝倉文夫

1883年(明治16年)、大分県大野郡上井田村(現豊後大野市朝地町)生まれる。

1902年(明治35年)、当時既に東京で新進気鋭の彫刻家として既に活躍していた9歳年上の兄・渡辺長男を頼って上京。

翌年東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻選科に入学、寸暇を惜しんで彫塑制作に没頭した。モデルを雇う金がないために上野動物園へ通って動物のスケッチをするうち、たまたま教授からの紹介を受けた貿易商の注文で動物の像の制作を始めほぼ一日に一体のペースで卒業までに1200体以上に及んだ。このころ、当時の海軍省が募集していた三海将銅像に「仁礼景範中将像」で応募し1等を射止め注目される。

1907年(明治40年)、卒業制作として「進化」を発表し研究科へと進み谷中天王寺町にアトリエ、朝倉塾を作り子弟の養成にあたった。

 

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厚生省の冊子ねんきんの題字は朝倉文夫

扉絵熊谷登久平の号より。

 

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大河内信敬 /おおこうちのぶひろ

1903年(明治36年)東京市下谷区(現台東区)生まれ。洋画家

(明治36年)物理学者・子爵の大河内正敏の次男。谷中眞島町にあった太平洋画会に学ぶ。昭和6年本郷洋画研究所に学ぶ。

仲間からは「しんけい」さんと呼び親しまれる。

戦後占領下の昭和23年、上野桜木町の額縁店佛雲堂に集う谷中近隣の芸術家たちと「谷中会」をフランス語に訳した「カルチェ・バル会」を起こし、第1回展示会を昭和23年6月21日から19日まで佛雲堂の画廊プール・ヴーで開催。その後信啓の口利きにより上野松坂屋で開催された。

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大河内信秀/のぶひで

1913年(大正2年)東京市下谷区(現台東区)生まれ。洋画家 彫刻家 

谷中清水町(池之端四丁目)に邸があった物理学者・子爵の大河内正敏の五男。

谷中清水町で生まれ育ち、太平洋画会と本郷洋画研究所で学ぶ。

戦後隣町の花園町に転居。

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木内克/きのうち よし 

1892年(明治25年茨城県水戸市生まれ。彫刻家 画家

1914年(大正3年朝倉文夫の彫塑塾に入門。大正10年欧羅巴渡航昭和10年までパリで活躍、同年帰国。

同15年東京上野桜木町33番地の朝倉文夫分塾に転居。その後上野桜木町45番地に在住。

晩年は大胆にデフォルメされた裸婦像も手がけた。

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熊谷登久平/くまがいとくへい

1901年(明治34年)岩手県一関市千厩生まれ。

岩手県東盤井郡出身。

大正14年中央大学商学部を卒業。学生時代に川端画学校に入り、大正13年修了。

大正15年このころ長谷川利行を識り、親交を結ぶ。文京区根津の洋食屋北州亭の裏の下宿に住む。昭和2年、白日会展に入選。後に会友、会員に推された。昭和16年まで出展。

昭和3年、1930年協会に入選。昭和5年まで連続入選。この頃、谷中坂町に転居。

昭和4年には「気仙沼風景」「赤松と水車小車」を二科展に出品入選、翌5年には「海」「落日」を出品。この頃、谷中初音町に転居。後に長谷川利行が隣の下宿屋に転居してくる。

昭和16年に谷中南三崎町に屋敷を購入し終の棲家となる。

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久米宏一/くめこういち

1917年(東京・小石川に生まれ。洋画家、童画家。

豊島師範学校卒業。小学校教員を務めながら、太平洋美術研究所で絵画を学ぶ。同校の加太こうじ、井上長三郎らと交流。

戦後、シベリアより復働してから児童向け図~の絵本、さし絵などを描く。現在童画グループ「車」、版の会、日本美術会、児童出版美術家連盟、美術家平和会議などに所属。

1976年、第25回小学館絵画賞受賞。

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寺田 政明/てらだ まさあき、1912年()福岡県八幡市に生まれ。洋画家。

1927年 九州画学院に入学。
1928年 同郷の北川実を頼り上京。東京府渋谷区代々木八幡に居を構え、小林萬吾の同舟舎絵画研究所に学ぶ。

1929年 下谷区谷中真島町1-2の辻ハウスに転居。正面にモデル坂と呼ばれ幾人かが題を取った坂が存在した。

1930年 太平洋美術学校本科に入学。

1932年 第2回独立展で「風景B」が初入選。

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富田温一郎/とみたおんいちろう 1887年(明治20年)石川県金沢市に生れ。洋画家。

明治44年3月東京美術学校西洋画科を卒業した。大正3年第8回文展に「大学校庭の初夏」がはじめて入選して以来、文、帝展に出品し、9年第2回帝展の「母の肖像」、昭和3年第9回帝展の「子供とその母」は特選となつた。

大正13年中沢弘光などと白日会を結成し、終始この会のためつくした。

「富田温一郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所

住居は下谷区谷中清水町6番地(現台東区池之端4丁目)

ここに中澤弘光らと結成した白日会の事務局をおいた。白日会の戦前戦後の会合には富田温一郎宅と同町の大河内宅が使われていた。

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中沢 弘光/中澤弘光, なかざわ ひろみつ、1874年(明治7年)東京市芝区(現品川区)生まれ。

洋画家、版画家、油彩画家、挿絵画家

1900年、東京美術学校西洋画選科修了。黒田清輝に師事。1912年、光風会創立に参加。1922年、ヨーロッパに渡り翌年帰国、金尾文淵堂や兵庫の西宮書院から新版画の作品を発表している。1924年大正13年)1月、白日会を創設した。

白日会創設準備中に関東大震災があり、関東大震災を描いた連作の一部、数点が江戸東京博物館に収蔵されおり、デジタル公開されている。

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野間 仁根/のま ひとね 1901年(明治34年

愛媛県越智郡に生まれ。洋画家

1920年2月川端画学校に入り、同年4月東京美術学校西洋画科に入学、25年卒。

1924年下谷区谷中天王寺三村に寄宿

1927年下谷区谷中天王寺町34に住む。

1928年下谷区谷中三崎町18に移る。

1968年美術人年間掲載の住居 台東区上野桜木2-15-11

1931年佐藤春夫作『武蔵野少女』(むさしのおとめ)の装丁挿絵

 

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布施悌次郎/ふせていじろう

1901年(明治34年)宮城県仙台市に生まれ、大正14年仙台東亜学院専門部英文学部を卒業、上京後翌年、谷中眞島町の太平洋画会研究所へ通う。太平洋画会展へ出品を続け、昭和3年太平洋画会賞を受け会員に推挙され、同6年には太平洋画会委員となった。戦後の同32年、太平洋画会が太平洋美術会と改称され同会委員、翌年から太平洋美術学校教授をつとめる。のち、太平洋美術会会長。

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宮崎 精一/みやざきせいいち

1912年(大正元年熊本県人吉市生まれ。洋画家実家は人吉で料亭旅館河鹿荘と古城を営む。

1930年豊多摩郡戸塚町(現・新宿区西早稲田)にあった日本美術学校に学ぶ。この頃、谷中在住の熊谷登久平らと親交を結ぶ。

宮崎精一帰郷後地元で図画教師になる。上京時知り合った若き画家たちが次々と人吉を訪れるようになる。熊谷登久平、林武ら、戦後は絹谷幸二。

1943 (昭和18年)31歳

図画教師をやめ上京。熊谷登久平の紹介で、 谷中初音町2-3に転居。 墓地の近くにあって静かな環境であった。
近くに島村三七雄、鶴岡政男、 堀進二、 熊谷登久平がいた。
熊谷宅には、時おり里見勝蔵が訪れ、 里見よりヴラマンクについて話を聞く。

(参考資料熊本美術館で1988年に開催された宮崎精一展図録)

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村上鉄太郎/むらかみてつたろう 1899年(明治32年 東京市浅草区浅草(現台東区浅草)生まれ。

太平洋美術学校に学ぶ。中沢弘光に師事し、白日会展に出品、昭和4年(1929)第6回白日会展に「鱒の静物」を出品して白日賞を受賞、その後静物の連作を出品、昭和7年に白日会会員に推挙された。熊谷登久平らと絵と短歌の会まひるを結成、谷中清水町の白日会事務局と浅草の自宅で集う。

 

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↑私の個人蔵「上州武尊」FO号

川口市リリアホールに展示されている村上鉄太郎の「残雪湯沢」P80号ぐらい。

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今日のアンネフランクの薔薇

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