熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

ふるさとこいし 熊谷登久平 1936年独立美術協会関係のメモ

義父の熊谷登久平は晩年ふるさとに帰りたがっていたそうだ。そのため義母は一関市に義父の絵を寄贈することにこだわり、まだ義父の絵が人気あった時に手放さず今に至る。

それでも甥の英三さんと従弟の一男さんたち関係者が動いていてくださったから美術年鑑に名前が残っていたのだと私は思っている。

 

 

美術 11(6)(32)

美術發行所 出版年月日 1936-06

 

「私の出品作・独立展 熊谷登久平
(私が育った)岩手の山中を知っていますか。
(先端の)洒落や流行をやれつたって、それは、私にはできない芸当です。
三十年のあいだ、酒だ、女だ、としたしんできました、いっこうに、その(大人の)味がわかりません。
(旧制一関中学美術部時代)絵筆をとつて十五年もなるが一まいの絵にさへ安心(満足)したことがないのです。
都合の生活につかれたり、あくどい成人生活に
嘔吐をもよおしたくなると坊主にでもなりたくなるが、坊主もあやしいものだと思うと(途方にくれます)あくびが出ます。

私の知っている範囲(生きてきた中)では私が無心に恋をしたり、泣いたりした過ぎ去った御伽噺のくにのやうな懐かしい(のが)こどものときです。 去年もおとしも(ふるさとを)かきましたが、今年も芸のない私は、郷里の祭、七夕、麦畑の雲雀、田舎の唄もうたわれて、島の娘がうたっているだろうところの岩手の風景などかき、出品してお祭りは落選しました。
私は私の仕事についてはおぼれるほどの愛情をも
ていちばん美しいと思ふ心の感情を描き、新しい
仕事を発見するまで私をみつめて、 (ふるさとを)たづねてゆきます。

私の田舎には(石川)啄木や宮澤(賢治)や萬(鐵五郎)さんのいるだけで誇りです。」

宮沢賢治の生家と熊谷登久平の生家は交流があり、互いの弟が晩年まで親友だった。萬鐵五郎には憧れており、上京後に訪ねたと伝わる。

ごめんなさい()で少し書き加えてます。

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第6回独立美術展「七夕」「風景」「雲雀」出品

 

この前年の第5回独立美術展での登久平の出品作品に対する小熊秀雄の評価。これも登久平は意識したのだろうな。

「熊谷登久平 「夕月」「五月幟」「朝顔」その出品画や画題を見ても判るとほりすこぶる 日本的な
作家である。会でこの作家に「海南賞」を出した気持が判らぬが、賞は秀作に出すものだから、きつと秀れた作品といふのだらう。(小熊秀雄全集-19 洋画壇時評 独立展を評す 第六室)』」

 

第4回独立展出品作品。

「風景(岬)」「菜園」「風景(春)」「山百合と娘」

 

東京での生活を満喫しつつ、ふるさとへの慕情を亡くなるまで持ち続けていた登久平の複雑さよ。初期はモダンな大震災から復興していく東京を描いた登久平が、ふるさとこいしで湧きあがるイデアを描いた頃な随筆。

 

 

 

 

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正義感の塊の人と数年間揉めていて、たまに死にたくなる。夫はうまくやってくれというけれど互いに日本語を話していても言葉が通じないので無理。