今日は戦前戦後に義父の熊谷登久平が白日会でお世話になっていた洋画家の富田温一郎画伯の命日。
墓所は谷中霊園の日暮里駅南口から上がりきり右手の甲12地区。
そういえば谷中清水町17番地在住だった円地文子の処女作、短篇戯曲集『惜春』
表紙カットは谷中清水町6番地在住で白日会事務局を運営していた富田温一郎氏。
その話を某氏にしたところ、彼が入札するとのことで無事落札された。
この表紙については円地文子がエッセイで書き残している。
また太平洋美術会や白日会も谷中清水町発祥と言って良い。
雑記
今は池之端となっている谷中清水町は理化学と芸術文学に理解があった理研の大河内子爵の屋敷があった。
(松平伊豆守の下屋敷)
夫と仲が良い酒屋さんは大河内家の領地から維新後、谷中清水町に住んだ。先先代までは大河内家のお嬢様を「姫さま」と呼んでいたと、その同級生だった当主談。
白日会史に出てくる大河内信秀 (おおこうちのぶひで)
大河内子爵家の子息の1人。
富田温一郎の極近所に住んでおり、大河内信秀宅でも白日会の会合があった。
大正3年東京生まれ、師;寺内萬治郎、白日会員、昭和18年新文展入選、サロン・ドートンヌ入選、サロン・チュイルリー入選、白日会展審査員