白日会100周年記念誌のための資料すり合わせなど。
明治七年九月十八日 東京市下谷區谷中清水町に父半之助、母ゆきの長男として生る。
良一呂は雅號にして本名は遼一郎なり。
大正五年 東京市本郷區根津小學校を卒業、京北實業學校に入學す。
大正七年 十六歳の時溪氏に師事日本画を學ぶ。
大正十一年 川端画學校及び本郷洋画研究所に於て洋画を研究。
大正十二年 清原重以智氏、富田温一郎氏に師事、新光洋画會(第四回展)へ出品。
大正十四年 第二回白日會へ出品、その頃の展覽會場は現在の府美術館でなく、竹之台陳列館であつた。これ以後白日會へは毎回出品。
同年洗足へ移轉す。
昭和三年 第九回帝展に「青衣」入選、同年第五回白日會展にて白日賞を受く。
昭和五年 白日會々友となる。また伊勢静止、桂 重英、村上鐵太郎、無縁寺心澄、熊谷登久平、山田義、五島甚之介、秋元松子、木村珪二と共に「まひる」を起し同人となる。
昭和六年 結婚
十二月銀座四丁目川島甚兵衛商店にて「まひる洋画彫刻小品展」を開催、風景、静物等を出品す。
第十二回帝展に「黒衣」出品。この年月日會々員となる。四月白日會朝鮮展(京城商工剛館にて開催)のため京城に赴く。
昭和七年 長男 健生る。
昭和八年 杉並松庵にアトリエを新築。
昭和九年 白日會展に「緑衣」 その他出品、五月京都美術展に「母子像」 出品。
昭和十年 第二部會展に「山男」出品。この頃になつて釣を始む、庭の一部に池を造ったり釣の本
の装幀などをす、又岸田國士氏その他の本の装幀など多し。
昭和十一年 新文展に「畫房の女」 出品。
昭和十三年 次男 龍生る。立陣祇同人となる。
昭和十四年 第一回文展に「バルコン」出品。
(バルコン(〈フランス〉balcon)でバルコニーのこと)
昭和十六年 第三回文展に「夏の子供」出品。又病中魚のデッサンをやる、魚の種類七十にあまる。
昭和十七年 第四回文展に「冬の子供」出品。創元會々員となる。又新興醫療器株式會社、日本精機 株式會社、新興々業株式會社の常務取締役に就任。
三月發病、八月二日死去、新興三証の葬をもつて下谷區谷中坂町本壽寺に葬る。
第二回創元會展に絶筆「栗」他二點を出品。
昭和十八年 野口家及び親戚友人等集り遺作画集をつくる。
メモ 大河内菊雄 大河内信啓さんの息子さん 谷中清水町生まれ育ち
大河内菊雄氏(おおこうち・きくお=元伊丹市立美術館長、美術評論家)2005年6月9日午後9時14分、すい臓がんのため大阪府箕面市の病院で死去、75歳。東京都出身。葬儀は親族のみで行う。喪主は妻美喜子(みきこ)さん。
神奈川県立近代美術館、読売テレビ放送勤務を経て、87年4月から03年3月まで兵庫県の伊丹市立美術館館長を務めた。