226事件のこと、大正12年生まれ東京市深川在住の義母も覚えていたそうで。
その昭和11年、義父は白日会、独立美術協会の他、明治天皇上野公園行幸六十年記念展に「桃」を出展している。(勘違いで昭和10年)
226事件、義父はどう感じていたのだろう。弟は陸軍だし。
来月3/4〜24千葉市立美術館の「コレクション展 房総ゆかりの作家たち 特集展示:無縁寺心澄」観覧無料。
この無縁寺画伯は、上野の山の谷中清水町(池之端)にあった白日会のメンバーで、義父の熊谷登久平(熊谷徳兵衛)の絵と文の仲間でした。
谷中清水町生まれの野口良一呂、浅草生まれの村上鉄太郎、義父たちの青春の日々と暗雲迫る戦前…
野口良一呂は戦時中に病死。おそらく義父と同じく戦争画逃れで会社社長となった。
彼は友人の村上鉄太郎に商人になっていく自分への不安を葉書で送っている。その死後に遺作集を編纂した1人が無縁寺だが、その3年後(うろ覚え)の昭和20年に無縁寺も亡くなっている。
夫は義父の画仲間に餓死がいると聞いたそうだが、裕福な家の御曹司だった無縁寺はその時代に生き、やはり画家だった無縁時の叔父は栄養失調で衰弱して亡くなったとの話がある。
無縁寺は風邪をこじらして亡くなったとか。
餓死した画家で有名なのは版画と挿絵で有名な谷中 安規(たになか やすのり)アンキさんだが、あの時代には少なくなかろう。
戦前の美術家名簿に名があり、戦後消えている人は少なくない。
戦死者ももちろんいる。
空襲で亡くなられた人もいれば、焼け出されて田舎に帰りなかなか中央画壇に戻れなかった人もいる。
義父の川端画学校、1930年協会、白日会公募の仲間で、谷中にアトリエを持っていた徳山巍画伯もその1人だろう。
https://blog.goo.ne.jp/certot/e/f52c250e408f0d5bfd6cfe291e490f8c
沢山描くには絵の具が必要で、軍に協力的な画家になれば画材がある程度は手に入った時代。
戦争画家になることを記録画家と自嘲するケースもあったとかな伝聞だらけで申し訳ないが、描くことが息をする如く必要な人種たちの生き様が、義父と仲間たちの戦前戦中戦後を追うと見えてくるようなでも難しく曖昧なままだ。