太平洋戦争開戦の日。
日本の奇襲から始まった。
この奇襲は日本の外交官のミス説もあるし、ルーズベルトの陰謀説もあるが、開戦となり多くの國民が報道を見て喜んだりもした。
思うことは沢山ある。
戦前、東京大空襲の記録などで有名な早乙女勝元先生のお父様の早乙女勝馬氏は劇団をやっていたと先生はおっしゃっておられたが資料がなく。住まいから考えると下町で興行かな的な。残念ながら資料があったとしても先生の実家は東京大空襲で焼けている。
戦前、夫の母も浅草で女剣劇の男役をやっており、舞台の写真とプロマイドが残っているが実家が東京大空襲で焼けたため記録はほぼ残っていない。
先月お伺いした家は江戸時代末期から浅草寺の興行と店を仕切っていた桝屋(的屋)の村上金次郎、屋号は桝金のひ孫の家。
義父の白日会の仲間で一緒に短歌の同人誌と白日会の冊子を作っていた村上鉄太郎画伯のお孫さん。
鉄太郎は的屋を継ぐのが嫌で画家を目指して太平洋画美術学校に学び、舞台美術と洋画家を両立させていたようだ。
義父たちの短歌同人まひるのメンバーは中流階級(爵位なしの選挙権を持つ資産階級)で、ぶっちゃけ裕福な家の子息。
鉄太郎は浅草の暖炉のある立派な家に住んでおられたので、義父たちの溜まり場の一つになっていた。
その集まりのことをメンバーが語るものを探しているがあまりない。戦中に亡くなられた野口良一呂の遺作画集に「まひる」の記述がある程度か。
開戦が近くなり、展覧会の絵にも軍による検閲が入り、義父の熊谷登久平と野口良一呂は従軍画家懲役や戦争画制作逃れができる企業に入る。
先日、村上鉄太郎画伯の遺品の中から出てきた野口良一呂の晩年の葉書には絵がなく、(表だった)画家でなくなったことへの自嘲とも読める文章があった。
昭和モダン、エログロナンセンスの中心地の浅草で集った画家たちは、渡航していた仲間たちが次々と帰国する中である程度の情報も得ていただろうし、文壇画壇芸能も検閲の時代から検挙も始まり例えば熊谷登久平の作品のテーマも変わる。
とか話しがズレるが、大衆芸能の資料ってどこにある的な。
早稲田や国立劇場の資料室にもほぼない。
的屋と書くと抵抗感をしめす方もいるが、江戸時代末期からの的屋の家。
江戸時代末期の的屋というと娘が徳川慶喜の愛妾となった新門辰五郎も的屋というか、浅草の的屋の総元締め?みたいなぁ。
浅草寺には村上金次郎が寄進したものも残っていると聞いた。桝金の刻印があるそうだ。
義母と早乙女勝元先生のお父様の痕跡も見つからない。いっそ、浅草の的屋、興行記録を探してみようかな考え中。
そういえば足立区に墜落したB-29の慰霊碑がらみのあれこれも的屋、興行師が絡んでいたうろ覚え。
面倒ごとの潤滑油的なこともやっていたのだろうか。