義父の熊谷登久平が戦前所属していた美術団体の白日会が2年後に100周年を迎えます。
白日会の最初の事務局は谷中清水町の富田温一郎の自宅でした。
関東大震災後の大正13年に発足し初期メンバーには私の恩師の田中裕一(光風会)の師でもある辻永の名もあります。
義父登久平は中沢弘光画伯から頂戴した好意的な批評を表装し家宝としました。
登久平は白日会の審査員もつとめ、白日会の冊子の編纂メンバーとなり、また仲の良い若手会員たちと短歌の会『まひる』を結成し、浅草に住んでいた村上鉄太郎画伯宅で即興会も楽しんでいたようです。
残念ながら戦時体制となる中で戦争画を嫌う登久平は(零戦の計器を作る会社に入ったぐらいなので反戦画家ではなく、好きなテーマで描きたい人)白日会を抜け、独立美術協会会員となりました。
(多分綺麗事ではない)
それでも登久平は死ぬまで白日会時代の写真を大事に取っており(登久平は戦後長谷川利行のことで喧嘩別れをした矢野文夫氏との写真は棄てるような烈しさをもつ)それらには今白日会に伝わってないものも含まれており、白日会に提供することになっております。冊子は既にお渡ししました。
白日会は今100周年の記録の為の資料を求めておられます。
お心当たりの方は是非ご協力頂けると嬉しいです。
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