熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

戦争と日常

編纂ミスったので、写真ぐちゃぐちゃに入ってます。

 

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かつて私は博物館で戦前戦中の調査員として働き、戦記ライターを名乗り、戦記雑誌『丸』の別冊で連載を持ち、米軍の星条旗新聞

とも協力関係にありました。
それば父方の叔父が16歳で志願し輸送船が轟沈され戦死、祖父母と父が喪失感を引きずり続けたのを見ていたからです。

平成になってから交流するようになった勝者の米軍の関係者も同じでご遺族は喪失感を持ち続けておられました。

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また、私の母方の祖父は傷痍軍人で後遺症に悩まされ続けていたそうです。母方は名古屋の高台の寺町の裕福な花屋でした。空襲にあい疎開先で次々と家族が弱り亡くなり、戦後住んだ低地の被災者住宅は伊勢湾台風で流されました。

母は私が米国戦友会と交流することには理解していましたがB29が嫌いでした。なので、私を訪ねてきたB29関係者が空襲被害者の母に会いたいと言ってきても、母は会おうとしませんでした。

その後、認知症になった母は眠っている時に悲鳴をあげるようになりました。

名古屋を襲った地震の記憶なのか、伊勢湾台風の大潮被害の記憶なのか、空襲の記憶なのか。

 

 

前婚家、元夫方は沖縄県の元士族の家で、薩摩藩の侵攻後に藩士が婿養子に入った家系です。
元義父は通信部隊で台湾におりました。
家族は沖縄の北方に避難していたので米軍艦隊と日本軍の特攻を見ておりましたが助かりました。
長く収容場におりました。
元義父の兄は戦傷により、戦後亡くなりました。

 

今婚家の義父は洋画家でしたが、戦争画を描くのが嫌で母校の旧制一関中学の官僚になった同級生の世話で、国策会社の東京航空計器に入社しました。これは反戦ではなくて、画家の徴用逃れの手段です。画家仲間の戦死は相継ぎ、川端画学校で友に学んだ島崎藤村の息子もその1人。

川端画学校も空襲被害により廃校になりました。

 

また義父が属していた洋画団体の記録も戦死報告が並びます。

敗戦後、義父が属した国策会社の役員は戦犯容疑、公職追放されていき、社内に残っていた数少ない旧制大卒の義父は進駐軍との交渉係も兼ね東京航空計器に残留しました。

 

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義父の弟は陸軍の将校として、陸軍少年飛行兵たちの教官を務めていました。
お孫さんの話では、教え子たちを戦場に送ったことをずっと後悔されて反戦を語っていたとのことでした。

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義父は我が家の裏の空襲慰霊碑を大事にするよう家人に語っていたそうです。
その慰霊碑、訪れる人は減り続け最後の関係者は数年前に亡くなりました。その方がずっと碑を手入れされていたから良い状態で残っていますが、だんだんコケが育ち始めています。

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義母↑
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義父の弟↑
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慰霊碑といえば、弥生土器で有名な東大横の坂の途中には東大医学部の戦没者慰霊碑がありました。

 

 

生き残った関係者たちが東京構内にと願うも叶わず、東大医学部を見守れる場所に建立されていましたが、いつのまにか無くなりました。

聞くと谷中墓地の東大の検体の慰霊墓地の敷地内に移すとのこと。

いつかは共に学んだ東大の敷地内にとの願いは叶わず、谷中墓地に移されるのと。

 

それも複雑な気持ちで聞きました。

 

医学部の戦争犯罪で有名なのはB29搭乗員を生体実験した九州医大の事件でしょうか。

私は調査中に偶然その調書を見つけて、上坂冬子先生が探しても見つからなかったという写真も見つけました。

その件は先生が産経新聞に書いてくださいましたが、その写真は戦犯とされた医師の遺体でした。

良いものではありませんでした。

 

その医師にも家族があり、捕虜となった米兵にも家族がある。

米兵が押したスイッチで投下された焼夷弾の下には家族たちが生活をしている。

 

B29の搭乗員だった人は日本でジェノサイドと言われることに敏感でした。

私は彼らが来日すると数年前まで上野の東照宮にあった原爆慰霊碑と、浅草寺の慰霊碑、両国の慰霊堂、大改装前の靖國神社遊就館を案内していました。

彼らは自分の子や孫がスイッチを押すことなく生きられたらと祈っておりました。

 

反戦という言葉は便利ですが、攻め込まれたら無条件に引き渡すのは違うと私は思っています。

 

今日は今義母の命日でした。

浅草で生まれ直ぐに関東大震災に遭遇。焼け出された家の為に養子に売られ、売られた先に実子が授かり礼金付けて返される。

それが続き、繰り返されました。

義母は子を授かる縁起の良い子と人気となり実家は深川で石屋を開業できるほど儲かりました。
義母は思春期にもう養子に行くのは嫌だと、養子先で学んだ唄や三味線、舞と当時としては高身長を活かして浅草の女剣劇の男役になり人気が出ました。

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そして劇団と北京に渡り、終戦の年に実家は東京大空襲で焼けました。

 

義母の実家は石屋を営んでいたといえ、子沢山で裕福ではなく、優秀だった長男と次男はそれぞれ少年飛行学校と予科練に進みました。

少飛出身の長男は本土決戦のための待機となり、次男は海軍の特攻要員となっていました。

義母の実家は運良く戦死者も空襲被害者も出ませんでしたが、北京で東京大空襲の被害を知り、手紙を東京に出し続けても返事がないまま敗戦を迎えた義母は仲の良かった中国人たちに助けられて、また復員船の権利を他の人に譲ったことで機雷被害船の搭乗者名簿に名があっても無事でした。

 

帰国後、山形県で芸者をやり、縁あって義父との間に昭和27年に長男の久を産んだ時に、この子は戦争にとられないと良かったと思ったと語っていたそうです。

戦前は男子を産むとめでたいとされるも、徴兵された時のための徴兵保険という今でいう学資保険的なものがありました。

 

その保険、徴兵が運の頃は良かったでしょうけど、徴兵の基準がどんどん緩くなってからは支払いどうなっていたのかなとたまに思います。

 

 

だらだら書いてますが、どんな時代にも国にも日常があり、戦争なんかなければ良いと思っております。

父の弟が16歳で戦死してなければ父は変な罪悪感で苦しまなかったと思うし、祖父は酒飲んでウォンウォン泣くこともなかったでしょう。

頑張らなければと空回りをした父の挫折感が外で私を作るようなことになり、面倒な育ちにされることもなかったかもとか、思います。

 

 

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