鬱々していたら他の団体からこちらは大丈夫です(意訳)的な連絡があった。
方針が変更にならないと良いな。なったとしても中間報告的なものが会誌に載っているので熊谷登久平がいたことは残る。
気持ちの整理をしないと息苦しい。
義母が亡くなるまでは義父を知る独立関係者が我が家にいらして、本を届けてくださったりしたそうだ。
2017年、事務局にメールしサンプルを添付したら返信もきたけど、あの返信はなんだったのだろ。
我が家の新聞の切り抜きスクラップとアルバムは私なら面白い
「残念ながら」との連絡が事務局からきていたら、私はもう少し気が抜けていたと思う。
第三者から聞いたから気持ちが荒れている。
義父のスクラップブックとアルバムを見たがっておられた先生は亡くなられてしまった。
特に林武さんが作った独立美術の野球部の制服姿の写真。デザインも皆んなでやったからかっこいい。
ワイワイ野球チームを組んでいた時代がありユニフォームまで作っていたのは面白くないですか?
熊谷登久平は戦前からの会員なのに独立賞をとってない。渡航もしてない美學も出てない。
一昨年、去年芸大おじさんに散々言われたのに、馬鹿じゃん私。
一昨年去年と芸大おじさんに何を言われても我慢したのは関係者に繋げてくれるって匂わしていたからですわ。有力会員や遺族と仲良しだとのこと。美術界の大物も後輩だとか。
偉い人のお車代をお付きに請求された時に断ったのが悪かったのか。
もう熊谷登久平は下手と他の人がいる前で言われても頭下げるのはやらない。
でもね、熊谷登久平を下手だ。下手だからフオーブに飛びついたと言った人は、登久平を二科展に入選させた人、1930年協会のメンバー。
白日会、北斗会、独立美術協会会員にした人たち、文展の偉い人の目も悪いって言ってるのと同じだよね。わかっているのかな。
熊谷登久平は同郷の萬鐵五郎に憧れたのです。
この宮崎精一画伯宅への戦前の滞在が、海老原喜之助と人吉を結びつけたので、川端画学校同窓の海老原喜之助も我が家に遊びに来る1人だった。
とか書くと証拠出せと言ってくるから、本当に嫌になっている。登久平と喜之助の繋がりは熊本美術館の資料にも残っているけどね、それはエビデンスではないそうだ。