熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

🎊阪神タイガース日本一 私の人生で2回目

あの頃はまだ20代前半だったわ。

バース様。

 

熊谷登久平の絵を収蔵している公立美術館を岩手県立美術館 青梅市立美術館 リアス・アーク美術館 Wikiに書き加えました。

 

 

「輝く日本油画」ー独立美術協会90回記念展ー

展示されている物故会員の作品
林武、里見勝蔵、三岸好太郎、児島善三郎、高畠達四郎、福澤一郎、野口彌太郎、海老原喜之助、須田國太郎、小林和作松樹路人、齋藤研

 

■会期:2023年11月2日(水)〜11月14日(火)
    10:30〜18:30 土曜:11:00〜18:00
    最終日:〜17:00(日曜、祝日:休)
■会場:日動画廊
    東京都中央区銀座5-3-16
    TEL:03(3571)2553

 

去年聞いていた規模と違っていた。

展示されている物故会員の作品は日動画廊のもので、商談に入っている作品もあった。

義父の川端画学校の同期で戦後も交流があった海老原喜之助さんの作品が表通りのショーウィンドウに展示されており、しばし見入った。

 

私は本人から聞いたわけではないが、熊谷登久平は萬鐵五郎に憧れて洋画家になろうと岩手の家を出、親の許可がありる中央大学商学部で学びながら川端画学校に通い、いつかは渡欧と美學にと夢を持って頑張っていたようだが家業を継がないで画家になると親に告げて勘当されている。

 

萬鐵五郎の花巻市が作成した年表を眺めていると、ほんのちょっぴり上野桜木町にお住まいになった記述があった。美學時代じゃないけれど。

唐突に萬鐵五郎の名を出したが、萬が大正12年1月に結成した『円鳥会』には若手だった1930年協会や独立美術創立メンバーも参加していた。

それが義父の独立美術協会への一種の執念の一因でもあると私は思っている。

 

https://www.city.hanamaki.iwate.jp/bunkasports/bunka/yorozutetsugoro/1001982.html

『1916(大正5)年【31歳】
1月26日、家族とともに再び上京することになり、この日花巻から上野行の夜行列車で出発。翌朝上野駅に到着。家族を駅前旅館山城屋に休ませ、萬は上野桜木町18番地の転居先に行く。
同月28日、転居先が気に入らず、新婚時代を過ごした家の近く、小石川区宮下町18番地(現・文京区千石3丁目28番地)に居住することとする。』

 

『1923(大正12)年【38歳】
1月、画友小林徳三郎とともに円鳥会を結成。この会は、萬が前年の秋頃から結成の準備を進めていたもので、設立に参加した画家には、児島善三郎、林武、前田寛治、恩地孝四郎、松本弘二などの二科会の若い画家たち、後に一九三年協会、独立美術協会の設立に参加した画家たちが多く、萬の芸術に多少とも影響され、萬が素質を認めた若い画家たちの集団であった。』

 

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