熊谷登久平が死ぬまで第1回から亡くなるまで作品を出していた独立美術協会の独立展も今年は88回目。
義父の熊谷登久平を直接知り我が家にも来ていた入江一子先生が亡くなられて、もう義父のことを直接覚えている会員は絹谷幸二先生だけになったのかも。
入江先生の作品には林武さんたちの野獣派の線が残っている気がする。
入江先生は今年電話で戦前戦後の独立美術協会の話を伺い、独立展が終わったら杉並区にいらっしゃいと言ってもらえていた。
義父たちのどんちゃんしていた時代を聞き損ねた。残念だ。
義父の川端画学校の友人だった海老原喜之助画伯の人吉のお弟子さんも亡くなられていた。
コロナ禍前に人吉の教育委員会と熊本の美術館の学芸員さんと連絡をとっていて、人吉にあった旅館古城と河鹿の画家たちのサロンのことを取材に行く段取りをしていた。
その時代を書いた書籍には熊谷登久平も出てくるし、独立美術協会の会員となる宮崎精一さんが跡取りだった河鹿に登久平が滞在した時の新聞記事ももってはいる。
宮崎精一夫婦は戦時中に下谷区谷中の初音町に住んだことがあり、その頃熊谷登久平邸には里見勝蔵も遊びに来ていたと書き残している。
それは宮崎さんの甥も書き残している。
宮崎さんは甥の先生に熊谷登久平を勧め、それが義父のバリベア会という弟子たちとの縁となり、義父の死後は松島正幸先生がバリベア会を引き継ぎ、また登久平の次男の師も引き継いだ。
その松島さんの美術館が北海道にあるが、今は専門職がおらず情報があまり引き継がれていない。
義父が死んだのは高度成長期、50年以上前だ。大勢いたお弟子さんも今我が家で確認できているのは千葉にひとりだけ。
ファンも京都にひとりだけ。
先にも書いたが面識のある独立美術協会会員も人吉の方が亡くなられ、入江一子先生も亡くなられ、絹谷幸二先生だけになった。
絹谷先生は人吉にあった独立美術協会員が集った宮崎精一先生の旅館に泊まった会員としても記録があるなかでは最後かもしれない。
数年前に熊谷登久平生誕120年をやりたいと動いて多くの壁にあたりながら、一番大きな壁は忘れられた画家であったことだった。
長谷川利行のパセリとなっていた登久平をメインにするには忘れられすぎていて、義父の故郷での生誕120年展は今月の予定だったがコロナ禍で流れ、次はあるだろうかと切なく思う。