戦前義父の熊谷登久平たちと浅草や谷中清水町で集っていた 無縁寺心澄(むえんじしんちょう)の資料は昭和20年に亡くなられた後、嘆いた実父によって焼かれ、気がついた親戚が確保したものだけしか残っておらず。(それでも残っている方かと)
私が千葉市立美術館に無縁寺のことを問い合わせたことで、我が家にある熊谷登久平の遺品の中に美術館が把握していなかった無縁寺の戦前の写真や交流関係の資料も見つかり。
またやはり私が問い合わせていた村上鉄太郎画伯の遺族宅にも資料があり、次の展示で使われるかも的なの最近はやってます。
めでたい。
↓無縁寺心澄による村上鉄太郎画伯像
↓無縁寺心澄画伯と村上鉄太郎画伯
↓村上鉄太郎画伯の遺品にあった無縁寺心澄画伯の遺作展の新聞の切り抜き。
https://www.ccma-net.jp/exhibitions/special/23-3-4-3-24-2/
『無縁寺心澄(むえんじしんちょう)本名藤井茂樹は、明治38年千葉市に生まれました。大正9年、東京都文京 区にあった川端画学校に入学し日本画を学んだあと、ザンボア図案社に勤務するかたわら水彩画を学びました。昭和3年には、帝展第2部(洋画)で初入選しています。戦前の千葉市街の風景 を数多く作品に残しています。また、千葉県美術協会設立に尽力しました。白日会会員、日本水 彩画会会員。』
https://www.chiba-muse.or.jp/ART/egakaretaboso/tokyowangan01_2.htm
後列左端が義父、3人目が村上鉄太郎
前列左端、義父の前が無縁寺心澄
実はごめん、羨ましいとか思ってます。
村上鉄太郎の生誕地の台東区にはそういうのないし。
熊谷登久平の生誕地では関係者が本当に良くしてくださって今に至るけど、画家珍しくない土地柄で義父は戦後は銀行員の日曜画家(みたいに)一関の作家による書籍に書き残されてて。私、それを何回も直に指摘された。2月にも岩手県立美術館で聞かれた。それとても嫌。
私それ挽回したい。
↓熊谷登久平の年表
血中酸素95
機械脈94
体温36.4
実測96 乱れなし
血圧116-70