熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

メモ 山本新藏後援會趣意書

某所から熊谷登久平の文が掲載されている印刷物が出てきたと連絡あり。

『山本新藏後援會趣意書』

 

 

『山本新藏後援會趣意書

畵友山本新藏君の後援禱會を催す事に致しました、山本君は山口縣出身にして斯道 に志し富田温一郎先生に師事し研鑽八年師の示敎と天奥の禀質とはよく君をして畫壇に躍如たらしめ强て畵歴を擧ぐれば中央美術展覽會、光風會展、大平洋展覽會、第一美術 展覽會、白日會美術展覽會等に其作品を發表し白日賞獲得の榮譽をも荷つて居ります、【中略】

良き結果を期待してやまない次第です。

白日會美術展覽會會員

熊谷登久平』

 

最近は富田温一郎画伯の弟子関連が集まってくる気がする。

 

国会図書館のデジタルコレクションで調べると野田市在住の時期がある。

義父は白日会関係で通っていた時期があるけど、それ関係なのかな。

山本新蔵で検索すると昭和59年10月11日に発行された山口県立美術館ニュース「天花」第二号に名が出ているけど、この人だろうか?

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この案内状は 三宅策郎画伯の遺品に含まれていたそうだ。三宅画伯の履歴は千葉県立美術館で読むことができる。

義父の熊谷登久平と同時期に川端画学校で学んでいる。義父の画仲間の無縁寺心澄も同時期。

 

https://www.chiba-muse.or.jp/ART/horiemasaaki/miyake.htm



以下千葉県立美術館のサイトより引用
『三宅策郎は、明治37年(1904)東京都赤坂区に生まれ、2歳の頃、現在の四街道に転居しました。
 大正7年に千葉中学校に入学し、堀江に学んで強い影響を受け、中学卒業を待たず、3年生の時大正11年に退学し、東京小石川区の川端画学校に転校し洋画部に在籍します。

 当時、通学の汽車の中では画学校に通う無縁寺心澄(日本画)、信田洋(金工)、大須賀力(彫刻)らが乗り合わせていたといわれます。川端画学校は2階建てで常時100名位が学んでおり、美術学校入試課題である石膏デッサンや人体を描いていました。時田直善(日本画)も在籍していました。

大正15年、川端画学校を卒業後、画家の道を選ばずに、本県の教員採用試験を受け、小学校に教員として勤めました。

昭和5年、千葉県術会の結成に参加。帝展、白日会展、千葉美術会展等に出品。

昭和45年、66歳頃から木曽、尾瀬を始めとする日本各地にスケッチ旅行に出かけます。昭和49年以後個展を中心に活躍します。昭和54年に74歳で国交回復後間もない中国へ、四街道町史編纂訪中団の一員として参加し、以来毎年訪中して風景や人物をスケッチしていました』

 

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