熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

潮来とポプラ 熊谷登久平

熊谷登久平が残した作品の中に潮来がある。
中学生時代の水彩画と、画家になってからの油絵、そして白日会の雑誌で発表が初出であろう随筆がある。
中学時代の水彩画は旧制一関中学の修学旅行時説があるが、確認はできてない。

油絵の潮来は描き方で見ると戦中でサインがアルファベットではないようなので、香取神宮鹿島神宮を描いた戦中かもしれない。

熊谷登久平展で水彩画の潮来をご覧くださった原田光先生が背景の木をポプラとおっしゃっていて、それで調べてみたら平成に潮来市の木が
ポプラになっていた。潮来はポプラが多いのかしら。

油絵にもポプラが描かれている。




『熊谷登久平画集(絵と文)より、『潮來』
古い文箱のそこに潮來見番のあけ書がはいつてゐた。
芋錢や恒友のよい畫趣であつた潮來。
あけ書のうらに鉛筆で「ここは加藤洲十二の橋よゆこうか歸へろか思案橋」とかいてある。
伊勢の古市、出雲の大社、常陸の潮來など、伊勢音頭で幕をきる、おこん貢の芝居のようになつかしいものである。

水戸光圀は水戸武士の士氣のにぶることを、心配して、水戶市中に茶屋、廓などを許さなかっ
た。
そのかはり香取、鹿島のそば、大利根のながれる潮來に、賦税のことなどおかまひなく、弓場、茶屋遊廓を許し、鄉みづから範をたれたらしい。
江戸をはなれた松前津軽、南部、伊達、相馬の奥州諸藩の千石船は、荒川沖をのぼり、利根
を下って、明日はなにしおふ鹿島灘にかかるので、これら諸藩の御用船の船子達は、舟板一まい地獄のそこと、海のなぎないまでは、陸をはなれる別れの場所と、別れかねて日夜三昧、太鼓のおとがたへなかつたとは、古老の話である。

光圀みづから筆をとつて「潮來出島の眞孤のなかにあやめさくとはしほらしや」と月の一日十
五日藩中のものをしたがへて大名行列をつくって、女郎かひに出かけたとは光圀公はなせる城主であつた。
いくすぢにも流れゆく大利根の水に、うかれ太鼓や三味線の撥の音をきいてみると、田も畑も
賣ってしもふといひたくなる潮來ではあったが、その野趣も、コンクリートの橋が出來ては、よしきりや片帆とともに泣いてみることであらう。』





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