市川市の勝海舟が熊谷伊助を偲んだ歌碑の案内板の文面が「勝海舟が愛した女を偲んだ歌碑」みたいなぁのになっていたのを、無事「勝海舟が熊谷伊助を偲んだ歌碑」に訂正してもらった。
熊谷登久平の遺品の中の謎のスケッチブックを私なりに調べて右往左往しながらも本物と証明されるまで頑張った。
畑違いの美術雑誌の『美術の窓』に共著だけど報告記事書けた。
下谷警察署の倉庫に眠っていた熊谷登久平の『サワラ砂漠』を2階のエレベーターホールに常設展示してもらえた。
岩手県立美術館に熊谷登久平の資料と、長谷川利行と付き合いがあった岩手県民の千葉青花と佐藤寛が写っている忘れられていた写真を届けた。佐藤寛、上京前は銀河鉄道の車掌さんだった。佐藤寛と長谷川利行と熊谷登久平が飲んでいた証拠も届けた。
縁あって、池之端画廊さんの豪華な企画展に熊谷登久平も入れてもらえることになった。
その絵を選ぶ時にうちにある登久平の絵を気に入ってくださった池之端画廊さんが熊谷登久平の個展を開いてくださることになった。
東京での熊谷登久平の個展は、日本橋の柳屋画廊での遺作展以後50年ぶり。
(T ^ T)
以下遺作展パンフレットよりの抜粋。
『熊谷君と私 里見勝蔵
独立展の初期の頃田中佐一郎君や妹尾正彦、熊谷登久平君等が私のもとに集ったものだ。それ故にか三人には一連の共通するものが感じらはれた。時代のセイだろう?
その一人の田中君が逝き、続いて熊谷君も他界し、私の身辺も寂しくなった。私も独立展を去って永い年月を経た。熊谷君ともまれにも会わなかったが、然し彼が独立展に終始がんばっていることや、いつしか十九平のスタイルが出来つつあるように感じていた。
その時に彼が倒れたとは、かえすがえすも残念である今度友人達の手で彼の遣作展が開かれると聞いて熊谷君の人徳が斯うした慶事につながるものとして喜ばしいことである
しかし僕が十九平と交際したのは、他の人とは異るかも知れない。
僕は彼のニヒリスティックな、アナキスティックな所が好きだったのだ。
ところが、それも彼のお人よしに被われてしまう事が多かった。十九平の伯父に――タダ居屋――と云うのがいた話を僕は聞くのが好きであった。
或いは十九平も、多分タダ居屋式に生活したのかも知れない。
瞑福をいのる。』
『林武 熊谷登久平遺作展に際して
熊谷展の作品はその人柄に見える人情に厚いことや自分の尊敬する先輩の作風に何のこだわりもなく採入れそれを自己の色感に唄い上げることを至上の歓びとした。この点の特色は独立の創立会員に続いて得がたい存在となった。
近年三越で幾度かの個展でその完成が見られるに至った。
作品、人格共に健康であった彼が近年西欧文化のキリストの伝記に自己の創意をうつしみて芸術の現実性を蘇がえらせようとこ、ろみた。この時期に重病に斃れたのだった。これらのことを考える時現今に見る芸術の理念に彼は更に至上の人間愛に炎之孤高な境地に立って何かを獲得しようと試みた。このことは何を意味するのであろうか純真な彼 熊谷君の理念とする何かを考えてやりたいと切に思うのである。』
https://twitter.com/yanakakumagai/status/1355804242288644099?s=21