熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

彩美堂と熊谷登久平 ニコライ聖堂 

今は上野の台東区役所の前にある額縁の彩美堂に貸し額縁について問い合わせ、金額で挫折。
個展の為の額縁が足らない(T ^ T)

と、悲しい思いもしたが義父と長谷川利行に絵の具を分けてくれたり、長谷川利行と熊谷徳兵衛の二人展に場所を提供してくれた彩美堂の創業者、土肥円修さんの娘さんと話せた。
昔の屋敷時代の我が家のことも覚えてくださっていた。

土肥円修の家は大名時計の前にあり、宗善寺さんの前でもあり、つまり我が家の超ご近所に土肥家はあった。
戦後、土肥家の息子さんが投資で失敗し、長谷川利行の絵を纏めて大名時計の上口さんに売った。
その絵を矢野文夫さんたちが贋作と言い、土肥さんの息子さんが登久平に鑑定を頼んできた。
中には登久平の部屋で描いた作品もあり、ほぼ本物。
その話しは面白おかしく新聞に載り、義父登久平はそれも含めて悲しんでいたとか。

その騒動について義父は随筆を残している。
それを富士見坂の人がサイトに転載しておられるので写メを転載させてもらうです。

https://fujimizaka.wordpress.com/2013/11/30/hasegawa_toshiyuki_3-3/amp/

あと、義父の遺品板絵にニコライ聖堂の絵があったので洗ってみた。
義父は私が知るだけでニコライ聖堂を3度描いている。
1枚は我が家から青梅美術館へ、残念ながら今は倉庫で問い合わせたが公開予定はしばらくないそうだ。

1枚は人吉の画家、谷中初音町に住んでいたこともある旅館古城を経営していた宮崎精一さんが持っていたらしいが、古城に飾られていたとか。残念ながら今は行方不明だ。
去年人吉の教育委員会に連絡して係の人が親切で昔を知る人たちに連絡をしてくれた。
コロナ禍が収まったら調査にうかがう予定だったが水害があった。そしてコロナ禍悪化中。

最後の1枚は今回再発掘した板絵のニコライ聖堂。

熊谷登久平はニコライ聖堂の下の神田錦町中央大学に通い、そこから後楽園球場の近所の川端画学校に通っていた。

関東大震災の時に神田錦町中央大学は焼け、ニコライ聖堂のある駿河台に中央大学は移転した。大正14年(1925)に中央大学卒業。

震災前のニコライ聖堂と復興するニコライ聖堂を見ているはずだ。

昭和6年(1931)年に登久平は独立美術協会の第1回に『聖堂付近』を出品している。
これが今青梅美術館にあるものなのか、私は確認の仕方がわからない。
でも三点のニコライ聖堂の作風の違いが私には面白いし、豪胆と言われていた熊谷登久平が迷いながら自分の絵を探していたのが見える気がする。

日本ハリストス正教会教団「東京復活大聖堂」の沿革』によると、ニコライ聖堂は1929年に完成している。

登久平が独立美術協会で発表したのは1931年。
これは多分青梅の昭和モダン的なニコライ聖堂。
野獣派している熊本県人吉にあったはずのニコライ聖堂は1930年。
今回私が洗ったニコライ聖堂は記録が見当たらない。いつ描いたのだろう。初期作品だろうけど。
初期作品といえば、今日額縁を洗ったら古い絵が出てきた。
家と題はあるけど、千厩の生家は日本家屋だ。
この洋館は何処だろ。

http://nikolaido.org/%e6%b2%bf%e9%9d%a9/

「大聖堂の復興工事は1927年9月25日に起工し、1929年11月30日に終了。同年12月15日、復興された大聖堂の成聖式が行われる。復興設計者は岡田信一郎氏。」



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