熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

#勝海舟 の歌碑のトンデモ説明文、訂正してもらえそうだ。#市川市 #行徳 #熊谷伊助

市川市の博物館から電話があった。
用件は勝海舟が熊谷伊助を偲んで読んだ歌の碑のこと。

行徳から勝海舟の所に女中に行ったチカ。
彼女は勝海舟と交流があった伊助と出会い結婚したかもなんだけど、熊谷伊助とチカが夫婦であったのは間違いない。
なのに、なんと伊助の妻のチカが勝海舟のお手つきになり、嫉妬されて周囲に虐められ病気になり里に帰り亡くなったと言い出した歴史家がいた。
(碑文読もうよ。今月ですら読めたよ伊助の文字とか)
それを悲しんだ勝海舟が彼女のために読んだ歌碑だと市川市の偉い先生である女性が出した商業誌で紹介されていて、市が案内板まで建てていた。
それが、めでたく訂正してもらえる方向になったとの電話報告。

案内板に気がついた私が市川市役所に電話をしても責任部署が分からず、千厩の本家の現当主も電話をしたそうだし、千厩の資料館の女性も電話したけどうまく繋がらない。
千厩の郷土史家も驚き、伊助の直系の熊谷家も驚いていたトンデモ案内板。

市役所がダメならばと問い合わせた市川市立の歴史博物館と文学資料室の学芸員さんは伊助の碑だとご存知だった。
市川市に勤めておられた池田マユミさん、もしくは田中マユミさんという女性が熊谷一族や寺の檀家総代にも伊助のことを聞いてまわられていたとの伝承もある。
なのになぜ勝海舟が愛した女に捧げた歌碑となるのか。
まあトンデモ案内板は立ってしまった。今もある。

役所仕事は私もある程度知っているから、案内板の内容を訂正したり立て直すのにはいくつも判子が必要となるし予算の問題もあるのもわかる。
実は親戚から引っこ抜けないのかとたずねられたけれど、それ器物破損で抜くにもハンコがいる。

今月、お寺さんの先代住職夫人と檀家総代にお会いし話ができたことを市川市の博物館に報告をした。すると、学芸員さんがお寺さんに話が通じたら動きやすいと、館長さんと共に動いてくださり、今朝報告をいただけた。

良かった。

少し情報を整理すると、今岩手県千厩の熊谷本家、伊助と義父の熊谷登久平の生家にある歌碑の拓本は伊助の直系宅から、初代か二代目の半兵衛が持ってきたもの。
義父は生家が建てたと書き残しているが、片瀬江ノ島の熊谷家の守美さんの随筆だと勝海舟から碑を贈られたようにも読める。

落ち着いたら前後の整理せんと。
でも石碑は熊谷伊助を偲んだもので間違いないし、今も名前が読み取れる。
あのトンデモ案内板が正しい内容になるのはめでたい。
(⌒▽⌒)