熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

熊谷伊助の文を岩手から神奈川への飛脚をやった

熊谷家に嫁いだ頃かな、義父の熊谷登久平が書き残したのを読んでいて、勝海舟日記に出てくる伊助が登久平と同じ生家と知り驚愕した。

登久平は行徳に勝海舟が伊助を偲んだ歌碑があると書き残していたのでググったら、いつのまにか勝海舟がオテツキした女性を偲んだ歌碑がとされてて案内板まで立っていたのは今では笑い話。

私、資料揃えて抗議して案内板書き直してもらいましたからね。

その資料を揃える過程で熊谷一族の本家がある岩手県一関市千厩にお邪魔して、(あっ熊谷登久平の資料も探しに行ったのよ。)熊谷伊助の手紙が残っていたことにビックリして。

 

ざっとみただけで、慶応の大火で雷門が焼けた話題、江戸の流行病、死者、物価、贈答品の送り先、尊王攘夷の武士が江戸の治安を悪くしている。
蔵前から横浜移住後の文。
などなど。

 

それらを登久平が可愛がっていた甥の英三さんが資料館を作ると大事にしていたのだけれど、急死された。

 

昔、英三さんとその父で登久平の弟の広介さんを訪ね伊助の資料目録を作っていた学芸員の存在を知り、連絡をして、目録にない文書もあると言ったところ調査したいとの話だったけどコロナ禍で予定がつかなくなった。学芸員さん70近い。

 

で、恐れ多くも私が運ぶことにした。


ペルリから名刺をもらったという熊谷伊助が生家に送り続けた100をこえる文を預かり、岩手県から横浜に届けるまでの緊張は半端なかった。

登久平が誇りに思っていた血族の手紙、それをスーツケースに入れて新幹線で運ぶ緊急。

帰京後、次の展示準備で即横浜に運べないため家に置いている緊張感。

で、今日、地下鉄乗り継いで横浜に運んだ。

 

めちゃくちゃ寒かった。

 

でも無事渡せたのでホッとしました。

 

もうね、繰り返すけれど凄く緊張したの。

 

で、私は横浜で公開されているリアルサイズGUNDAMさんに乗るんだと心のご褒美として楽しみにしていたんだけど、火曜日は定休日でした。

GUNDAM氷川丸の桟橋から眺めました。

 

山下公園のバラ、見頃でした。

 

 

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