熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

好きでクレームを入れてるわけではない。勝海舟が熊谷伊助を偲んだ歌碑のトンデモ誤読

私は不機嫌である。
なぜ、不機嫌かというと10日ほど前に訂正記事を書いて欲しいと連絡した先が、今忙しいから2、3日後に電話をすると言っておいて、結局うんともすんとも連絡がないので不機嫌だ。

クレーム入れた先は数年前にも同じこと伝えて、その時も折り返しの連絡はなく、それで私は岩手県の資料などを各所にお手数をお願いして資料を揃え動いた。

数年前は誰にでも間違いはあると思ったが、今回ので2回なので確信して書いておられるだろうと、私は強い抗議と掲載誌での訂正文を求めた。資料提供も申し入れた。

市川市で配達される読売新聞第一から第四土曜日に折り込まれる『市川よみうり』の2015年4月の第二週の号に掲載された、中津攸子さんの『地元発掘!こんなところに ㊙︎ Story ヒストリー 第19回』は、行徳の自性院にある勝海舟の歌碑について書かれている。
勝海舟が熊谷伊助を偲んだ歌碑なのに、手をつけた女を偲んだ歌碑だと書いておられる。
建立したのは、熊谷家では熊谷家がやったと伝わるのに記事には行徳の福沢諭吉の弟子が勝海舟に許可を得て建立したと書かれている。
福沢諭吉勝海舟は仲が悪かったと不勉強な私は思い込んでいたから、福沢諭吉の弟子がスルッと連絡できることにも驚きだったし、この記事の内容だと弟子が読みくだしをめちゃくちゃ間違えたことになり、行徳の教養人の弟子にも失礼ではなかろうか。


1984年発行の本にも勝海舟のお手つき女への歌碑説を書いて、31年後にも書かれた。しつこいがうっかりミスではなく確信だろう。



中津先生が自性院の勝海舟の歌碑ことを商業でお書きになられているのは私が確認したのは二例だが、他にもあったらとても残念だ。


まずは(市川市立図書館のレファレンスより引用)
【「観音札所のあるまち行徳・浦安』(中津攸子/文,石井久雄/写真 中山書房仏書林 1984)p.32-33に、「秋本久兵衛の娘が勝海舟の邸に奉公に上がり、海舟に愛されたらしい。(中略)お宿下りをし、亡くなった。(中略)その死を聞いて勝海舟が自筆の歌を送ってきたのを碑に刻んである。」とある。】
この書籍は私も確認し中津先生には抗議をした。

勝海舟が熊谷伊助を偲んだ歌碑のことは、伊助の生家の岩手県千厩の日野屋の生まれの一人である義父の熊谷登久平も昭和16年に出した本に残している。
生家の日野屋にも、伊助直系の子孫が営む片瀬写真館にも資料はある。
市川市歴史博物館にも碑の調査報告書がある。
つか、しつこいけど石碑に刻まれた文字は今も読める。

そして自性院に建てられていた案内板の勝海舟の女説の文面は去年やっと訂正してもらった。

で図書館にも資料として残る市川よみうりにも訂正をのせて欲しい。
これ、モンスタークレーマーになるのだろうか?

オーラルヒストリーであったとしても、何処に住む誰から聞いたは書かないとヒストリーにはならないのではないか?
もしくは参考文献を書いて欲しい。


自分の親の世代の名を成しておられる方に対して失礼かもと思いながら最初に連絡をしてから何年にもなる。

勝海舟にも失礼だと思う。





https://www.city.ichikawa.lg.jp/library/db/1043.html

https://www.travel.smileandhappiness.net/jishoin-gyotoku.html

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000188524

以下、上記よりコピーアンドペースト
『提供館 市川市中央図書館 (2310001)
管理番号(Control number) 市川20160101-06
事例作成日(Creation date) 2016年01月01日 登録日時(Registration date) 2016年02月25日 10時10分 更新日時

(Last update) 2016年02月25日 10時10分
質問
(Question)
本行徳1丁目の自性院にある勝海舟の歌碑「よき友の消えしと聞くぞ我この方心いたむるひとりなりたり」について、案内板には「行徳から奉公に上がった娘を悼んだ歌」とあるが、熊谷伊助の追悼歌という説もある。どちらが正しいのか。
回答
(Answer)
自性院は行徳観音霊場第4番札所。
境内の案内板には「勝海舟邸に奉公に上がり、海舟に愛された娘が亡くなり、その死を悼んで自筆(?)の歌をよんだものを碑に刻んでいる。」とあり。
「行徳てらまち会」への照会によると、案内板は平成17年の市への「景観まちづくり」提言書を受け、順次、市川市都市計画課により設置されたもので、各寺社の案内板の内容は、その寺社に一任して作られたとのこと。
『観音札所のあるまち行徳・浦安』(中津攸子/文,石井久雄/写真 中山書房仏書林 1984)p.32-33に、「秋本久兵衛の娘が勝海舟の邸に奉公に上がり、海舟に愛されたらしい。(中略)お宿下りをし、亡くなった。(中略)その死を聞いて勝海舟が自筆の歌を送ってきたのを碑に刻んである。」とある。

ただし、以下の資料では、熊谷(松屋)伊助追悼歌説が採用されている。
勝海舟全集 別巻来簡と資料』(勝海舟/著,勝海舟全集刊行会/編 講談社 1994)p.832には、「松屋伊助追悼歌碑」として紹介。『幕末の市川:企画展図録』(市立市川歴史博物館 2003)p.44でも、「勝が、「よき友」熊谷伊助の死を悼んで建てたもの。「日記」の中には、「松屋伊助」と記されている。伊助は、陸奥国松沢(現岩手県千厩(せんまや)町)の出身で、屋号の「松屋」はこれに由来する。(中略)伊助は、奉公した江戸の酒屋の縁で行徳出身の妻と結婚したと言われている。」との掲載あり。
『市川の文学 詩歌編』(「市川の文学」調査研究会/編集 市川市文学プラザ 2011)p.135でも、「伊助の追悼歌」説を採用している。

以上より、史実としては、伊助を追悼した歌であるが、案内板は、地元での俗説を紹介したものとして捉えられるといえる。】



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