熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

熊谷伊助の死を嘆いた勝海舟の歌の石碑がある寺の檀家の総代さん

熊谷登久平が尊敬していた熊谷伊助は、登久平の曾祖父の兄であり、同じく岩手県千厩の日野屋の出身なので登久平の実家には伊助の手紙が結構残っている。
伊助の早逝を嘆いた熊谷家は勝海舟から贈られた歌の石碑を正妻の実家の墓所に建てた。
正妻のチカには子が生まれなかったので伊助の死後、千葉県の行徳の実家に帰り亡くなる。
岩手県千厩の熊谷家にとっては大切な長男と嫁なので、熊谷家の墓にも伊助とチカの墓碑を建てている。
勝海舟の歌碑については千厩と谷中と片瀬江ノ島の熊谷家では伊助を偲んだ内容と伝わっているが、碑が建っている千葉県の行徳のチカの実家の菩提寺にはいつのまにか勝海舟がお手付きした女性を偲んだ歌碑と伝わり、案内板にもそう書かれている。
登久平の随筆で伊助の歌碑の存在を知った私は案内板の内容に驚き、行徳を吸収合併した市川市の博物館と文学資料館に問い合わせた。
これは何回か書いたよね。
少なくとも昭和40年代はじめまで登久平が通っていた頃はそうなってなくて、登久平より若い伊助の直系の守美さんが行かれた頃もそうなってない。

その頃のご住職が亡くなり、次の次のご住職夫妻の頃に歴史家を名乗る人が現れてチカは勝海舟の愛人でと素敵な話しをしてくれて、今では商業出版までされててわやくちゃな感じになっている。

市川市学芸員さんたちは伊助の碑だとご存知だけど、そりゃ勝海舟日記に載ってるもんね。
全訳が出たの平成になってからだけど。

でも案内板の担当部署が違うので面倒な話しになってて、私は碑を作った家には拓本があるはずと、岩手県千厩の本家に押しかけて確認し、それを碑のあるお寺さんに連絡してお盆とお彼岸が終わったらお伺いすることになっていたけど、あの台風でお寺さんの屋根がやられたそうでのびて、やっと今月お伺いできることになった。

総代さんは地元史にも詳しくて片瀬江ノ島の熊谷家にも聞き取りに行っておられた。

市川市の星亮一さんのような作家さんが商業誌で発表された勝海舟の歌碑のチカは勝海舟が愛した女で、彼女の死を嘆いたとかの話は本当に困ったもんである。
作家さんは市川市の名誉市民なので本当に困る。御存命なのに碑が建っているほど市川市の文化的象徴。

市川市、案内板書き換えてくれるだろうか。
あんなに図書館や博物館が充実しているのに縦割り行政は困るわ。